9 不器用な女神
夕方になっても、雨は降り続いていた。
さほど強い雨ではないから、傘の雨音も大きくない。
僕は大手門前の大きなタブノキの下に立っていた。
(なんだかおかしなことになっちゃったな。)
クラスの文化祭展示にずいぶん大きく関わることになってしまった。
うちの山で野鳥の声を録音してくるとか、園芸倉庫に眠っている植木鉢にシダを植えて飾るとか。
間伐材を切って木製のコースターを作るとか。
どれもさほど手間のかかることではないから僕はいいのだけど、同級生のみんなは意外に期待してくれているようだった。
(僕もクラスの一員なんだから、きちんと協力しないとね。)
と、僕は一生懸命「文化祭のこと」を考えようとしていたけど、まったく集中できない。
今から高桐さんの家を訪問するのだからあたりまえだ。
結局、ボケッとなって雨の街をぼんやり眺めていたら、高桐さんが白い傘を差して帰ってきた。
「待たせて…ごめんね。」
「ううん、大丈夫。」
朝から気になっていたのだけど、高桐さん、「ですます調」じゃない時はゆっくり話すんだな。
というより、彼女が同級生にタメ口で話すのを聞いたことがない。
(まあ、たしかに僕なんかにはタメ口で十分だしね。)
さらに言えば、同級生なんだからそのほうが自然だ。
「こっち、なの。」
高桐さんは建設会社長令嬢と聞いていたので、どんなお屋敷かと思っていたら、まだ新しいマンションに入っていった。
入口で指紋認証をしてから暗証番号を押している。
ハイセキュリティ、というやつだ。
並んでエレベーターに乗って、高桐さんが十階のボタンを押す。
エレベーターには十四階までボタンがあったのだけど、
「家族は、十五階に、住んでるの。」
と、エレベーターを降りながら言っていた。
マンションの入口に「ハイフォレスト大手門前」と看板が出ていたから、つまり高桐家所有のマンション、ということなのだろう。
(えっ、ちょっと待って。)
家族は最上階に住んでいる、おそらく住人とは別のエレベーターがある、というのはわかった。
ということは――。
高桐さんは一室の前に立ち止まり、鍵を開けている。
(まさか、一人暮らし…?)
「どうぞ、上がって。」
ドアを大きく開けて手で押さえながら、高桐さんはまたゆっくり言った。
「うん、お邪魔します…」
さすがに廊下にいるというわけにもいかないから、部屋に入った。
高桐さんも入って、靴を脱いで、
「檜山君、こっち」
と、玄関の前にある中扉を開ける。
ご家族に会うものだと思って緊張していたのだけど、別の緊張が襲ってきた。
僕は親戚の中で育ったせいか、中高年の人と話す方が実は気が楽だ。
だから、たとえ高桐さんのお母上であっても、世間話くらいならなんとかなる、と考えていた。
が、まさか一人暮らしの部屋で二人きりになるなんて、想像していなかった。
話を聞くと約束したから今さら逃げるわけにもいかない。
僕は覚悟を決めて、靴を脱いだ。
(えっ、じゃあ、もしかしてあのお弁当は…)
部屋の灯りを点けた高桐さんの後ろに続いて、中扉を入ったところで僕は足を止めた。
「えっ?」
「これ…なんだ…けど」
部屋は十畳くらいだろうか。
ダイニングキッチンは別で、部屋との間に曇りガラスを嵌めた間仕切り戸がある。
部屋の南側にはベッド、西側に机。
絨毯敷きの床には、
(なんだろう、これ。)
木の板と棒が散らかっていた。
引き出しのようなものもある。
(あ、組み立て家具か。)
通販あるある、と聞いたことがある。
『お一人で組み立て可能です』と書かれていても、実際には女の子一人じゃ無理、ということがあるらしい。
「それで?」
なんて意地悪を言ってみる趣味は僕にはない。
「説明書ってあるかな。」
「あ、うん。」
高桐さんが手渡してくれた説明書は――英語で書かれていた。
だけどまあ、図解もあるし、だいたいのことはわかる。
スウェーデンから取り寄せた、棚付きのサイドテーブルのようだ。
(まず、部品が揃っているかの確認だな。)
金属製のネジやクギは使わないようだ。
木組みと木ダボで組み立てるタイプで『直角を保ちながらはめる』といった作業がある。
固定具などがあれば簡単だけど、一人では意外と苦労する。
(なるほど)
通販で取り寄せたのはいいけど、組み立てに手こずって僕を呼んだわけか。
北欧の高級家具によく使われるカバの木、たしか「バーチ」と呼ばれる木材だ。
(でもこれは…無理だな)
引出しのレールに使う棒状のパーツがなぜか折れていて、木ダボも一つ割れている。
中途半端にはまった状態でバランスを崩し、倒れた拍子に体重をかけてしまった、というところか。
「高桐さん、今日は直せないから、日曜日にもう一回来てもいい?」
「え、…いいの?」
「だって、このまま散らかしておいたら邪魔でしょう?」
「うん…」
僕は鞄から定規を出して、折れたパーツと木ダボの寸法を測り、スマホにメモした。
「あ、それとね、この家具は一人で組み立てるのが難しいタイプだから、高桐さんはポンコツじゃないよ。」
高桐さんはあいまいな微笑みを浮かべて、それからゆっくり首を振った。
「でも…檜山君は…人を安心させるのが…得意だよね。」
そんなことを言われたのは初めてだ。
微笑みの女神に褒められるのはこそばゆいけど『不安にさせるのがうまい』と言われるよりはずっといい。
高桐さんは机の引き出しを開けて、小さなビニール袋を取り出した。
(あ、それ…)
袋の中に、刺繍入りの白ハンカチが入っていた。
「これ、檜山君…でしょ?」
高桐さんは口数が少ない。
言葉も少ない。
でも、なんとなく言いたいことはわかる。
「うん、雨が降りそうだったから。」
「ありがとう…。」
そういえば、このハンカチが椅子づくりのきっかけになったのだった。
新しい椅子を作るのは楽しかったから、お礼を言いたいのは僕の方だ。
「椅子の周りにね、木の部品が…少しずつ増えていって、何かなあ、って思っていたの。」
椅子の製作には二週間くらいかけたから、その過程のことだろう。
きっとときどき倉庫の隙間に来てランチを食べていたのにちがいない。
「昨日行ったら、それが椅子になってて、座ったら…座り心地が、優しくて、安心して…」
それはよかった。
「お弁当ね、昨日初めて…作ったんだ。」
自作弁当でしたか。やっぱり。
「檜山君は…なんでもできるのに…私は、ポンコツで、情けなくて…凹んでたら寝ちゃって…」
料理は僕もするけど、夏の家の台所は竈に火を起こして煮炊きをするし、焼き物は七輪で焼くからアドバイスはできない。
ひとつだけ、助言できるとすれば…
「料理してる時は目を離しちゃいけないんだって。」
昔、祖母ちゃんに言われたことだ。
もっとも料理の助言というより、夏の家で火を扱う時の注意だろうけど。
「うん、そうだよね。ちょっと髪を乾かしてたらお肉は焦げるし、ドライヤーかけようとして炊飯器のコンセントは抜いちゃうし…」
カピカピご飯の理由はそれでしたか。
まあ、初心者の失敗としては可愛いほうじゃないだろうか。
「IHだから、焦げる前に止まる、って聞いてたのに…」
味噌焼きだったからかもね。
「初めてだったらそういうものだよ。僕も最初の時は芋が生煮えで、食べたらカリッてしたもん。」
竈の火力を上げるのは、けっこう難しいのだ。
慣れないうちは料理にすごく時間がかかった。
「えっ…檜山君、お料理もできるの?」
あ、口が滑った。
「料理と言えるようなものじゃないよ。煮たり、焼いたり、くらいだから。」
「ふふっ、檜山君が、作るお料理だったら…なんだかホッとできそう。」
うう、教室とは違う高桐さんは可愛らしすぎて、なんだか息苦しくなってきた。
「あっ、高桐さん、じゃあまた日曜日に来るね。お昼過ぎくらいでいいかな。」
「うん、わかった。あ、連絡先…聞いていい?」
「ああ、うん。」
江田君に続いて、高桐さんの連絡先も教えてもらった。
マンションを出ると、外はもうだいぶ暗くなっていた。
僕はパクパクと口を開けて、湿気を含んだ外の空気を思い切り吸い込んだ。




