3 ケヤキの枝事件
もったいぶったような、ゆっくりとした口調だった。
「え…二回目…?」
以前にも、何か粗相があったのだろうか。
思い当たる節はないのだけど。
「去年の…今頃、でした、よね。」
「去年?」
「ケヤキの枝が…、折れて」
「ええっ!」
僕は思わず大きな声を出してしまった。
(な、なんということだ…)
折れたケヤキの枝――。
それは僕が高校に入ってすぐに仕出かした大失敗。
黒歴史と言っていい。
僕たち生物委員の仕事に「校内の樹木の見回り」というのがある。
歴史のある高校なので、校庭の木々は立派に成長し、大きく枝を張るものもある。
なかでも、体育館前の大ケヤキは象徴的な存在の古木であり、大樹だ。
異音が漏れていることに気づいたのは、ちょうど去年のゴールデンウィーク明けの昼休みだった。
ケヤキの下から見上げたら、ミミミ、という不穏な音が小さく聞こえてきたのだ。
すぐに調べるべきだった、と今さらながらに思う。
だけどその時は、ついうっかり翌日に延ばしてしまった。
職員室に行って、生物の中里先生に説明して調査の許可をもらう、その手間を面倒に思ってしまったからだ。
「白腐病?それって果物の病気よね?」
「あ、正確にいうと『白色腐朽』です。枝の中が菌で白く腐ります。」
「その疑いがあるということ?」
「はい、ちょっと登って、叩いてみたいんですけど」
「わかったわ、でも絶対に無茶をしたらダメよ?調べるだけだからね?」
「はい、わかりました。」
梯子をかけて木に登り、木槌でコツコツと叩くだけだ。
中がスポンジ状に腐食していると、乾いた空洞のような音がする。
その場合、すぐに直下を通行止めにし、伐採業者を呼んで枝を切り落とす必要がある。
風のある日だった。
ケヤキには、体育館と武道場の隙間から「ビル風」のように風が吹きつける。
僕は「園芸倉庫」と呼ばれる倉庫から、梯子を担いでケヤキに向かった。
木の下に女生徒がいたから、説明して移動してもらわないと、と思った。
白腐病の厄介なところは、見た目には元気な枝と変わらない、ということだ。
中がスカスカの状態でも、樹皮に近いパイプを水分や養分が流れれば、枝先には青々と葉が茂る。
詳しく説明する前に移動してくれたらいいけど、と思いながら数歩、彼女に近づいた時だった。
張り出した枝をしならせるほどの風が、校庭に吹きこんできた。
――メキッ
乾いた音がはっきりと聞こえた。
(やばいっ!)
僕は慌てて梯子を下ろし、走った。
「危ない!離れて!」
と、叫んだけど、何が危なくてどう離れればいいのか、説明する時間はなかった。
枝が落ちてきたら、少なくとも大怪我をする。
僕は夢中で、女生徒の後ろから両肩を掴んで持ち上げた。
華奢な人だったから、持ち上げて、そのまま数歩進む。
――バキッ、ザザザッ!
枝が折れた音がした。
僕の背後に、ドーン、と大枝が落ちて来れば、恰好もついたのだけど。
折れた枝は、一番下に張り出した横枝に落下し、そこで止まった。
(落ちてこなくてよかった)
と思うと同時に、大げさに騒いで女生徒を抱き上げてしまったことに気がついた。
彼女は驚きと恐怖で身を縮こませていた。
わけもわからず、背後から襲撃されたのだから当然だ。
当時の僕は入学したばかりの一年生。
校内の生徒の三人に二人は先輩だ。
「ごめんなさい!枝が落ちてくるかもと思って」
そんな言いわけをしながら、平身低頭、謝り倒して逃げたのを覚えている。
(それがまさか、高桐さんだったとは…)
彼女がときどき僕を見ていた理由が判明した。
襲撃男を睨みつけていたのだろう。
「微笑みの女神」が睨んでも迫力はないのだけど、そんなことは問題じゃない。
そして、また今日である。
チャドクガの容易ならざることは林業や園芸関係の人なら知っているが、普通の人から見れば「ただの毛虫」だ。
僕はまたしても大げさに騒ぎ立て、彼女の手を断りもなく握りしめてしまったのである。
「あ、あの、高桐さん、本当にごめん。けして何か下心があってとかいうことじゃなくて、緊急避難的にやむを得ずというか、僕なりに考えて最善の手段を選択したわけで…」
ああ、何言ってるんだろ、僕は。
(ダメだ、最下位転落だ…)
実を言うと、僕は「クラスで下から二番目」だと自分を過大評価していたのだ。
時間にルーズでみんなに迷惑を掛けても平気でいる江田君よりはマシだろう、と。
でもそうじゃなかった。
こともあろうに、クラスで一番の高桐さんに、二度までも不快な思いをさせてしまっていたとは。
僕は少なくとも他人に迷惑は掛けてない、そんな思い上がりはもろくも崩れ去った。
明日からは「クラスで一番下の僕」として、ひっそりと高校生活を送っていこう…。
「ククッ」
高桐さんは僕の隣で俯いて、それから喉の中から変な音を出した。
そして――。
「待って、檜山君…落ちついて…」
笑い出すのを堪えるように、ゆっくり言った。
それから小さく深呼吸。
「もう私が話してもいいですか?」
「うん。」
そうだ。
お説教か苦情かわからないけど、とにかく最後まで聞いてから謝るところは謝る、というのがマナーだ。
「檜山君は…いい人、すぎます。」
「……?」
一瞬、何を言われたのかよくわからなくて、僕が黙っていると、高桐さんは一歩僕の前に進み出た。
向かい合って立って、それから――
(えっ…)
高桐さんが、僕の前でお辞儀をした。
「去年は、危ないところを助けてくれて、ありがとうございました。」
「いや、あの…」
危なかった、というのは事実かもしれないけど、実際にはケヤキの大枝は落ちてこなかった。
「ずっと言いたかったのに、一年も経ってしまって…ごめんなさい。」
僕はあの時の女生徒が高桐さんだとは気づいていなかったから、謝られても返事に困る。
「さっきも、毛虫を取ってくれて助かりました。ありがとうございました。」
そして、高桐さんはゆっくりと顔を上げて、本当に女神のように微笑んだ。
「やっと、言えました。」
晴れ晴れとした、というのだろうか、気持ちが和らいだような、そんな表情だ。
「あ、それと…危ない人を、助ける時は…触るのは仕方ない、と思います。」
最後はやけにゆっくりと、幼い子に言い聞かせるように、高桐さんは言った。
「うん、わかった。じゃあ、えっと…どういたしまして。」
僕はそう返答するのが精一杯だった。
「あっ、高桐さん、ごめん!行かなきゃ!」
電車の時刻が迫っていた。
駅まで走らないと間に合わない。
電車に乗り遅れると、バスに乗れず、バスに乗れないと一時間半、歩いて帰ることになる。
僕は日の傾いた街を駆け抜けるべく、地面を蹴って走り出した。




