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2話

安宿の、カビ臭い湿り気が染みついた部屋。

 レオンは脂汗を流しながら、硬いベッドの上で自分の右腕を睨みつけていた。

 

 指先が、微かに震えている。

 魔力回路が焼き切れるような熱が、まだ皮膚の下に居座っていた。アイアン・ベアとの死闘から二日が経過しているというのに、ダメージは癒えるどころか、内側から肉を腐らせていくような鈍い痛みへと変わっている。

(……おかしい)

 かつては、どんな激戦の後でも、翌朝には羽が生えたように体が軽かった。

 ……理由なんて、考えたこともなかったが。

「……クソが。あの熊、毒でも持っていやがったのか」

 吐き捨て、レオンは無理やり体を起こした。

 壁に立てかけた父の形見の大剣を手に取る。

 ズシリ、と腕に食い込む重さ。

 かつては自分の体の一部のように軽かったはずの鋼が、今はただの忌々しい鉄の塊に感じられた。

「……メンテの奴が手を抜きやがったな。重心が狂ってやがる」

 実際には、メンテナンスのせいではない。だが、レオンにはそれが理解できなかった。義足を奪われた男が、自分の足の重さに戸惑っているようなものだった。

 

 レオンは、その「違和感」の正体を認めないまま、ギルドへと足を向けた。

 ◇

 冒険者ギルド『天頂の灯』の掲示板から、レオンはCランクの依頼を剥ぎ取った。

 『魔樹の森の掃討』。

 かつてのレオンなら、朝飯前の散歩にもならない程度の、退屈な仕事のはずだった。

「掃討依頼? レオンさん、一人で受けるんですか? あそこは数が多いですよ。せめて斥候スカウトを雇った方が……」

 受付の職員の忠告を、レオンは鼻で笑って切り捨てた。

「俺を誰だと思ってる。あんな雑魚、何百匹いようが関係ない。俺の『覇王の心』がすべてを消し飛ばす」

 職員の不安げな視線を背中に受けながら、レオンは森へと向かった。

 

 だが、森に入ってから一時間。

 レオンの自信は、音を立てて崩れ始めていた。

「――っ、しまっ……!」

 背後の茂みから、シャドウ・ウルフが飛び出す。

 本来なら、数秒前にその予兆を捉える「声」があった。

 だが今は、不気味な静寂しかない。

 

 レオンは直感だけで大剣を振るう。

 だが、剣が重い。振り抜くまでのコンマ数秒――かつて「何らかの補助」で埋められていたはずのその僅かな隙が、今のレオンには致命的なラグとなって襲いかかる。

 ――ザシュッ!

 牙が、レオンの肩を抉った。

「がぁっ! この、雑魚がぁ!!」

 怒りに任せ、レオンは強引に魔力を解放した。

 

「『覇王のオーラ・ドライブ』、駆動!!」

 全身を魔力の奔流が駆け抜ける。

 防御を捨て、攻撃に全振りするギフト『覇王の心』。

 一人でこれを使うのは、制御を失い、内側から溶け落ちる魔力炉を無理やり回すに等しい。

「死ねッ!!」

 大剣が影を両断する。

 だが、同時に右腕に強烈な「反動」が走った。

 高圧の魔力に耐えかね、右腕の血管が数箇所で破裂する。

「……っ、が……あ、ああああ!!」

 激痛に視界が白む。

 一体倒すたびに、自分の寿命が削られていくような感覚。

 以前なら、背後から杖が掲げられるだけで、この苦痛のほとんどは消えていたはずだった。

「はぁ、はぁ……なんだ、これ……なんで、こんなに、苦戦して……」

 森の奥から、さらなる魔物の咆哮が聞こえる。

 レオンは屈辱に震えながら、最後は「撤退」を選んだ。

 依頼失敗。

 泥にまみれ、血まみれになり、逃げるように森を後にするレオンの姿は、とてもではないが「覇王」と呼べるものではなかった。

 ◇

 ギルドに戻ったレオンは、隅の席で独り、ボロボロになった革鎧を脱ぎ捨てていた。

 

(……おかしい。俺は強くなっているはずだ。一人のほうが、経験値も魔力も集中する。なのに、なぜ……)

 そんなレオンの耳に、聞き慣れた楽しげな笑い声が飛び込んできた。

 顔を上げると、ギルドの入り口から四人のパーティが入ってくるのが見えた。

 サイラス、ミラ。

 そして、穏やかな微笑みを浮かべたエリアス。

 レオンの心臓が、嫉妬と怒りで跳ね上がる。

 だが、レオンの目を釘付けにしたのは、その中心にいる四人目の男だった。

「……カイン?」

 思わず、名前が口から漏れた。

 カイン。レオンより二歳年下の、以前からレオンを慕っていた後輩だ。

 実力はレオンの半分にも満たず、以前は「レオンさんの足元にも及びません!」と謙虚に笑っていたはずの少年。

 そのカインが、今は堂々とサイラスたちの中心に立ち、レオンが見たこともないような晴れやかな表情で語り合っている。

「いやぁ、エリアスさんの指示通りに動くだけで、あんなに体が動くなんて。僕、自分が上手くなったのかと勘違いしちゃいましたよ!」

 カインが明るく笑うと、ミラが小さく頷きながら応じた。

「カインくん、今日は助かったわ。前衛がしっかり連携を守ってくれると、私も自分の仕事に集中できるし。……やっぱり、パーティってこうあるべきよね」

 他意のない、ただの実感のこもった言葉。それが、レオンの耳には何よりも鋭い刃となって突き刺さった。

「全くだ。今日のワイバーン戦も、予定通り三十分早く片付いた。無駄な動きがねぇってのは、こんなに楽なもんなんだな」

 サイラスの野太い声が、レオンの胸に突き刺さる。

 ワイバーン。

 レオンが命を削って、ようやく倒していたあの強敵を。

 あんな「格下」のカインを連れて、以前より効率的に。

 レオンは震える手でテーブルの縁を握りしめた。

「……あんな奴、ただの劣化版だ」

 レオンは、心の中で呪いのように呟いた。

 カインはレオンの戦い方を模倣している。剣の振りも、構えも、すべてレオンを参考にしているはずだ。

 それなのに、なぜ「本物」である俺が泥を舐め、「偽物」であるあいつが英雄のような顔をしている?

 

(……そうか。エリアスの奴、あいつにどんなドーピングをかけてやがる)

 レオンの歪んだ思考は、即座に「自分に都合の良い答え」を弾き出した。

 エリアスが、レオンを裏切った腹いせに、カインを無理やり底上げして見せびらかしているのだ。あんな薄っぺらな成功、長く続くはずがない。

「……見ていろ。エリアスの指示を一つでも聞き逃せば、あんなひよっこ、すぐに自滅する」

 レオンは、ギルドを去る彼らの背中を、昏い光を宿した瞳で睨み続けた。

 

 あいつらは、俺がいなくて困っているはずだ。

 あんなカインなんていう代用品で、いつまでも誤魔化せるはずがない。

 

 俺が……俺という「本物の力」がいかに必要か。

 あいつらが地獄を見て、俺に泣きついてくる瞬間を、この目で確かめてやる。

「……あいつらの次の依頼先は、『雷鳴の廃都』だったな」

 レオンは立ち上がった。

 身体の痛みは消えていない。右腕は使い物にならないほど熱い。

 だが、復讐に近い執着が、レオンを動かしていた。

「本当の『覇王』が誰か、分からせてやる……」

 レオンは闇に紛れるように、ギルドを後にした。

 

 レオンは気づかない。

 その一歩が、自分をどこへ連れていくのかを。

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