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2 女神と毛虫

 終業のチャイムが鳴って、今日も何事もなく授業が終わった。

 六限目は生物基礎。

 「日照と植生の遷移」という授業だった。


 最初にプリントが配られていた。

 授業を聞きながら書きこみ、最後に考察を書いて提出する、というものだ。


「生物委員、回収よろしくね。」


 学級担任でもあり、生物担当の中里(なかざと)絵麻(えま)先生が、そう言って教室を出ていく。

 二年三組の同級生たちはみんな優しくて、僕の席にプリントを持ってきてくれる。


 ある程度集まったら枚数を確認。


(あと二人か。)


 吉崎君が「はい、檜山、よろしくな」と言ってプリントを渡してくれて、残りは――前の席の江田(えだ)君だ。


 江田直紀(なおき)君はいつもマイペース。

 特に「時間」に縛られる意識が薄いみたいで、遅刻常習者でもある。


 植生遷移の本質は、植物自身が自らの生育によって日照量を変化させ、その結果として次に優占できる種へと世代交代を引き起こす環境形成プロセスだ。

 考察欄にはたいてい、そんなことを書いておけばいいと思うのだけど、江田君はカリカリとシャーペンを動かし続けていた。


(えっ、裏?)


 背中越しに見ていたら、江田君はプリントを裏返して書きこみ始めた。

 記入欄が足りなかったらしい。

 これは簡単には終わらないやつだ。


 暇だからプリントを席順に並べ替える。

 同級生の回答を覗き見るのは気が引けるけど、作業をしていれば目に入ってくる。

 それぞれの個性が発揮されていて、なかなか面白い。


 定規をあてながら書いたように、文字がきれいに整列しているのは生徒会の津々井(つつい)萌奈(もえな)さん。


 デジタル研究部の西野(にしの)康平(こうへい)君は、理論派で頭がいいんだけど、手書き文字は苦手みたいだ。


 歴史探求部の伊本(いもと)美亜(みあ)さんは考古学に興味があると話していた。

 発掘調査に参加したりしているらしい。

 スケッチが得意で、コケやシダの絵が上手に描かれている。

 でも残念、ニシキシダの葉は左右対称の『対生』じゃなくて左右交互に生える『互生』なんだよな。


「ん、終わった。はい、佑登(ゆうと)」


 江田君が振り返って、プリントを差し出していた。

 彼はなぜか誰のことも名前で呼ぶ。

 「お待たせ」でも「ごめん」でもないところが江田君らしい。


 同級生たちはみんな、部活に行ったり帰っていったりして、教室にはもう僕たち二人しか残っていない。


「うん、ずいぶんたくさん書いてたね。」


 そう言って受け取ると、江田君は


「まあ、こだわりのあるテーマだったからな。」


と独り言のように呟きながら、帰り支度を始める。

 通学鞄としては大きすぎるリュックも、江田君の不思議の一つだ。


「じゃあな。」


「ああ、うん。また明日。」


 これで全員分が揃った。

 江田君の考察欄には「木漏れ日が」とか「葉の陰影によって露出が」とか書いてあった。


(生物の授業に関係あるのかな…)


 ちょっと思ったけど、詳しく読むのも悪いから、同級生たちのプリントと一緒にしてトントンと整える。

 職員室に寄って先生に渡したら生物委員の役目は終わりだ。



 中里先生は職員室の自分の席でコーヒーを飲んでいた。


「先生、プリント回収してきました。」


 プリントの束を先生の机に置く。

 回収してきた、といってもみんなが僕の席に持ってきてくれたんだけど。


「ありがと。檜山君には物足りない授業だったんじゃない?」


 中里先生はうちが林業を営んでいることを知っている数少ない人の一人だ。


「そんなことはないですよ。知識の再確認ができたというか…。」


「考察欄に書きたいことが多すぎて困ったでしょ。」


「いえ、五行に要約して記入しました。」


「ふふ、要約ね。はいはい。」


 たしかに、森林の変化や植生の遷移には実践的な知識がある。

 ゴールデンウィーク中も山菜採りやタケノコ掘りで山に入った。

 田植えの手伝いのほうがきつかったけど。


「それでは失礼します。」


「はーい、ごくろうさま。」


 職員室を出て、いつものクセで時計を見る。

 電車の時刻まではまだ少し余裕がありそうだ。


 僕の家は、山の中にある。

 電車でおよそ三十分。最寄り駅からバスで約三十分。

 さらにバス停から家まで徒歩二十分。


 八柳村檜山郷というひっそりとした集落で、親族たちと暮らしている。


 一方、高校のある間崎市中心街は大きな地方都市だ。

 校門を出ると、住宅密集地を歩く。


 住宅地を抜けて、椋川という川の土手をめざす。

 椋川を渡って駅まではだいたい二十分くらいかかる。


 バスもあるし、駅から自転車で通学している子もいるけど、僕は歩く。

 小学校も中学校も、一時間くらい歩いて通っていたから、さほど苦にもならない。

 電車の時刻に合わせて、微妙な時間調整ができるのも徒歩の長所だ、と思う。


 だが、今日は見慣れない光景に出くわした。


 民家の前の道路に、女の子がぽつんと立っていたのである。


 女の子、といっても、うちの高校の生徒だ。

 長袖の制服の、左腕のあたりをじっと見つめながら、呆然とした様子で立っている。


(高桐さん…?)


 隣の席の高桐彩花さんだった。


(どうしよう…)


 何か声をかけたほうがいいのだろうか。

 でも、彼女が僕のことを不快に思っているとしたら申しわけないし。


 そんなことを思いながら、高桐さんとの距離が縮まっていく。

 彼女の細くしなやかな、栗色の髪が五月の風に揺れていた。

 健康的な肌色の頬が、いつになく引きつって見える。

 長い睫毛は瞬きを忘れたように固まって、その視線の先には…


(あっ)


 僕は急いで背中のリュックを前に回した。

 リュックの中から作業用手袋を取り出す。


 手の平側がラバー素材になっている手袋で、これを装着すればたいていのものは触れる。

 僕にとってはお守りのようなものであり、一種の変身アイテムのようなものでもある。


「触っちゃダメ!」


 高桐さんが左腕についた毛虫を右手で払いそうな素振りを見せたから、僕は少し強めに言った。

 急に声をかけられ、高桐さんはビクッと驚いたように振り返って僕を見た――ようだったけど、そのご尊顔はまともに見れないから、気配だけ感じた。


 彼女の袖の上で呑気に蠢いている――毛虫のほうが問題だ。


 クリーム色の体に整然と並ぶ黒い斑点。モサモサと白っぽい毛が、体の左右に密生している。

 僕は右手に手袋をはめ、素早く地面を見回す。


 落ちていた小さな枯れ枝を拾い上げた。

 左手で高桐さんの手を取る。


 小さく、柔らかく、すべすべの手――なんてことは考えなかった。


 毛虫を枯れ枝で慎重にすくい上げる。

 見ると、民家の塀の向こう側から、ツバキの枝が張り出していた。

 そのツバキの葉の上に毛虫を乗せる。

 風で飛ばされたのだろう。


「チャドクガ、っていって触るとかぶれる毛虫なんだ。ツバキの葉っぱが好きだから、きっとそこから落ちてきたんだと思う。」


 今の時期は山に入る時も警戒する虫の一種だ。

 モサモサの白い毛の中に、目に見えないほど細い毒針毛(どくしんもう)を持っていて、かぶれると一週間以上も痒みが続く。


「檜山君…」


 高桐さんがか細い声で言った。


「あっ、ごめん…!」


 僕は畏れ多くも微笑みの女神様の手を断りもなく掴んでいたことに気がついて、慌てて手を離した。


(毛虫を口実に手を握ってくる陰キャ男子・・・キモい)


と思われても仕方がない。

 ここで僕にできることは、そう――脱出だ。


「じゃあ、気をつけて」


 僕はそれだけ言って、彼女の前を通り過ぎ、駅への道を…


「えっ、まっ…」


 高桐さんは僕を呼び止めようとして、でもすぐに思い直したようで、僕の隣に追いついてきた。


(ええー)


 いつもの通学路を、高桐さんと並んで歩く。

 さすがに走って逃げるわけにもいかない。


「二回目…ですね…」


 すぐ横から、高桐さんの声が聞こえてきた。

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