既視感
いつの間にか小雨は止んでいた。
窓の隙間から陽の光が差し込み、
軒先に残っていた雨粒が
ぽたり、ぽたりと地面へ落ちる。
湿った草の匂いがほのかに漂い、
じめついていた空気にも少しずつ温もりが戻り始めていた。
エリオンは相変わらず病人の傍についていた。
布を絞って額に載せ、
呼吸を確かめ、
熱が下がったかどうかを確認する。
容態は確実に良くなっていた。
呼吸はずっと安定し、
熱も目に見えて下がっている。
エリオンの隣に座っていたベルが、
病人を見つめながら口を開いた。
「どうですか?」
エリオンはベルに小さく微笑みかけた。
「だいぶ良くなったよ。心配しなくていい」
ベルは小さく頷いた。
エリオンは病人を見守っていたが、
ふと司祭の方へ視線を向けた。
いつの間にか疲れも取れたのか、
トリーが司祭の隣で延々と喋り続けている。
「レア姉さんが、
ベルはお前が面倒見ろって――」
「……そうか」
「俺があの時ベルを見てなかったら――」
「……よくやった」
司祭は面倒くさそうに短く答えた。
エリオンは思わず吹き出しながら周囲を見回す。
レアは部屋の隅に腰を下ろし、
防具の紐を手入れしていた。
その手つきは慣れたもので、
眼差しは相変わらず鋭い。
その時だった。
病人の指先がほんのわずかに動いた。
ベルの目が大きく見開かれる。
「え……?」
エリオンも病人の方へ身を乗り出した。
病人の瞼がゆっくりと震え、
やがて開く。
ぼんやりとした瞳が天井を見上げ、
それから周囲を見回し始めた。
見知らぬ天井。
見知らぬ人々。
額に載せられた布。
病人はエリオンとベルを見つめると、
乾いた唇を懸命に動かした。
「……ここは……
どこですか」
ベルの顔がぱっと明るくなる。
エリオンも安堵したように息を吐いた。
「巡礼路近くの村です。
倒れていたので、
僕たちがここまで運んだんですよ」
病人はしばらく呆然とエリオンの顔を見つめていた。
やがて、
かすかに震える声で言う。
「……そうでしたか」
そう言い終えた途端、
軽く咳き込んだ。
「ありがとう……
ごほっ、ありがとうござ――」
「お礼は元気になってからにしてください。
今は話すのも控えた方がいいです」
病人は力なく笑い、
小さく頷いた。
その様子を見ていた司祭が、
ゆっくりと立ち上がる。
トリーも当然のように後ろについていった。
司祭は病人の傍へ腰を下ろし、
容態を確かめた。
そして胸の上に手を置く。
やがて指先から淡い光が広がり、
穏やかな光が身体へと染み込んでいく。
強張っていた病人の表情が、
ゆっくりと和らいだ。
司祭は聖法を解きながら言う。
「だいぶ良くなっているようだな。
聖法も併用すれば……
今夜には歩けるようになるかもしれん」
病人は横になったまま、
ゆっくりと頷いた。
その様子を見ていたトリーが、
興奮した声で横から口を挟む。
「この人をここまで運ぶの、
大変で死ぬかと思いましたよ――」
司祭がトリーを横目で見る。
そして――
ぺしっ。
軽く頭を叩いた。
トリーは涙目になって司祭を見上げる。
「なんで叩くんですか!」
司祭は平然と視線を逸らした。
「患者の前で言うことではない」
部屋の隅で装備を整えていたレアが、
くすりと笑った。
「別に間違ってないだろ」
そう言いながら、
防具の紐を締め直す。
「少しくらい恩を売ってもいいだろ?」
トリーはすぐに頷いた。
「そうですよ!
俺たち本当に死にかけたんですから!」
司祭は答える代わりに、
もう一発頭を叩いた。
トリーは頭を押さえながらぼやく。
「頭に穴が開きそうだ……」
司祭はレアとトリーを順番に睨みつけた。
レアはわざとらしく短く口笛を吹くと、
知らん顔で視線を逸らす。
トリーも慌てて口を閉じた。
司祭はもう一度二人を睨みつけると、
暖炉の前へ戻って腰を下ろした。
そして――
何も言わず、
暖炉の火をかき回し始める。
ベルは一行を交互に見ながら、
司祭の様子を窺った。
沈黙の中、
病人もぱちぱちと目を瞬かせる。
エリオンは首を振り、
深く息を吐いた。
暖炉の中では、
薪の燃える音だけが静かに響いていた。
◇
日が沈み、
闇が辺りを覆い始めた。
月明かりさえ雲に隠れた深夜だった。
外からは虫の鳴き声がかすかに聞こえてくる。
暖炉の薪はほとんど燃え尽き、
火種だけが細々と残っていた。
その火を見ていた司祭ですら、
深い眠りについている。
一行が皆眠りについていたその時。
ふいに――
「……具合の悪い人がおるんじゃー!」
誰かの切羽詰まった叫び声が聞こえた。
「門を開けてくれぇ!」
レアの瞼がゆっくりと開く。
目を覚ました瞬間、
彼女は眉をひそめた。
そして外から聞こえる声に耳を澄ませる。
遠くから聞こえるせいか、
言葉はところどころ途切れていた。
「……サボり屋ん時は入れたじゃろー!」
別の声が荒々しく返す。
「あいつは知っとる奴じゃけぇ!」
「病人を外に放っとく気か――!?」
「――奴らの餌になるぞ!」
夜気を裂くように言い争いが続く。
レアの表情がゆっくりと険しくなった。
「今回の連中だって大人しくしとったじゃろ!」
その言葉に、
レアの眉がぴくりと動く。
確かに自分たちの時とよく似ていた。
門前で揉め、
警戒され、
疑われる。
だが妙だった。
背筋を冷たいものが走る。
レアの視線がゆっくりと扉へ向いた。
……私が神経質になっているだけか?
外ではなおも口論が続いている。
「ぐずぐずしてたら死人が出るぞ!」
誰かが深いため息をついた。
「はぁ……」
しばらくして――
ぎぃぃ……
門が開く音が聞こえた。
その瞬間、
レアが勢いよく立ち上がる。
迷うことなく扉へ向かう。
すたすたと歩き、
勢いよく扉を開け放った。
冷たい夜気と土の匂いが一気に流れ込んでくる。
レアの目が素早く外を見渡した。
松明。
開かれつつある門。
警戒を続ける村人たち。
見た目だけなら、
自分たちの時と何も変わらない。
だが――
レアの目が鋭く細められる。
外にいる連中。
様子がおかしかった。
切羽詰まっているはずなのに、
声が震えていない。
言葉が妙に滑らかすぎる。
その瞬間、
レアの心臓がどくりと鳴った。
瞬き一つせず見つめていた彼女は、
突然振り返る。
そして怒鳴るように叫んだ。
「今すぐ起きろ!!」
眠っていた一行が飛び起きる。
その瞬間だった。
外から悲鳴が上がった。
レアは反射的に振り返る。
門を開けていた村人の一人が、
首に短剣を突き立てられたまま後ろへ倒れていく。
そして――
黒い人影たちが、
門の隙間から狂ったように雪崩れ込んできた。




