6 最下位争い
僕は意を決して、眠っている女子に一歩近づいた。
「あの、どこか具合が悪いんですか?大丈夫ですか?」
揺り起こすわけにもいかないから、そう声をかけた。
彼女は、ピクッと小さく動いて、それからゆっくりと顔をこちらに向けた。
(ええっ!?)
「あー…檜山君…だぁ…」
気持ちの良さそうな顔をして、彼女は微笑んだ。
「た、高桐さん!」
寝ていたのは、微笑みの女神、高桐彩花さんだった。
僕は思わず、一歩後ずさった。
教室ではいつも姿勢よく、気品というオーラを纏って座っている高桐さんが。
同級生たちに微笑みという祝福を授けている高桐さんが――フニャフニャだ。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感を感じる。
彼女の瞳に精気と焦点が戻った、次の瞬間。
――ガタンッ
そう音を立てるように高桐さんは立ち上がって、素早い動作でお弁当箱の蓋を閉じた。
「み、見ましたか?」
見た。たしかに見た。
というより、目に入ってきてしまったのだ。
でもそれについてのコメントは差し控えさせていただきます。
「それより時間、午後の授業だよ。」
校舎から予鈴のチャイムが聞こえてきた。
「あ…」
「急いで戻ろう。」
「は、はい。」
高桐さんがお弁当箱をバラの刺繍が入った小さなトートバッグに入れる。
僕は先導するように、ヤマボウシの下をくぐり、武道場の脇を抜けた。
昇降口までは、教室棟の前の直線道路である。
後ろから走ってきた高桐さんが僕の横に並び、そこで一段、いや二段くらい加速した。
(え、速っ…)
さすがは女子テニス部。ダッシュ力がすごい。
あっという間に、僕との距離をどんどん引き離して、昇降口のほうに曲がっていった。
(そんなに急がなくても。)
僕は園芸倉庫で予鈴を聞くことには慣れていて、本鈴までのペース配分がわかっている。
二人で並んで教室に戻るのは気まずいし、引き離されたくらいがちょうどいい。
僕は本鈴の直前に教室に入り、静かに席に着いた。
前の席の江田君はまだ席にいなくて、本鈴のチャイムが鳴ってから悠々と戻ってきた。
同級生のみんなはあまり気にしていないみたいだけど、江田君の行動には謎が多い。
昼休みになると、彼は大きな通学リュックを背負って教室を出て行く。
早退したのかと最初は思った。
でも昼休みが終わると、またリュックを背負って戻ってくる。
校内樹木の見回りの時に彼を見た記憶はないから、もしかすると昼休みは校外で過ごしているのかもしれない。
間崎第一高校では珍しいことではなくて、隣接しているコンビニに買い物に行く生徒もいるし、陸上部はランニングで出て行く。
(考えてみたら、僕は同級生のこと、何も知らないなあ。)
部活に入っていない、昼休みは校庭で過ごす、ということもあるし、僕自身のコミュ力不足も原因だ。
加えて、僕は時間に正確な生活をしている。
いつも通りの電車に乗り、いつも通りの電車で帰る。
ほとんど寄り道をする時間もないし、通学路は毎日同じ道を同じ時間に通ることになる。
そもそも、間崎駅から徒歩で通学する生徒は少ない。
さらに問題なのは、僕が「それでいい」と思ってしまっていることだ。
(江田君に聞いてみようかな。)
そうなのだ。
不思議に思っていることがあるのなら、本人に聞いてみればいい。
「そのリュック、何が入ってるの?」
「昼休みはどう過ごしてるの?」
そのくらい、簡単なことのようにも思う。
(うーん、でもなあ…)
そんな立ち入ったことを聞いていいものなのか。
僕にはその常識やマナーがわからない。
中学時代の僕は、周囲から気を遣われる存在だった、と思う。
一学年に二十人しかいなかったし、その半分は檜山家の親族か、関係者の子女だった。
例えば、檜山本家の長男である僕のことは、みんなが「佑登君」と呼ぶ。
他の全員が、名前呼び捨て、またはあだ名で呼び合っていたのに、だ。
先輩であっても、檜山一族であれば僕は呼び捨てにする。
歳の近い従兄には、子どもの頃からそうだった。
従兄のほうは、僕を君付けで呼ぶ。
別に村の掟があるわけではないのだけど、なぜかそうだったのだ。
(そんななかでコミュ力が身に着くわけがない)
と、自分に言いわけをする。
だけど、きっとそういうことは失敗しながら体得していくものなのだろう、とも思う。
(例えば、江田君にリュックの中身を聞いてみたとして…)
江田君のことだから「別に」とか言いそうだ。
吉崎君だったらきっと、
『別にってことないだろ、ずいぶん重そうじゃねえかよ。』
とか、サラッと聞くだろう。
(無理だ…)
吉崎君は、誰とでも分け隔てなく接するし、優しくて正義感がある。
そういうキャラクターだから、サラッと聞いても不快感を与えない。
同じことを僕が聞いたら、きっと「なんだ、こいつ」って思われる…。
午後の授業は、そんな僕自身の弱さをウジウジと悩みながら過ごした。
授業が終わると、教室はひとしきり賑やかになる。
部活に行く人、寄り道の相談をする人、ごく自然に連れ立って帰っていく人。
(そうか、こういうタイミングだよね。)
僕は前の席で帰り支度をしている江田君の背中を見た。
声をかけるなら今だ、と思った。
でも、声をかける前に江田君がくるりと振り返って僕のほうを見たから少し驚いた。
「なあ、佑登。」
「えっ、なに?」
「佑登、校庭の木の枝に赤い印つけて回ってるだろ。」
「うん。」
江田君はどこからか見ていたらしい。
「あれ、何やってんの?」
「ああ、あれはね、梅雨に入って雨が降ったり、風の強い日なんかがあると、木にかかる負担が大きくなるんだ。だから枝葉が混み合ってるところは間引きして、風通しを良くしたほうがいいんだよね。それで、切った方がいい枝にマークをつけて、後で用務員さんが切ってくれるんだ。」
僕がそう説明すると、江田君はポカンとして聞いていた。
何かおかしなこと言ったかな。
「佑登って、そんなにしゃべる奴だったのか。」
え、そんな感想になるのか…。ちょっとショックだ。
「ああ、ごめんごめん。生物委員ってそんな知識もあるんだな、すげえな。」
江田君こそ、そんなにフレンドリーに話しかけてくる人だと思わなかった。
「生物委員、というか…、僕の家は林業をやっていて、僕もときどき手伝うから少し知ってるんだよ。」
「へえ、佑登ってどこ住んでんの?」
「山の中だよ、八柳村っていうんだけど」
「八柳か!いい所だよなあ。」
そうなのか。
僕にとってはもちろんいい所だけど、土地の外の人からそんな風に言われるのは初めてだ。
「あ、江田君。」
「ん?」
「そのリュック、重そうだけど何が入ってるのか聞いてもいいかな。」
このタイミングしかない、と思って聞いてみたんだけど、話の流れではちょっと唐突だったかもしれない。
江田君は、少し驚いたような顔をして
「別に」
と言った。そして
「隠すようなモノは入ってないぞ?」
と、リュックを僕の机に置き、チャックを開けて中を見せてくれた。




