1話
「レオン、明日の準備はいい? ……少し無理したけど、もう大丈夫だから」
僕が声をかけると、彼はいつものように不敵な笑みを浮かべて頷いた。幼い頃からずっと、僕は彼の背中だけを見て歩いてきた。……そう思っていたのに。
――だが、その日常は、あまりにも呆気なく壊れた。
宿屋の食堂は、いつものように騒がしかった。
無骨な重戦士サイラスが酒を煽り、斥候のミラが今日の収穫について笑い、俺の隣ではエリアスが「明日の装備の点検、もう終わってるよ」と、いつもの穏やかな顔で俺の肩を叩く。
そんな、数年間繰り返されてきた「日常」を、俺は一言で切り裂いた。
「――抜けてくれ、エリアス。お前はもう、俺の隣に立つ資格はない」
静寂が、冷たい水のように広がった。
エリアスは、手に持っていた収支報告書を握りしめたまま、凍りついたように俺を見つめている。
俺には、時間がないんだ。
『天頂の塔』――かつて英雄と呼ばれた父が辿り着けず、その最期を「無謀な敗北者」と嘲笑われた場所。父の葬儀の日、親戚たちが「無能な男の息子も、どうせ無能だ」「血は争えないな」と囁き合っていたあの声を、俺は今も忘れていない。
父の汚名を晴らす。その焦燥だけが、俺の心臓を動かす唯一の燃料だった。
「……本気で言ってるの、レオン」
エリアスの声は、どこまでも静かだった。
だが、俺を見つめる瞳には、これまで見たこともない「色」が宿っていた。
「あぁ。俺はもっと過酷な階層へ行く。お前のような非戦闘職を連れていては、いつかお前を死なせることになる。それは俺のプライドが――」
「プライド、か……」
エリアスが言葉を遮り、小さく笑った。
何かを言いかけ、唇が小さく震える。あいつの手が、俺の肩に触れようとして――途中で、力なく止まった。
「レオン。君は、一つだけ大きな勘違いをしてる。君が『自分の力』だと思って誇っているその全部、本当に君だけのものかな?」
「……何が言いたい」
「ううん。……わかったよ。君がそう決めたなら、僕はもう何も言わない」
エリアスは立ち上がり、ゆっくりと出口へ向かった。扉に手をかけたところで、その背中が僅かに、耐えきれないように震えた。
「……本当は、全部言い合って、また笑いたかったよ。……さよなら、レオン」
一瞬だけ漏れた、震える本音。
その泣き出しそうな声を、俺は「弱者の泣き言」として脳内で処理した。
◇
翌朝。食堂で待っていたサイラスとミラの態度は、俺の想像を超えるものだった。
「二人とも、エリアスは外した。今日からは俺一人で火力を担う。効率は上がるはずだ」
「……あぁ。そうか、レオン。お前は、あいつを切ったんだな」
サイラスが、重々しく、けれどどこか悲しげな口調で言った。
「サイラス、あんたまで何なんだ。俺は父さんを超えるために――」
「親父さんはな、レオン。……背中の仲間に命を預けて、初めてあの高みまで行ったんだぞ。今のままのお前と一緒に地獄へは行けない。それはエリアスを殺し、お前を自滅させる道だからだ」
突き放すような言葉。だが、その瞳には「これ以上お前が壊れるのを見ていられない」という、年長者ゆえの苦渋が滲んでいた。
隣のミラは、泣き腫らした目で俺を睨みつけ、絞り出すように言った。
「……レオンさん。エリアスさんが、どれだけボロボロになって君の『覇王の心』の尻拭いをしてたか、一生知らないまま……独りで戦えばいいんだ!」
二人は俺を置いて、食堂を去った。
逃げるように、独り(ソロ)で街を飛び出す。
脳裏には、半年前の『深紅のワイバーン』戦の記憶が浮かんでいた。
あの時、俺の剣は間違いなく神がかっていた。
サイラスの盾が突進を受け止め、俺の「道」を作った。
ミラの『魔流の眼』が死角を看破し、俺に「好機」を伝えた。
そして何より、右腕から溢れ出す狂気的な魔力を、背後のエリアスが抑え込んでくれていた。
(……いや、違う。あの時、俺が決めた最後の一撃がすべてだった。俺の才能が、あいつらの不足を埋めていただけだ)
そう、俺のギフトは万能だ。そうでなければならない。
◇
独りになって数日。俺は塔の難所『黒曜の森』で、鋼の皮膚を持つ巨熊『アイアン・ベア』と対峙していた。
以前の俺なら、瞬きする間に終わっていたはずの相手だ。
「――『覇王の心』、駆動!」
右腕に魔力を込める。
その瞬間、全身の血管に「溶岩」を流し込まれたような激痛が走った。
「が、はぁっ!? ……っ、なんだ、これ!?」
身体が、鉛のように重い。
脳は「回避」を命じているのに、足が地面に張り付いたように動かない。
サイラスの盾はない。同じ感覚で受け止めた衝撃が、そのまま俺の骨を砕かんばかりに響く。
――ドォォン!
「あ、ああああああ!!」
熱い。右腕が、自分の魔力で内側から焼け焦げていく。
ミラの警告もない。死角からの二撃目が、俺の脇腹を容赦なく抉った。
エリアスの「加護」がない右腕は、もはや制御不能な爆弾のように、俺の神経を一本ずつ焼き切ろうとしていた。
「くそっ、クソッ!! なんでだ、なんで動かない!!」
叫び、なりふり構わず剣を振り回し、泥を舐め、無様に転がり、鼻血を流しながら、俺はただの一頭に、文字通り「命を削って」ようやく勝利した。
静まり返った森の中で、俺は膝をつき、激しく嘔吐した。
全身の震えが止まらない。剣が、泥の塊のように重い。
(……おかしい。こんなはずじゃない)
「……ああ、クソ……。あいつら、呪いでもかけていきやがったのか……!?」
俺は、認めない。
あいつらのサポートが凄かったなんて、口が裂けても言えるか。
エリアスが何をしていたかなんて、知りたくもない。
「明日になれば、また元に戻る。……俺は、あの『無能』と呼ばれた男の息子で終われるかよ……っ」
溢れ出す恐怖と焦燥を、他者への怒りで塗りつぶす。
俺はボロボロの剣を引きずり、一歩、また一歩と、地獄のような重さのなかを歩き出した。
――その一歩が、致命的な破滅への始まりだと、この時の俺はまだ知らない。




