第百十二話 英雄の、作り方
今回は、妙子の知らないところで進んでいたお話です。
「あの本」は、ただの決算報告ではありませんでした。
英雄は勝手に生まれるものではなく、作ることもできる。
そして、その代償を払わされるのは。
たいてい、英雄本人ではありません。
病院騒動の裏側と、少しずつ変わっていくルイ君のお話です。
――これは。
妙子の、知らないところで。起きていた話、である。
* * *
財務省。長官執務室。
窓の外では。パリの街が、騒がしい。
遠くから。怒号と、何かが割れる音が。風に乗って、届いてくる。
その喧騒を。背に受けながら。
ネッケルは。椅子に、深く腰を沈め。組んだ足の上で。指を、遊ばせていた。
「長官」
部下の財務官僚が。おそるおそる。口を開いた。
「あの本。本当に、出しちゃって。よかったんですか?」
「ふん」
ネッケルは。薄く、笑った。
「国民は。真実より、物語を求めるものだ」
「はぁ……」
「人というのは。見たいものを見て。見たくないものは、見ない。だから。見たいものを。見せてやった、だけだ。奴らが見たい物語。見たい数字を、な」
「しかし、さすがに。わかる人が見れば。一目で、看破されますよ」
「ふっふっふ」
ネッケルは。窓の外を、ちらりと見た。
「たしかに、そうだ。だが。新聞を見ろ。国民を、見ろ。誰も、疑っていない」
「……」
「わかる者は。どこかには、いるのかもしれないが。少なくとも。この国には。いないようだな」
官僚は。何も、言い返せなかった。
言い返せないのは。それが、事実だからだ。
あの本は。国家財政の、決算書。
だが。その中身は。巧妙に、作り上げられた。物語、だった。
黒字の部分だけを、大きく見せ。借金は、注釈の小さな文字に。隠す。
国は黒字。長官は英雄。
それが。この本の。語る、物語。
「いいのさ」
ネッケルは。天井を、仰いだ。
「今この国が求めているのは。財政再建では、ない。英雄だ」
「……」
「だったら。なってやればいい。英雄に、な。たとえそれが。作られた英雄で、あったとしても。求めるものを、与えてやる。それが。貴族の、役目なのだよ」
官僚は。ため息をつきながら。頬を、さすった。
「長官は。それでいいかもしれませんが。先日。ヴァロワのやつに。ぶん殴られましたよ。おかげで。この、あざです」
「おー。そういえば。あいつら、うまくやったな」
ネッケルは。愉快そうに、目を細めた。
「まぁ。種は。あちこちに、ばらまいておいたから。そのうちの一つが、なくなっても。別に。痛くも、かゆくもないが。なかなか、面白い見ものだったよ。はーはっはっは」
「笑いごっちゃ、ないってのに……」
官僚は。あざだらけの頬を、さすりながら。
深い、深い。ため息を、ついた。
* * *
――同じころ。
王宮。王の、執務室。
義叔母が。扉を、勢いよく開けた。
「ルイ。どうすんのよ。あの本」
ルイは。机に向かったまま。顔を上げた。
目の下に。濃い、濃いクマ。頬は、こけている。
あの。鍵いじりが好きで。おどおどしていた少年の面影は。もう、ほとんど。残っていなかった。
「はい。わかっております」
「わかってるだけじゃ、駄目なのよ。このままじゃ。王宮は、立ち行かなくなるわよ」
「……」
「暴動は。もう、パリだけじゃないの。地方でも。あちこちで、火が上がってる。新聞は。連日、王宮を叩いている。貴族たちも。動揺してる。このままじゃ――」
「わかっています」
ルイの声は。静かだった。
静かだけど。その奥に。重たいものが。沈んでいた。
「しかし。だからといって。『あれは嘘でした』なんて。言おうものなら。それこそ。王宮どころか。国ごと、消滅してしまいます」
「……」
「なんとか。改革を。断行するしか、ないかと」
義叔母は。じっと。ルイの顔を、見た。
「それ。あなたに、できるの?」
「……」
「あなたじゃなくても。テレーのような愛国者なら。自分で、やりとげるでしょうけど。ネッケルじゃ、無理よ」
「……」
「あいつは。国なんて、どうでもいいのよ。あいつが欲しいのは。支持率だけ。他は。どうなろうが、知ったこっちゃない」
ルイは。しばらく。黙っていた。
そして。
「そう、思います」
静かに。認めた。
「でも。もう、この国は。王宮の予算を削った程度で。どうにかなるような状況では、なくて」
「……」
「たとえ。嘘だとわかっていたとしても。僕は。ネッケルの嘘に。付き合っていくしか。ないんです」
義叔母の目が。一瞬。揺れた。
この子は。いつの間に。こんなことを。言えるように、なったのか。
あの。おどおどした少年が。嘘の上に立つ覚悟を。語っている。
「……はぁ。そうね」
義叔母は。ため息をつきながら。でも。どこか。認めるように。頷いた。
「でも。とりあえず。目先の問題は、王宮よ。この騒動を。何とかしなきゃいけないわ」
「そうですね。とりあえず。王宮勤めの官僚や貴族を集めて。協力を、仰いでみます」
「いいえ」
義叔母は。首を、横に振った。
「官僚や貴族だけじゃ。もう、足りないわ」
「え?」
「王家の者、全員。集めなさい」
ルイが。目を、見開いた。
「全員、ですか」
「全員よ。あの子も、含めて」
あの子。
その一言で。ルイは。誰のことか。すぐに、わかった。
「……マリーも、ですか」
「えぇ。あの子には。あの子の、役目が、あるわ」
義叔母は。それ以上。何も言わなかった。
ルイも。それ以上。聞かなかった。
二人とも。わかっていた。
この国を救うために。今、一番必要なものが。何なのか。
それは。財政改革でも。軍事力でも。ネッケルの嘘の上塗りでも、なくて。
もっと。単純で。もっと。人間くさい。
希望、だった。




