対面①
第十六話 対面①
鏡の森は、
思っていたよりも遥かに大きかった。
森の入口へ辿り着いた時、
エリオンは思わず言葉を失った。
空を覆うほど巨大な木々。
太い根が地面の上へ這い出し、
濃い草の匂いと湿った土の匂いが空気に混じっている。
風が吹くたび、
葉がざわりと揺れた。
巡礼者たちの姿も見える。
静かに森へ入っていく者。
すでに外へ出てきた者。
だが――
思ったより人は多くなかった。
トリーが辺りを見回しながら首を傾げる。
「思ったより静かですね」
「そうだね。
有名な場所だって聞いてたのに」
ベルはしばらく森の奥を見つめていた。
そして小さく口を開く。
「……みんな、
来たくないんだよ」
トリーが瞬きをした。
「なんで?」
ベルは少しだけ森の方へ視線を向けた。
しばらくしてから答える。
「後悔とか……」
「わざわざ見たいものじゃないでしょ」
指先を弄ぶ。
「見たいものだけが見えるわけでもないだろうし」
ベルの声は少し小さくなった。
「……向き合いたくないものだって、
あると思う」
エリオンはそんなベルの横顔を見た。
司祭はベルを見つめ、
ゆっくり頷く。
「……その通りだ」
トリーはまだ納得していない顔だった。
「じゃあ、
来なくてもいいんじゃないですか?」
「なんで俺たちは来たんです?」
司祭はすぐには答えなかった。
しばらく森の奥を見つめている。
やがて静かに口を開いた。
「誰だって、
自分自身と向き合ってこそ成長できるからな」
そう言って、
ゆっくり双子を見下ろす。
かすかに――
どこか寂しそうな笑みだった。
「きっとお前たちのためにもなる」
そして小さく付け加える。
「こういうものは……」
「若いうちに乗り越えた方がいい」
短い沈黙。
「心に深く残る前にな」
ベルは唇をきゅっと結んだ。
トリーも珍しく黙っている。
レアが小さく鼻を鳴らした。
「ふーん……」
腕を組みながら森を眺める。
だが。
結局何も言わなかった。
エリオンも静かに森の奥を見る。
後悔。
恐れ。
そして――
欲望。
ふと。
サラの顔が頭をよぎった。
「……いや」
思わず小さく呟く。
サラを抱き締めている自分の姿が、
頭の中を掠めた。
途端に顔が熱くなる。
「……まさかな」
エリオンはわざとらしく咳払いをした。
それからしばらくして、
一行は鏡の森へ足を踏み入れた。
森は深かった。
だが道そのものは整備されている。
巡礼者が頻繁に通る道なのだろう。
それでも。
妙なほど静かだった。
誰かのすすり泣きが聞こえた気がしても、
すぐ風の音に紛れて消えていく。
すれ違う巡礼者たちの顔も様々だった。
泣いている者。
険しい顔をしている者。
逆に、
何かを吹っ切ったような顔の者もいる。
トリーが思わず呟く。
「……本当に変な場所だな」
誰も答えなかった。
どれくらい歩いただろうか。
森の終わりが近付くにつれ、
視界がゆっくり開けていく。
そして――
湖が見えた。
「わあ……」
トリーが思わず息を呑む。
エリオンも言葉を失った。
巨大な湖だった。
月光を映した水面が、
星明かりを受けて静かに揺れている。
風が吹くたび、
光が細かな波の上で砕けた。
息を呑むほど美しかった。
そして湖のあちこちには――
誰かの幻が浮かんでいた。
遠くて細部は見えない。
ただ。
何かを抱き締めている者。
膝を抱えて座り込んでいる者。
様々な姿が見える。
トリーが小さく呟く。
「本当に出るんだな……」
その時だった。
湖の上の空間で、
淡い光がゆっくり集まり始める。
揺らめく光。
やがて人の形を取る。
最初に現れたのは――
司祭だった。
だが、
普段の姿とは違っていた。
擦り切れた司祭服。
首から下げた太陽の首飾りにはひびが入り、
それを胸元で強く握り締めている。
胸の太陽の紋章も裂けていた。
そして――
まるで全てを失った人間のように、
俯いていた。
トリーがしばらくその姿を見つめる。
そして首を傾げた。
「司祭様も貧乏は怖いんですね」
無邪気に言い足す。
「思ったより現実的だったんだなあ」
一瞬、
沈黙が落ちた。
司祭はその幻を見つめたまま、
小さく笑った。
「……信仰だけでは、
腹は膨れなくてね」
トリーが思わず吹き出す。
ベルも口元をぴくりと動かしたが、
慌てて視線を逸らした。
だが。
エリオンだけは笑えなかった。
幻の司祭の表情が、
あまりにも寂しそうだったからだ。
再び光が揺らぐ。
今度はエリオンだった。
「……あ」
その場で固まる。
幻のエリオンが、
サラを強く抱き締めていた。
本当に幸せそうな顔だった。
サラもまた、
彼の腕の中で明るく笑っている。
あまりにも鮮明だった。
心臓が一瞬跳ねる。
沈黙。
そして――
全員の視線が、
エリオンへ向いた。
「……」
「……」
「……」
レアまで見ている。
顔が一気に熱くなった。
「い、いや……!」
慌てて口を開く。
「その……
結婚する相手なんだから!」
「それくらい普通だろ!?」
言葉の勢いは、
最後の方でどんどん弱くなった。
トリーの口元が震える。
ベルは必死に別の方向を向いた。
司祭はわざとらしく咳払いをした。
エリオンは今すぐ穴があったら入りたかった。
そして――
次の幻が現れる。
ベルだった。
ベルは洗濯物を干していた。
その後ろから。
顔の見えない男が、
そっとベルを抱き寄せている。
幻のベルは、
頬を赤く染めながら幸せそうに笑っていた。
一瞬の静寂。
「きゃあっ!?」
ベルが悲鳴を上げる。
両手で顔を隠した。
「ち、違う!!」
「そんなのじゃないから!!」
トリーはとうとう吹き出した。
「へえー。
いいお嫁さんになりたいんだ?」
ベルの顔が真っ赤になる。
「違うってば!!」
エリオンは笑いを堪えながら、
わざと視線を逸らした。
そして。
次に現れたのはトリーだった。
最初は革鎧を着た傭兵。
次は立派な鎧を纏った騎士。
そして――
巨大な竜と対峙する英雄。
剣を掲げ、
炎の中でも堂々と立つ姿。
しばし沈黙。
それから。
全員が同時にトリーを見る。
「……あ」
「トリーだね」
「トリーだな」
トリーは耳まで真っ赤になった。
「なんでですか!?」
慌てて叫ぶ。
「いや!
格好いいじゃないですか!」
ベルがとうとう吹き出した。
「うん……
すごくトリーらしい」
少しだけ。
場の空気が和らいだ。
その時だった。
再び光が揺れる。
最後の幻が姿を現した。
――レアだった。
誰も口を開かなかった。
幻のレアは。
腹が大きく膨らんでいた。
だが。
その傍には誰もいない。
レアは一人で俯き、
ただ地面だけを見つめていた。
レアの表情が凍り付く。
エリオンにも分かった。
なぜレアの表情が、
あそこまで固くなったのか。
だが。
それ以上は考えたくなかった。
コツ。
レアが小石を蹴る。
そして。
低く吐き捨てた。
「……くそったれ」
その声は荒れていた。
レアは心底不愉快そうに地面へ唾を吐く。
そして勢いよく顔を背けた。
幻を見ないように。
誰も、
何も言えなかった。




