第百九話 英雄から、毒婦へ
英雄から、毒婦へ。
人々の評価がひっくり返るのに。三日も、かかりませんでした。
事実は届かず。悪意だけが、よく広がる。
そんな中。王妃様の代わりに立ち上がったのは。
よりにもよって。あの、クソリプ髭でした。
ドブレは。「もう少し様子を見ましょう」と、言った。
その「もう少し」は。
三日と、もたなかった。
* * *
最初に変わったのは。金を貸してくれた商人たちだった。
あの本が出回った翌日から。顔を出す頻度が。急に、増えた。
「いやぁ、王妃様。お変わりなく? ほほほ」
笑っている。笑っているけれど。目が、笑っていない。
言葉の裏に。「うちの金、大丈夫ですよね?」という。不安が、ちらちら。見え隠れしている。
ヴァロワが。その対応に。朝から晩まで、追われるようになった。
あの冷血眼鏡が。一日中、商人たちに囲まれて。「大丈夫です」「健全です」「ご心配には及びません」と。同じことを。何十回も、繰り返している。
いつもの涼しい顔が。さすがに。少しだけ、疲れて見えた。
* * *
次に変わったのは。市民用の、第一病棟だった。
ことあるごとに。病院スタッフに。食ってかかる患者や、患者の家族が。増え始めた。
「おい! 王妃の病院は、国の金で。ぬくぬく太ってるんだろ!」
「税金泥棒が! おれたちの金を、返せ!」
「貴族にはぺこぺこして。おれたちは後回しか!」
スタッフたちが。必死で、なだめている。
けれど。怒りの火は。なだめるほど。大きくなる。
あの本に書かれた「巨額の政府補助金」が。一人歩きしているのだ。
実態は。国立慈善病院時代の予算の半分以下。
それを。民間病院の利益で補って。むしろ政府に負担をかけないように。やりくりしてきたのに。
そんな説明は。誰も、聞いてくれない。
「政府の金で、王妃が贅沢している」。
あの本の数字だけが。独り歩きして。人々の怒りの燃料に、なっていく。
* * *
そして。
しまいには。
病院の入り口に。ゴミや石を、投げつける者まで。現れた。
朝。出勤してきたスタッフが。入り口の前で。立ちすくんでいた。
壁に。赤い塗料で。こう書かれていた。
「毒婦の病院」
……毒婦。
その二文字を。わたしは。じっと、見つめた。
ついこの前まで。「王妃様万歳」と、叫んでいた人たちが。
ついこの前まで。「おれたちの救い主だ」と。涙を流していた人たちが。
あの本、一冊で。
手のひらを、返した。
「英雄」が。一夜にして。「毒婦」に、なった。
* * *
知ってた。
知ってたよ。
人の期待なんて。こんなものだって。
前世のSNSで。嫌というほど、見てきたじゃないか。
フォロワーが増えて。ちやほやされて。一つのミスで。いや、ミスですらない。誰かの悪意のある切り取りで。一晩で、全部ひっくり返る。
あのときの。あの感覚。
掌返しの、こわさ。
87話のあの村で。すがるような目を見て。「期待がこわい」と、目を逸らした。あのときの予感。
あれが。
国家規模で。来た。
* * *
理事長室で。わたしは。椅子に、座っていた。
何もできなかった。
書類を処理する気力も。総回診に出る気力も。ない。
風呂にすら。入る気に、なれなかった。
あの「はぁ〜」が。出ない。
ヴァロワは。商人対応で。部屋にいない。
シャルティエは。スタッフのケアで。走り回っている。
ロジエは。患者と家族の仲裁で。待合室に張り付いている。
クレールは。出張所からの報告をまとめて。地方でも同じことが起きていないか。確認している。
みんな。動いている。
わたしだけが。止まっている。
……あのさ。
ネッケルさん、とやら。
わたし。あなたに。何かしましたっけ?
会ったことすら、ないんですけど。
テレーのときも。テュルゴーのときも。思ったけど。
会ったこともない人に。人生を引っかき回されるの。
もう。四回目、なんですけど。
* * *
そのとき。理事長室の扉が。静かに、開いた。
ドブレ、だった。
「王妃様」
「……なに」
「記事、書きますよ」
「……は?」
「こんな粉飾決算書に。黙ってやられてたまるかっての。おれの書いた記事で。あの本の嘘を。一つ残らず、引っぺがしてやりますよ」
ドブレの目が。ぎらぎらと。光っていた。
あの。クソリプ髭の。ぎらぎらした目が。
今は。なぜか。ちょっとだけ。頼もしく、見えた。
「……あんたに、頼むと。ろくなことに、ならないのよ」
「はは。今さら、何を。ろくでもないことなら。おれの十八番ですよ」
……くそ。
なんでこいつは。こういうときだけ。かっこいいこと、言うのよ。
「……勝手に、しなさい」
そう言って。わたしは。ぷいっと、横を向いた。
目が。ちょっとだけ。潤んでいたのを。見られたく、なかったから。




