第四話 現代知識無双、初日にして敗北
ようやく静養生活から解放されることになった妙子。
これで少しは現代人らしい暮らしを取り戻せる……と思いきや、彼女の前に立ちはだかったのは、二百五十年前の常識でした。
知識はあっても、証明できなければ無双はできません。
それから、さらに数日。
今日はお医者様の検診の日だった。
「もう大丈夫です。明日からは公務に復帰されても問題ありません」
お医者様の、ありがたいお言葉。
やった。やっとこの牢獄のような静養生活から解放される。普通の生活に戻れる。あのおまる生活ともおさらばだ。
さて、自由になったと思ったら、やはり騒ぎ出すのが日本人の性である。
これまでは、ベビーパウダーやら香水やらをかけられて、亜麻布でごしごし拭かれるだけの完全介護生活だった。けど、もうその必要はない。
そこで、さっそく侍女に聞いてみた。
「ねぇ、そろそろお風呂に入りたいんだけど?」
すかさず「はぁ?」と、怪訝な顔をされた。
あれ。そういえば海外って、お風呂よりシャワーのほうが一般的だったっけ。文化の違いか。そう思い直して、言い換えてみる。
「あ、シャワーでもいいんだけど?」
すると今度は、なんだか残念な子を見るような目で、ため息までつかれた。
「はぁ……。王太子妃様のご出身であるオーストリアは、もっと文明的な国だと思っておりましたのに。まさか、お風呂に入るような野蛮で遅れた国だったんですねぇ」
露骨な悪態。
めっちゃむかつく。なんなのこいつら。わたしは平成生まれの令和育ち。あんたらなんかとは比べ物にならないほどの文明人だっちゅーの。湯船に毎日浸かる民族だぞ。
「いいですか、王太子妃様。もしお風呂に入ったら、どうなるかご存じですか?」
「え? 垢が取れて、角質も取れて、お肌すべすべ?」
「違います。毛穴が開くのです。毛穴が開くと、どうなるかわかりますか?」
「毛穴の詰まりが取れて、血行促進? とっても健康的?」
「いいですか。毛穴が開けば、そこから体の中に、よくないものが入ってくるのです。王太子妃様は、黒死病という恐ろしい病をご存じですか? かつて大陸の人口を半分近くも奪ったという、あの恐ろしい疫病です。あれは、開いた毛穴から悪いものが体内へ入り込んで広がったと言われているのですよ。お湯や水を浴びれば毛穴が開き、体の守りが著しく弱まる。つまり水浴びや湯浴みというのは、自ら病に身をさらす、それはそれは危険な行為なのです」
「…………」
ぐうの音も出なかった。
いや、現代医学の知識から言えば「毛穴から病気が入る」というのは完全な間違いなんだけど。むしろ体を清潔にしないほうが感染症のリスクは上がるんだけど。でも、ペスト――黒死病の恐怖を肌で知っているこの時代の人たちにとっては、これがれっきとした「最新の医学」なのだ。理屈としては一応、筋が通っている。間違っているけど、信じるだけの理由がある。
それを「いや違うし」の一言で論破するには、わたしは細菌だの感染経路だのを証明する手段を何も持っていない。顕微鏡もなければ、論文もない。あるのは「なんか知ってる」という、根拠を提示できない確信だけ。これでは、ただの異国のわがまま娘である。
「……はぁぁぁ。オーストリアって、どこまで原始的なのかしら。ちょっとびっくりです」
「いやいや、あなたこそ何言ってんの。意味わからない……とも、言い切れないのが悔しいんだけど」
完全に話が噛み合わない。いや、噛み合わないというより、土俵が違いすぎる。文明人(自称)同士の、二百五十年の時差をまたいだ対話は、まるで成立しなかった。
あきれ切った侍女は、ちょうど帰ろうとしていたお医者様を呼び止めた。どうやら専門家から説得してもらおうという作戦らしい。
そしてやってきたお医者様は――侍女と寸分たがわぬ同じことを、それはもう自信満々の真顔で言い出した。曰く、入浴は毛穴を開いて病を招く、万病のもとであると。当代きっての名医が言うのだから、この世界ではそれが正解なのだ。
なんなのこの国。
わたしの知ってる世界じゃない。似てるだけの、完全異世界じゃない。
そのくせ、魔法もない。魔法学園もない。聖女もいない。チート能力をくれる女神様も出てこない。転生特典どこ行った。どんだけハズレ世界に飛ばされちゃったのよ、わたし。
くそっ。まあいい。百歩譲って、お風呂は勘弁してあげる。
せめてトイレくらいは、一人でゆっくりできるようになりたい。あの羞恥プレイからは、なんとしても卒業したい。こいつらはもう放っておいて、自力でトイレを探そう。そう決意した。
――が。
部屋着のままでは、そもそも部屋から出してもらえなかった。
「お着替えもせず出歩くなど、とんでもございません」
結局、その日もおまるのお世話になる妙子であった。
トイレへの道は、遠い。
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