月明かりの下で
第十五話 月明かりの下で
街を離れると、
道は再び静かになった。
石畳は少しずつ減り、
土と草の匂いが風に混じって漂ってくる。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
トリーはまだ興奮が冷めていない様子だった。
「でも本当にすごかったですよね」
「傭兵ってみんなあんなふうに戦うんですか?」
レアは前を向いたまま答えた。
「人による」
「それでもレアさん、すごく強かったじゃないですか」
「相手が鈍かっただけだ」
トリーは感心した顔で何度も頷いた。
その横で、
ベルが小さくため息をつく。
「少しは静かにできないの……?」
「なんで?」
トリーは首を傾げた。
「周りに誰もいないじゃん」
「それでも……」
その時だった。
レアが突然手を上げた。
全員が足を止める。
トリーも反射的に口を閉じた。
レアはゆっくりと剣の柄に手を置く。
カサッ。
草むらの奥から、
かすかな音が聞こえた。
レアの目が細くなる。
そして――
ドスッ。
剣が地面へ突き刺さった。
ベルが小さく息を呑む。
レアの手はそのまま止まる。
ほんの一瞬だけ、
視線が動いた。
次の瞬間。
ドスッ。
今度はすぐ隣へ剣を突き立てた。
レアは何事もなかったように剣を引き抜く。
すると。
二匹の蛇が剣先に貫かれたまま、
身をよじらせていた。
「ひっ……!」
ベルが慌てて口を押さえる。
トリーは目を丸くした。
「えっ!?
蛇だったんですか!?」
レアは短く頷いた。
「一匹じゃなかった」
トリーは心底感心した顔になる。
「うわぁ……」
蛇はまだぴくぴくと動いていた。
司祭が顎をひと撫でした。
「……毒蛇か」
レアが頷く。
「噛まれると面倒だ」
毒まであるとなれば、
旅の途中ではなおさら厄介だった。
レアは蛇を袋へ入れながら、
ふと司祭を見た。
「聖法は?」
司祭が瞬きをする。
「……簡単な治療くらいならできる」
レアは短く頷いた。
「それで十分だ」
そう言うと、
近くの岩へ腰を下ろした。
そして。
慣れた手つきで蛇を解体し始める。
刃先に迷いはない。
ベルの顔色がどんどん悪くなっていった。
「……なんで持っていくんですか」
トリーも恐る恐る尋ねる。
「まさか食べるんですか?」
レアは手を止めない。
「夕飯だ」
ベルの顔が固まった。
「うっ……」
トリーは興味津々だったが、
漂い始めた生臭さにすぐ顔をしかめた。
「でももう変な匂いがしてますよ……」
レアが小さく笑う。
「焼き始めたらもっとひどい」
ベルの顔が本気で歪んだ。
「うぅ……」
エリオンはレアの手元をじっと見つめていた。
迷いのない動き。
慣れた手つき。
傭兵というのは、
皆あんなふうなのだろうか。
司祭がぽつりと呟く。
「……よく焼けば蛇も案外食べられるぞ」
ベルが信じられないものを見るような顔で振り向いた。
「食べたことあるんですか……?」
「腹が減れば、
人は大抵のものを食べる」
司祭は苦笑した。
レアは袋を結び、
立ち上がる。
「行くぞ」
一行は再び歩き始めた。
道中、
何人かの巡礼者とすれ違った。
笑顔で挨拶してくる者もいれば、
レアの剣を見て警戒する者もいる。
まるで興味を示さない者もいた。
そんな中、
トリーがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、
次はどこへ行くんですか?」
司祭の足がほんのわずかに止まりかける。
本当に短い一瞬だった。
だが。
エリオンはその変化を見逃さなかった。
司祭はすぐにいつもの表情へ戻る。
そして静かに答えた。
「……鏡の森だ」
司祭の言葉に、
トリーの目がすぐに輝いた。
「鏡の森?」
ベルも興味を引かれたように顔を上げる。
司祭は歩きながらゆっくりと説明した。
「巡礼路を歩く者なら、
一度は立ち寄ることが多い場所です」
少しだけ空を見上げる。
「月明かりの映る湖があってね」
どこか懐かしむような声だった。
「そこで自分自身を見つめ直すのだと、
昔から言われています」
トリーが首を傾げる。
「自分自身?」
「ええ」
司祭は頷いた。
「欲望」
少し間を置く。
「後悔」
そして。
「忘れたい記憶」
風が吹いた。
草が静かに揺れる。
「人によって見えるものは違うそうです」
司祭はそう付け加えた。
トリーは目をぱちぱちさせる。
「なんだか不思議な場所ですね」
ベルも小さく頷いた。
どこか期待しているような顔だった。
エリオンは何も言わなかった。
『奇跡』
その言葉が頭をよぎる。
気付けば、
あの村のことを思い出していた。
明るすぎる人々。
妙に満たされた空気。
誰も疑わなかった違和感。
そして。
最後まで答えの出なかったもの。
胸の奥が少しだけ重くなる。
司祭はそんなエリオンの様子に気付いたのか、
ほんの少しだけ言葉を切った。
だが。
何も聞かなかった。
代わりに穏やかな声で続ける。
「だから巡礼者も集まるんでしょうね」
トリーが感心したように頷いた。
「なんかすごそうだなぁ」
司祭は苦笑する。
「ただし」
その一言で、
トリーがまた顔を上げた。
「そこは他の巡礼地とは少し違います」
「どう違うんですか?」
ベルが尋ねる。
司祭は答えた。
「商売が禁じられているのです」
トリーが目を丸くした。
「えっ?」
「商売?」
「ええ」
司祭は頷く。
「祈りと省察のための場所ですから」
静かな声だった。
「俗なものを持ち込むべきではないと考える人も多いのです」
トリーは感心したような、
よく分からないような顔になる。
「へぇ……」
ベルは少し考え込むような顔をした。
それから。
「なんだか、
本当に特別な場所なんですね」
小さくそう呟く。
司祭は微笑んだ。
「そう思う人も多いでしょうね」
その横で。
レアが小さく鼻を鳴らした。
「ふーん」
興味があるのか、
ないのか分からない反応だった。
当然、
トリーは放っておかなかった。
「レアさんは行ったことあるんですか?」
レアは前を向いたまま答える。
「ある」
トリーが身を乗り出した。
「どうでした?」
少しだけ沈黙。
そして。
「森だった」
トリーが固まる。
ベルも固まる。
司祭だけが肩を震わせた。
「それは間違っていませんね」
レアは肩を竦める。
「だろ」
トリーがすぐに抗議した。
「いやいや!
絶対もっとあるでしょ!?」
「あるな」
「じゃあ教えてくださいよ!」
レアは少しだけ考えた。
本当に少しだけ。
それから答える。
「夜は綺麗だった」
ベルが目を瞬かせる。
思っていたより、
ずっと普通の感想だったからだ。
だが。
なぜだろう。
その一言だけで、
少し見てみたくなった。
レアはそれ以上何も言わない。
再び前だけを見て歩き始める。
トリーはまだ聞きたそうだった。
だが。
司祭が小さく笑う。
「実際に見た方が早いでしょう」
トリーは不満そうな顔をした。
「気になるなぁ……」
誰も答えない。
風だけが静かに吹き抜けていく。
空は少しずつ赤く染まり始めていた。
夕暮れが近付いていた。
その日の夜。
一行は街道脇の小さな空き地で野営することになった。
荷物を下ろした途端、
レアと司祭が自然に動き始める。
「その薪じゃない」
「乾いてる方だ」
「風下は避けた方がいいでしょうね」
二人はまるで前から一緒に旅をしていたかのように、
手際よく準備を進めていった。
その一方で。
エリオンは何を手伝えばいいのか分からず、
中途半端な場所に立ち尽くしていた。
とりあえず薪を運ぼうとする。
だが。
積み上げられた薪に手を掛けた瞬間。
ガラガラッ。
薪の山が崩れた。
一瞬、
その場が静まり返る。
エリオンは黙って薪を拾い集めた。
「……すみません」
レアが深いため息を吐く。
「お前はもう座ってろ」
トリーが吹き出した。
「兄ちゃん追放された!」
「うるさい」
エリオンは居心地悪そうに頭を掻き、
近くの岩へ腰を下ろした。
ベルがトリーの腕を軽く叩く。
「からかわないの……」
「なんで?」
「見てて可哀想だから……」
トリーはけらけら笑った。
その間にも。
レアは慣れた手つきで火を起こしていく。
パチッ。
小さな火が薪へ移る。
やがて。
炎がゆっくりと大きくなった。
レアは昼間に仕留めた蛇を取り出す。
手際よく下処理された肉を枝へ刺し、
火の上へかざした。
しばらくして。
独特の匂いが漂い始める。
ベルの顔がすぐに曇った。
「うぅ……」
トリーも鼻を押さえる。
「なんか変な匂いがする……」
レアが鼻で笑った。
「焼けたらもっとひどいぞ」
ベルの顔が本気で引きつる。
「聞きたくなかった……」
エリオンは火の向こう側を見た。
焼かれている蛇。
昼間の鮮やかな動きが嘘のようだった。
少し迷ってから口を開く。
「……意外と食べられるものなんですか?」
司祭が小さく笑う。
「ちゃんと焼けばな」
ベルが信じられないという顔になる。
「本当に食べるんですか……?」
「腹が減れば、
人は大抵のものを食べる」
司祭は苦笑した。
ベルはますます嫌そうな顔になる。
レアはそんな様子を見て、
少しだけ口元を歪めた。
「安心しろ」
「私の分しかない」
ベルは勢いよく首を振る。
「いりません……!」
「そうか」
レアはあっさり答えた。
トリーが慌てて話題を変える。
「スープ作りましょう!」
「俺もうお腹空きました!」
司祭が吹き出した。
「そうだな」
エリオンは黙って鍋を取り出した。
今度は余計なことをせず、
言われた通りに動く。
レアがちらりとこちらを見る。
だが。
何も言わなかった。
夜は静かだった。
焚き火がゆっくりと揺れる。
遠くから虫の声が聞こえてくる。
温かなスープの匂いが広がった。
トリーはいつの間にかまた喋り始めている。
ベルは止めようとして、
途中から一緒に笑っていた。
司祭は黙って鍋をかき混ぜる。
レアは少し離れた場所から炎を見つめていた。
誰も特別なことは話さない。
それでも。
不思議と心地よい夜だった。
そしてその上には――
満天の星空が静かに広がっていた。




