4話
意識の底から這い上がってきたレオンを待っていたのは、安宿の湿った空気ではなく、焦げた肉の脂臭さと、耳障りな鼻歌だった。
「……はぁ、……っ」
体を起こそうとして、右腕に走る鈍い熱に顔を顰める。
体は動く。筋力も、魔力の総量も、あの雨の夜から減ってはいない。だが、全身を巡る魔力の感覚が、まるで「錆びた鎖」を引きずっているように不快で、毛羽立っている。
「ようやく起きたか。丸二日、死体みたいに転がってたぜ。おかげで俺の寝床が半分埋まって大迷惑だ」
声のした方を見れば、煤けた鎧を着た中年男が、焚き火で干し肉を焼きすぎて黒焦げにしていた。「あーあ、またやっちまった」と独り言を漏らすその男に、威厳の欠片もない。
あの雨の廃都で、自分を拾った男だ。
「貴様……誰だ。ここはどこだ」
レオンは鋭く睨みつける。かつて一国を揺るがす英雄の息子として放っていた威圧。だが、男は焦げた肉をナイフで削ぎながら、鼻で笑った。
「誰でもいいだろ。ここは俺の家――と言いたいが、ただのゴミ溜めだ。お前みたいな『身の程知らずな粗大ゴミ』を解体するには、ちょうどいい場所だろ?」
「……ゴミだと?」
レオンの瞳に怒りの炎が宿る。反射的に、右腕に魔力を込めた。
『覇王の心』。その威圧だけで、この無礼な男を沈黙させようとした、その瞬間だった。
「がっ……あ、ああああ!!」
心臓を掴まれたような衝撃と、右腕を内側から引き裂くような激痛。
制御を失った魔力が、逃げ場を失ってレオン自身の神経を焼いた。
「おーおー、危ねえな。そんな無駄に魔力を垂れ流して、自分を焼いてりゃ世話ねえよ。お前、自分の体の『燃費』って言葉、知らねえのか?」
「黙れ……! 俺の魔力制御は完璧だ! 以前は、こんな……」
「『以前』は、あのアホみたいに有能な整備士が、隣で必死に冷却水(魔力)を入れ替えてくれてたんだろ。……お前が凄かったんじゃない。あいつが凄まじい手際で、お前っていう『欠陥品』を動くように見せかけてただけだ」
「違う! 俺は、俺自身の力で……!」
逆上したレオンは、枕元に置かれた父の形見の大剣に手を伸ばした。
左手一本。だがレオンの剛力なら、この距離で男の首を飛ばすには十分だ――はずだった。
「……なっ!?」
振り抜こうとした大剣の腹に、男が「指一本」を添えた。
ただそれだけで、剣の重心が僅かにズレ、レオンの踏み込みの力がそのまま空振りの慣性へと変換される。レオンは自分の剣の重さに振り回されるように、無様に床へ転がった。
「力はある。……だが、お前は自分の足で立っちゃいねえ。あいつに背負われながら、いっちょ前に剣を振ってただけだ。だから、降ろされた途端に、歩き方も忘れた赤ん坊に戻っちまう」
「……貴様、何をした……? 魔法も使わずに、俺の剣を……」
レオンは震える手で地面を突く。
悔しくて、胃の奥が焼けるようだった。ギフトも、魔力の輝きもない、ただの酒臭いオッサンに、指一本で手玉に取られた。
エリアスがいなくなった。仲間も、地位も、自信も消えた。今、この目の前の男にすら勝てないという現実が、重くのしかかる。
「理屈だよ。お前の剣は重すぎる。だが、それは『鉄の重さ』じゃねえ。……『覇王』なんていう、器にも合わねえガラクタみたいなプライドの重さだ」
男は立ち上がり、レオンの隣に突き刺さった大剣を、つま先で軽く突いた。
「いいか。本当の『覇王』だか何だか知らねえが、自分の内側で暴れてる魔力の一滴も制御できねえ奴は、戦士じゃねえ。ただの『爆発しそうな荷物』だ」
男は背を向け、小屋の出口へ向かった。
「……お前、何者だ? ただのゴミ拾いが、親父の剣をそんなに軽く扱えるはずがない」
レオンの問いに、男は振り返らず、外に広がる荒野へ唾を吐いた。
「ガリウスだ。……その錆びた漬物石をもう一度『剣』に戻したいってんなら、一つだけ試してみろ」
ガリウスは乱暴に扉を開けた。
「まずは、その右腕の熱を呪うのをやめろ。……熱いなら、その熱を魔力の循環だけで指先から逃がしてみせろ。エリアスがやってた『仕事』を、自分の脳みそだけでやってのけろ。……それができなきゃ、お前は明日にはその腕から腐って死ぬぜ。……ま、死んだらその剣は俺が売らせてもらうけどな」
ガリウスはそのまま外へ出ていった。
小屋の中に、重苦しい沈黙が落ちる。
右腕は、まだ焼けるように熱い。
エリアスは、これをずっと一人でやっていたのか。
自分が「最強」だと笑っている裏で、あいつはこれほどの熱を、痛みを、肩代わりし続けていたのか。
認めたくない。
感謝なんてしたくない。
だが、ここで死ねば、あいつらに「やっぱりダメだった」と証明するだけだ。
あのカインとかいう劣化版に、笑われたまま終わる。
「……クソが。……やってやるよ……っ」
レオンは泥にまみれた手で、震える右腕を掴んだ。
感謝でも、決意でもない。
ただ、このまま消え去ることへの、薄汚い執念だけが、レオンを動かしていた。
――その瞳には、かつての傲慢な輝きはなく。
ただ、底なしの暗闇の中で、微かに、燃え残った残り火のような色が宿っていた。




