善意の境界
第30話 善意の境界
一行は倒れている男の周りに集まった。
皆が深刻な表情で様子を見守る中、
エリオンが真っ先に近寄り、その場に膝をつく。
男の鼻先に手をかざした。
かすかではあるが、
まだ息はあった。
だが呼吸は荒く、
唇はひどく乾いている。
額に手を当てた瞬間、
指先に熱が伝わってきた。
思った以上に状態は悪い。
「熱が……ひどすぎます」
その言葉に、
神官がすぐさま身をかがめた。
男の顔色をしばらく確認し、
静かに手を差し出す。
淡い光が男の胸元へ広がった。
だが――
状態はまったく改善しなかった。
神官はゆっくり首を横に振る。
「やはり……
無理か」
短く息を吐き、
立ち上がった。
「体力が尽きかけています。
聖法に耐えられません」
神官はすぐに荷物を漁り始めた。
しばらくして布切れを取り出し、
水筒の水で濡らす。
それを慎重に男の額へ乗せた。
その時だった。
男の唇がかすかに震える。
「……み……ず……」
エリオンは慌てて水筒を取り出し、
男の口元へ運んだ。
男は目も開けられないまま、
苦しそうに水を飲んだ。
うまく飲み込めず、
口元からぽたぽたと零れ落ちる。
レアが顔をしかめた。
「巡回兵が来た時にでも、
助けを求めればよかったのに」
老傭兵も低くため息をつく。
「こういう人は必ずいるんだよな。
大丈夫だろうと思って、
気づいた時には手遅れになる人が」
神官はしばらく辺りを見回した。
街道には静寂が広がっている。
少し考え込んだ後、
静かに口を開いた。
「巡回兵が通ってから、
まだそれほど時間は経っていません」
視線が男へ落ちる。
「次の巡回まで
持ちこたえられるかどうか……」
神官はゆっくり立ち上がった。
「どこかで休ませる必要があります」
しばらく空を見上げる。
「夜のうちに雨でも降れば危険です」
そう言って街道の向こう側を見た。
「馬車に乗せてもらうのが一番でしょう。
商隊もよく通る道です。
助けを待ちましょう」
その言葉を聞き、
夫人が少し躊躇う。
やがて遠慮がちに口を開いた。
「でも……
大丈夫でしょうか?」
不安そうな目で辺りを見回した。
「盗賊が出るって噂もありますし……
ずっと街道沿いにいるのは……」
夫も慎重に言葉を続ける。
「余計なことに巻き込まれたりしたら……」
エリオンは思わず声を上げた。
「じゃあ、
このまま置いていけと言うんですか?」
夫の顔が困ったように固まる。
「い、いや……
そういう意味じゃ……」
その瞬間、
老傭兵が一歩前へ出た。
夫の前に立ち、
低い声で言う。
「若いのう」
その眼差しは落ち着いていた。
「皆、
現実を口にしているだけだ。
少し落ち着け」
レアも静かに肩へ手を置く。
「落ち着きなよ。
別に間違ったことを言ってるわけじゃない」
そう言いながら、
後ろにいた双子へ目を向けた。
ベルは不安そうな顔でこちらを見ており、
トリは地面を見つめながら、
落ち着かない様子で頭を掻いていた。
「私たちにも、
守らなきゃいけない人がいるんだから」
エリオンの肩から力が抜けた。
何も言えないまま、
ただ倒れている男を見下ろす。
そして――
沈黙が流れた。
私たちは街道脇に留まりながら、
通り過ぎる人々に助けを求め続けた。
「お願いします!
人が死にかけているんです!」
エリオンは街道の真ん中近くまで出て、
両手を振った。
隣ではトリまで一緒に手を振りながら叫ぶ。
「お願いです!
少しだけ止まってください!」
遠くから近づいてきた商隊が、
少しずつ速度を落とした。
どうやらこちらに気づいたらしい。
その瞬間、
エリオンの顔にわずかな期待が浮かぶ。
だが――
商隊の方が急に騒がしくなった。
慌ただしく何かを話し合う声が聞こえる。
そして次の瞬間。
彼らは馬をさらに強く走らせ始めた。
エリオンは戸惑いながら、
その様子を見つめる。
……何だ?
その時だった。
商隊の護衛傭兵たちが、
剣を抜く姿が目に入った。
中には弓を構えた者までいる。
その視線は、
真っ直ぐこちらへ向けられていた。
背筋が冷たくなる。
「どけ!」
荒々しい怒鳴り声が響いた。
「どかなければ、
そのまま突っ切るぞ!」
エリオンの身体が凍りつく。
まさか――
盗賊の囮だと疑われているのか?
ふと、
倒れていた男を最初に見つけた時のことが脳裏をよぎる。
自分たちも――
あの時は同じだった。
商隊はそのまま近づいてくる。
エリオンは馬車が目の前まで迫ったところで、
慌てて道の脇へ飛び退いた。
荒々しい蹄の音がすぐ横を駆け抜ける。
商隊の者たちは、
最後まで警戒を解かなかった。
そしてそのまま、
あっという間に遠ざかっていく。
エリオンは呆然とした顔で、
去っていく商隊を見つめていた。
トリがようやく我に返ったように、
隣で声を荒げる。
「おい!
人が死にかけてるんだぞ!?
何なんだよ、あいつら!」
ベルはすっかり怯えた顔になり、
レアの後ろへ隠れてしまった。
レアは何も言わず、
ベルの頭をそっと撫でる。
そして短く息を吐いた。
「簡単にはいかないと思ってたけどね」
トリはまだ怒りが収まらない様子で、
商隊が去った方角を睨んでいた。
そんな彼を見ながら、
レアが低く言う。
「文句は言えないよ」
老傭兵もゆっくりとうなずいた。
「俺たちも同じだったからな」
その瞬間。
トリの口がぴたりと閉じた。
エリオンもまた、
何も言えなくなる。
自分たちも最初は、
盗賊の囮かもしれないと疑った。
あの商隊だけを責める資格はない。
重い沈黙が流れた。
その時だった。
夫が近づいてきて、
遠慮がちに口を開いた。
「このまま続けるんですか?」
彼はエリオンを見つめながら、
低い声で言った。
「一人を助けるために、
もっと多くの人間が危険に晒されたら意味がないでしょう」
夫人も震える手を胸元へ添えながら続ける。
「そうですよ。
毛布でも掛けてあげて、
あとは巡回兵に任せましょう」
エリオンは何も言わず、
倒れている男へ視線を向けた。
神官は男の傍らに付き添い、
何度も聖法を施している。
だが、
少しも良くなる気配はなかった。
神官はエリオンの視線に気づいたように、
ゆっくりと首を横に振った。
エリオンは強く唇を噛む。
しばらくして――
彼は勢いよく振り返った。
「……もう一度だけ」
声がかすかに震えている。
「もう一度だけやってみましょう」
そう言うと、
再び街道の方へ歩いていった。
夫婦は呆れたような顔でエリオンを見る。
老傭兵は口髭を撫でるばかりで、
何も言わなかった。
ベルは今にも泣き出しそうな顔をしており、
レアはそんなベルをそっと抱き寄せた。
トリもまた、
簡単には言葉を見つけられなかった。
どれほど待っただろうか。
やがて遠くに、
小さな荷車が見えてきた。
馬が一頭引く荷車だった。
前には商人と傭兵が並んで座っている。
エリオンはすぐに手を振りながら叫んだ。
「待ってください!
お願いします!」
向こうもこちらに気づいたらしい。
商人と傭兵が何か話し始める。
次第に声が大きくなった。
しばらくして――
荷車はエリオンの目の前で止まった。
その瞬間、
彼の顔が明るくなる。
トリまで期待した顔で見つめていた。
商人が慎重に口を開く。
「何かお困りですかな?」
すると隣の傭兵が、
すぐに不満そうな声を上げた。
「おいおい。
盗賊どもの囮だったらどうするんだよ」
傭兵は剣の柄に手を置いたまま、
こちらを警戒している。
商人はため息を吐き、
エリオンへ視線を向けた。
そして街道脇へ目を移す。
倒れている男を見た瞬間――
商人の表情がゆっくりと固まった。
「もしや……
病人ですかな?」
エリオンは慌ててうなずいた。
「はい。
高熱が続いているんです」
そして必死に言葉を続ける。
「咳も止まらなくて、
身体もひどく震えています。
このままじゃ長くは持たないと思うんです」
商人はしばらく男を見つめていた。
やがて深いため息を漏らす。
「ううむ……」
言葉を濁した。
「申し訳ないが、
どうにも難しそうですな」
その瞬間、
エリオンの頭が真っ白になった。
「え……?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「で、でも……」
商人は苦しそうに続けた。
「症状を見る限り、
感染する病の可能性があります」
そう言って傭兵をちらりと見る。
「盗賊の噂まで流れている状況です。
無理をして人を乗せるわけにはいきません」
すると傭兵がすぐに言葉を引き継いだ。
「そうだよ!
俺まで病気になったら、
誰がこの人を守るんだ?」
親指で商人を指し示す。
「この人が倒れたら、
荷車を引きながら護衛までやれってのか?」
不満そうにぶつぶつと文句を言った。
商人はしばらく無言で、
エリオンを見つめていた。
その顔に浮かぶ失望を見た瞬間――
表情がわずかに揺らぐ。
やがて短く息を吐くと、
静かに懐を探り始めた。
しばらくして、
緑色の液体が入った小瓶を取り出す。
それをエリオンへ放った。
エリオンは慌てて受け取った。
「熱を下げる薬です」
商人が低く言う。
「水に混ぜて飲ませれば、
少しは楽になるでしょう」
そう言うと、
手綱を軽く打って馬を促した。
荷車が再び動き出す。
遠ざかる荷車の向こうから、
傭兵の不満そうな声が聞こえてきた。
「おい!
あれを渡したら、
俺たちが病気になった時の薬がなくなるだろ!」
すると商人の苛立った声が返ってくる。
「うるさいですな。
これくらいのこともしなければ、
天罰が下りますぞ」
そうして――
荷車はゆっくりと遠ざかっていった。




