手放し方
宿に戻った。
簡単に夕食を済ませ、
それぞれ何も言わずに時間を過ごした。
日が完全に暮れる頃。
司祭が一行を呼び集めた。
卓の上には、
一本の蝋燭が置かれていた。
淡い火が揺れ、
一行はその周りに丸く座った。
しばらくの沈黙。
司祭が両手を組んだまま口を開いた。
「王都まで来た」
その声は、
いつもより重かった。
「巡礼は終わり……
レアも去った」
誰も答えなかった。
司祭は一行をゆっくりと見回した。
「そろそろ、それぞれの道を考える時が来たようだ」
トリーは何となくうつむいた。
エリオンは何も言わず、
蝋燭だけを見つめていた。
ベルは不安そうな顔で、
指先をいじっていた。
司祭は言葉を続けた。
「エリオンには、入学の問題が残っている」
その視線がトリーへ向いた。
「トリーは、これからのことを決めなければならないだろう」
今度はベルを見た。
「ベルも、帰郷の準備をしなければならない」
ベルがびくりとした。
戸惑った目で司祭を見上げる。
「エリオン……
兄さんもですか?」
司祭は小さく頷いた。
「エリオンはアカデミーへの入学を考えていた」
ベルの視線がエリオンへ向いた。
エリオンは、
どうしてもその目を見ることができなかった。
その沈黙だけで、
十分な答えになった。
司祭は低く息を吐いた。
「だから今日は、それぞれの考えを話してみよう」
部屋の中が静まり返った。
蝋燭の火だけが、
小さく揺れていた。
そして。
トリーがゆっくりと口を開いた。
「……私」
その声は、
やけに小さかった。
「話したいことがあります」
皆の視線がトリーへ向いた。
トリーは指をもじもじと動かしながら、
苦しそうに言葉を続けた。
「私……
傭兵ギルドへ行きたいです」
ベルが目を大きく開いた。
「え……?」
今聞いた言葉を理解できなかった人のように、
ぼんやりとトリーを見つめた。
「それ……
どういうこと?」
トリーは視線を逸らした。
しばらく迷っていたが、
小さく口を開いた。
「私……
傭兵になりたい」
ベルの顔がこわばった。
「駄目」
トリーがびくりとした。
ベルが卓に手をついて立ち上がった。
「駄目。絶対に駄目」
「ベル……」
「傭兵が何か分かってるの?」
ベルがトリーの言葉を遮った。
声が震えていた。
「いつ死んでもおかしくない仕事じゃない。
どうしてそんなことをしようとするの?」
トリーはぎゅっと目を閉じた。
それからベルをまっすぐ見て言った。
「じゃあ、レア姉さんは!」
その瞬間。
部屋の中が静まり返った。
トリーは泣きそうな顔で言葉を続けた。
「レア姉さんを見たでしょ」
「強くて、優しくて、かっこよかったじゃない」
声が少しずつ大きくなっていく。
「私も、あんな傭兵になりたい」
誰も簡単には口を開けなかった。
トリーは震える拳を握りしめた。
「それに……」
声が割れた。
「私がもう少し強かったら……」
トリーは深くうつむいた。
「レア姉さんも……
こんなに早く……
去らなかったかもしれないって……」
その言葉に、
ベルの瞳が揺れた。
トリーは歯を食いしばった。
「強くなりたい」
顔を上げる。
「レア姉さんみたいになって、
誰かを守れる人になりたいんだ」
その言葉に、
ベルは力が抜けたように座り込んだ。
そしてゆっくりと顔を向けた。
エリオン。
司祭。
二人を交互に見て、
震える声で言った。
「兄さん……
司祭様……」
ベルの目元が赤くなっていた。
「何か……
何か言ってください……」
その声には、
すがるような響きがあった。
司祭は静かに目を閉じた。
しばらく沈黙が流れた。
そして、
ゆっくりと口を開いた。
「よく考えた末の決断なのだろう」
ベルの表情が崩れた。
司祭は低く言葉を続けた。
「その決断を……
むやみに止めることはできない」
ベルの唇が小さく震えた。
今度はエリオンを見た。
切実な目だった。
エリオンは、
ついに視線を逸らした。
「僕が何か言える立場じゃない」
声が小さく漏れた。
「ごめん」
その瞬間、
ベルの顔が真っ白になった。
「兄さんも……」
ベルの声が震えた。
「兄さんも、行くんですか?」
エリオンは答えられなかった。
その沈黙が、
何よりも確かな答えだった。
ベルの目に涙が浮かんだ。
「お姉さんも……
兄さんも……
トリーも……」
ベルは首を振った。
「ここで終わりなんですか?」
誰も答えられなかった。
「そんなの……
ないじゃないですか……」
ベルの声が、
少しずつ崩れていく。
「やっとお姉さんを見送ったばかりなのに……」
涙が床に落ちた。
「これは……
ひどすぎます……」
ベルは必死に涙を拭った。
そして絞り出すように、
トリーへ言った。
「あなたまで、そんなふうに行ってしまったら……」
声が割れた。
「私はどうすればいいの」
トリーは深くうつむいた。
ベルは何度も涙を拭った。
「両親には何て言えばいいの……」
「みんなどこへ行ったんだって聞かれたら……
何て言えばいいの……」
それから今度は、
エリオンを見た。
「サラ姉さんはどうするんですか……」
エリオンの目元が揺れた。
ベルはそれ以上、
言葉を続けられなかった。
深くうつむいたまま、
長い間泣いていた。
誰も口を開けなかった。
ベルは無理やり泣き声を飲み込んだ。
そしてうつむいたまま、
小さく呟いた。
「……行かないで」
トリーは口を開いたり閉じたりした。
何を言えばいいのか分からない顔だった。
しばらく迷ってから、
ようやく言葉を絞り出した。
「……ごめん」
部屋の中に、
長い沈黙が流れた。
蝋燭の火だけが、
静かに揺れていた。
ベルが涙に濡れた顔を上げた。
トリーを見た。
長い間。
何も言えなかった。
そして、
もう一度尋ねた。
「……本当に行くの?」
トリーは、
最後まで答えられなかった。
ベルはゆっくりと頷いた。
まるで、
すべてを分かってしまった人のように。
そして苦しそうに立ち上がった。
「……分かった」
ベルは扉の方へ歩いた。
数歩も行かないうちに、
もう一度足を止めた。
肩が小さく震えていた。
「好きにして……」
そう言って、
扉を開けて外へ出ていった。
扉が静かに閉まった。
トリーはうつむいたまま、
何も言えなかった。
エリオンは閉じた扉を見つめ、
立ち上がろうとした。
「ベル……」
だが司祭が静かに手を上げた。
「少し時間を置こう」
エリオンは立ち止まった。
閉じた扉を見つめてから、
再び席に座った。
しばらく、
誰も口を開かなかった。
蝋燭だけが小さく揺れていた。
やがて。
トリーが静かに口を開いた。
「司祭様……
兄さん……」
声が小さく震えていた。
「私、急ぎすぎたのかな?」
再び沈黙が流れた。
司祭はすぐには答えなかった。
エリオンも言葉を選んでから、
ゆっくりと口を開いた。
「トリー」
トリーが顔を上げた。
「ラヘンにいた頃から、
ずっと傭兵札を触っていただろう」
エリオンは低く言った。
「ここへ来る間も、
ずっと考えていた」
トリーは黙ってエリオンを見つめた。
「勢いだけで言ったことじゃないと思う」
トリーの目元が赤くなった。
司祭も静かに頷いた。
「私も同じ考えだ」
低く言った。
「お前の選択を、
軽いものだとは思っていない」
トリーは唇をぎゅっと結んだ。
司祭は閉じた扉の方を見た。
「ベルは今、
君たちと向き合いたくないだろう」
そう言って、
ゆっくりと立ち上がった。
「ベルとは……
私が話してみよう」
エリオンとトリーは、
ただ頷いた。
司祭は扉を開けて外へ出た。
廊下は静かだった。
小部屋の向こうから、
かすかなすすり泣きが漏れていた。
司祭は足を止めた。
レアを見送ってから、
まだ一日も経っていない。
それなのに今度は、
家族までもが離れていくという。
司祭は目を閉じ、
ゆっくりと息を吐いた。
そして扉の前へ進んだ。
取っ手に手をかけたまま、
しばらく迷った。
扉の向こうのすすり泣きが、
重く胸に響いた。
司祭は静かに扉を叩いた。
とん、とん。
「……ベル」
泣き声が少しずつ収まっていった。
衣擦れの音が聞こえ、
扉がほんの少し開いた。
ベルが隙間から司祭を見上げた。
目元には涙の跡が残っていて、
目はひどく腫れていた。
司祭はしばらく言葉を選んでから、
慎重に尋ねた。
「少し、入ってもいいかな?」
ベルは迷った末、
小さく頷いた。
扉がもう少し開いた。
司祭は中へ入り、
静かに扉を閉めた。
ベルは寝台の端に腰を下ろした。
司祭は少し離れた場所に座り、
ベルを見つめた。
そして、
ベルが自分から話し出すまで待った。
しばらく沈黙が流れた。
ベルは指をもじもじと動かしながら、
小さく口を開いた。
「みんなで……
帰ることはできないんですか?」
声はひどくかすれていた。
ベルは一度鼻をすすり、
言葉を続けた。
「本当は、こうなるはずじゃなかったじゃないですか……」
「巡礼が終わったら……
みんなで帰るはずだったじゃないですか……」
司祭を見上げた。
目元には、
また涙が浮かんでいた。
「兄さんも……
トリーも、
もう会えなくなるんですか?」
唇が震えた。
「それは……
本当に嫌です」
司祭はすぐには答えなかった。
しばらく言葉を選んでから、
ゆっくりと口を開いた。
「嫌だろうな」
ベルの肩がびくりとした。
司祭は小さく笑った。
「私でも嫌だと思う」
ベルの身体が少し震えた。
「実は、
私も寂しい」
ベルは驚いた顔で司祭を見上げた。
司祭は苦く笑った。
「レアも去った。
そのうえ君たちまで送り出すことを考えると……」
少し言葉を止めた。
「心が穏やかではない」
ベルの目に、
また涙がにじんだ。
「だったら……」
ベルは喉を詰まらせながら言った。
「だったら、引き止めればいいじゃないですか……」
司祭は静かに首を横に振った。
「引き止めて残らせれば、
それで終わりだろうか?」
ベルは答えられなかった。
司祭は低い声で言葉を続けた。
「二人は、それぞれの道を見つけようとしている」
「今、二人を引き止めれば、
いつか大きく後悔するかもしれない」
低く息を整えた。
「その時に、
あの時ああしていれば……
そう思うかもしれない」
しばらく沈黙が流れた。
司祭は苦く笑った。
「その恨みを受け止める自信が、
私にはない」
ベルは深くうつむいた。
涙が布団の上にぽたりと落ちた。
「それでも嫌です……」
司祭は小さく頷いた。
「そうだな」
柔らかく言った。
「嫌がってもいい」
ベルの指先が止まった。
司祭はゆっくりと言葉を続けた。
「去っていくことを寂しく思うのも。
引き止めたいと思うのも。
全部、当たり前のことだ」
司祭はそっと手を伸ばし、
ベルの頭を一度撫でた。
ベルは手の甲で涙を拭った。
司祭は低く言った。
「だから今日は、
思いきり悲しんでいい」
そして柔らかく笑った。
「本来、そういうものだから」
ベルはうつむいたまま、
小さく鼻をすすった。
そして少しして。
聞こえるか聞こえないかほどの声で答えた。
「……はい」




