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第百六話 つかの間の、極楽

今回のお話は、王妃様のささやかな朝風呂回です。


病院では極楽、王宮では不穏。

お湯で体は温まっても、胃の奥の嫌な予感までは流れてくれません。


絶好調のあとには、だいたい何かが起きる。

本人だけが、まだ気のせいだと思っています。



最近のわたしには。


ささやかな、けれど。何にも代えがたい。日課が、できた。


朝。誰よりも早く、病院に来る。


まっすぐ。第二病棟の、王妃執務室を抜けて。奥の、あの扉を、開ける。


そして。


「はぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜」


おっさんみたいな声が、出る。


お湯。あったかい。きもちいい。


肩まで、つかる。首まで、つかる。あごまで、つかる。


もう。このまま。溶けて、なくなりたい。


前世では。当たり前すぎて。ありがたみなんて、一ミリも感じなかった。お風呂。


それが今。こんなにも。尊い。


人類の、至宝。


文明の、結晶。


二百五十年ぶりの、極楽。


「はぁぁぁぁ……」


もう一回。おっさん声。


だめだ。止まらない。何回入っても。この「はぁ〜」が。勝手に出る。


前世の銭湯で。おじいちゃんたちが。なんであんなに、でかい声で「はぁ〜」って言ってたのか。


今なら、わかる。


あれは。叫ばずには、いられないのだ。


* * *


ちなみに。この風呂のことは。王宮では、秘密にしている。


正確には。秘密にせざるを得ない。


「王妃が、病院に風呂を作って。毎朝入り浸っている」


なんて知れたら。侍女たちが何を言い出すか、わかったものじゃない。


「毛穴が開いて病気になる」から始まって。「野蛮なオーストリアの風習を持ち込むな」だの。「王妃が不潔な習慣に染まった」だの。


もう、目に見える。


だから。表向きは。「朝の理事長業務」ということにしてある。


朝早く出勤して。一人で、執務室にこもる。なんて勤勉な王妃でしょう。


実態は。トイレの隣の風呂で。おっさん声を出しながら。溶けている、だけなのだけれど。


まぁ。知らぬが仏。


知らぬが、極楽。


* * *


風呂から上がって。さっぱりした顔で、理事長室に座ると。


一日が、始まる。


最近のわたしは。割と、ご機嫌である。


第二病棟も、オープンが近い。貴族向けの特別室は、すでに予約が入り始めている。


出張所も。ゆっくりではあるけれど、着実に増えている。


クレールは、相変わらず、しっかり者だし。シャルティエは、相変わらず、汗かきだし。ロジエは、相変わらず、妖精……もとい、元気だし。


ドブレは。相変わらず、クソリプだけど。最近は、割と使えるクソリプに、進化した。


そして。ヴァロワは。


相変わらず。冷血眼鏡、である。


まぁ。みんな、元気。


病院は。わたしの、居場所だ。


ここにいるときだけは。わたしは、わたしでいられる。


* * *


問題は。


病院の外、だった。


最近。王宮に帰るのが。前にも増して。憂鬱に、なっている。


廊下ですれ違う貴族たちの目が。日に日に。険しくなっていく。


テュルゴーが去ったことで。増税の話は、いったん消えた。


けれど。その代わりに。何か別の、もっと重い空気が。宮殿全体に。じわじわと、広がっている気がする。


義叔母様たちの顔も。最近、暗い。


以前は。食事のときに。たわいもない話をしてくれたのだけれど。最近は。眉間に皺を寄せて。誰かと、ひそひそ話をしていることが。多くなった。


ルイ君は。


もう。ほとんど、会えない。


たまに廊下ですれ違っても。目の下のクマが。前より、さらに濃くなっていて。


声をかけようとすると。「大丈夫、心配しないで」と。小さく笑って。去っていく。


あの笑い方が。こわい。


大丈夫じゃない人ほど。大丈夫、と言うものだ。


……でも。


わたしには。何も、できない。


テレーのときは。はめられて、巻き込まれて。結果的に病院を作った。


テュルゴーのときは。物価高に苦しみながらも。なんとか出張所を広げた。


けれど。今、王宮で起きていることは。わたしの手に負える話じゃ、ない。


国の財政が。どうなっているのか。


新しい長官が。何をしようとしているのか。


貴族たちが。何に怯えているのか。


わたしには。わからない。


わからないから。いつもの呪文を、唱える。


見ない。気づかない。考えない。


* * *


だから。


わたしは、今日も。朝一番に、病院に来て。


風呂に入って。「はぁ〜」と言って。


さっぱりした顔で。理事長室に座って。


請求書の山と、格闘する。


それが。今のわたしに、できる。精いっぱい。


……なのに。


なぜだろう。


さっぱりしたはずの体の。胃の奥だけが。


また。あの、いやな感じに。そわそわしている。


絶好調の直後には。必ず、ろくでもないことが起きる。


一年かけて学んだ、あの法則が。


今日も。静かに。こっちを見て、笑っている気が、した。


……まぁ。


気のせい、だろう。


たぶん。


そう思いながら。


わたしは。もう一杯の紅茶を。すすった。

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