最終話 本当に好きな人
あの日、涙に暮れる公園を走り去ってから、数年の月日が瞬く間に流れ去った。
俺は大学を無事に卒業し、慣れない土地で社会人としての第一歩を踏み出した。日々の業務は想像以上に忙しく、覚えることや責任の重さに追われる毎日。
いつしか、あんなに熱中していたメイク道具やウィッグはクローゼットの奥深くへと仕舞い込まれ、鏡の前で「今日も可愛い」と自撮りをしていた日々は、遠い学生時代の淡い幻のようになっていた。
それでも、完全に消し去ることのできない思い出が、ひとつだけあった。
オフィスのデスク、その一番上の引き出しの奥。名刺入れや文房具に紛れるようにして、それは大切に保管されていた。カプセルトイから出てくるような、安っぽいプラスチック製のきらきらした指輪。
ふとした瞬間にそれを見つけるたび、俺の脳裏には、一張羅のチェックシャツを着て、全財産の300円を握りしめていた小さな男の子の姿が鮮明に蘇る。
「あの子も、もう高校生くらいか……」
今思えば、本当にシュールで、だけど奇跡みたいに純粋な放課後だった。
きっと彼は今頃、部活や勉強に励み、歳の近い本物の女の子と出会って、青春を謳歌しているに違いない。俺のことなんて、幼少期の恥ずかしい勘違い、あるいはただの「黒歴史」として、綺麗さっぱり忘れてしまっているだろう。それでいいし、それが普通だ。そう自分に言い聞かせ、引き出しをそっと閉めるのが常だった。
しかし、運命の歯車は、忘れた頃に突然動き出す。
ある金曜日の夜。一週間の仕事を終え、疲れ果ててベッドに倒れ込んだ俺のスマートフォンが、微かに震えた。画面を見ると、かつて「お姉さん」として斗真くんとだけ繋がっていた、いまや動かすこともなくなっていたSNSアカウントに、一通のダイレクトメッセージが届いていた。
送信者は、あの懐かしいアカウント名。
恐る恐るメッセージを開いた俺は、そこに並ぶ短い文字列に、息を呑んだ。
『鹿目さん、覚えていますか? 約束通り、迎えに行きます。明日の午後二時、あの公園で待っています』
ドクン、と心臓が大きな音を立てて跳ね上がった。
全身の血が逆流するような、凄まじい緊張感と焦燥感が押し寄せる。忘れるどころか、彼はあの日の約束をずっと、一瞬たりとも忘れていなかったのだ。
その事実に対する驚きと同時に、泥のような葛藤が俺の胸を支配した。
あんなに純粋だった子供の思い出を、本物の大人の男である俺が、今更になって汚していいのだろうか。もし会いに行けば、彼は「憧れのお姉さん」の正体が、ただのむさくるしい男社会人だと知ることになる。その絶望とショックは計り知れない。
いっそ、このままアカウントを消して、逃げてしまおうかとも思った。
だが、スマホの画面を見つめるうちに、俺の心の中にひとつの強い決意が芽生えた。
これ以上、彼の真剣で、真っ直ぐな想いを騙し続けることこそが、彼に対する一番の裏切りだ。どれだけ幻滅されようが、嫌われようが、俺は本当の姿で彼と向き合い、すべてを清算しなければならない。それが、大人の、そして彼から想いを受け取った者の最低限の責任だ。
翌日。俺はクローゼットの奥の女装道具には一切触れなかった。
髪を短く整え、大人の男としての落ち着いた私服に身を包む。鏡に映るのは、どこにでもいる20代半ばの男性の姿だ。
ポケットには、あの引き出しから取り出したプラスチックの指輪をしっかりと忍ばせ、俺はすべての始まりであり終わりとなる、あの公園へと向かった。
約束の午後二時。初夏の爽やかな風が吹き抜ける公園は、あの頃と何も変わっていなかった。
ただひとつ違っていたのは、中央の時計の下に立っている人影だった。
そこにいたのは、すらりと背が高く、モデルのように端正な顔立ちをした男子高校生だった。すれ違う人々が思わず振り返るほどの洗練された雰囲気を纏い、お気に入りの一着なのだろう、シックなシャツを着こなしている。
だけど、その立ち姿、そわそわと足元を見つめるその独特の仕草には、紛れもないあの頃の面影が残っていた。
……斗真、くん……?
あまりの成長ぶりに足がすくみ、俺が声をかけることすらできずに立ち尽くしていると、彼がふと顔を上げた。
その大きな瞳が俺を捉えた瞬間、彼は迷うことなく、真っ直ぐにこちらへと歩いてきた。
かつては見下ろしていたはずの頭頂部が、今では俺の視線よりも遥か上にある。すっかり追い越されてしまった圧倒的な体格差と、彼から放たれる「男」としてのプレッシャーに、俺は息を詰まらせた。
斗真くんは俺の目の前で足を止めると、少しだけ目線を下げ、あの頃の面影を宿した優しい声で、静かに微笑んだ。
「……鹿目さん、だよね?」
低く、だけど耳に心地よい響き。その声に弾かれたように、俺はギュッと両拳を握りしめた。逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、自分の、飾らない生の声で話し出す。
「ごめん、斗真くん」
俺の声を聞いた斗真の眉が、微かにピクリと動いた。俺は構わず、一気に言葉を紡いだ。
「俺、君が思っているような『お姉さん』じゃないんだ。……見ての通り、ただの男なんだよ。大学生の時、本当にただの趣味で女装して歩いてたら、偶然君に出会って……。本当のことを言う勇気が出なくて、ずっと騙してたんだ。優しいお姉さんのフリをして、君の純粋な気持ちを弄ぶような真似をして、本当に、本当にごめん」
俺は深く頭を下げた。視界が地面に向かう中、ポケットから取り出したプラスチックの指輪を、震える両手で差し出す。太陽の光を反射して、それは相変わらずチープにきらめいていた。
「これは、君に返すよ。……君の、本当の初恋の相手に、いつか渡してあげて」
これで終わりだ。軽蔑されて、罵倒されて、背を向けられる。そう覚悟して、俺はぎゅっと目を閉じた。
しかし、何秒待っても、怒声も、立ち去る足音も聞こえなかった。
代わりに聞こえてきたのは、ふっと緊張が解けたような、斗真の小さな重いため息だった。
「やっぱり、その声だったんだね」
「……え?」
思わず顔を上げると、斗真くんは怒るどころか、どこか愛おしそうな、ひどく穏やかな表情で俺を見つめていた。彼は差し出された指輪を受け取ろうとはせず、逆に、俺の震える両手を、自分の大きくて温かい両手でそっと包み込んできた。
「薄々、気づいてはいたんだ。子供の頃、一瞬だけ低い声が聞こえたときも、街ですっぴんのお兄さんに会ったときも。……でもね、そんなこと、俺にとっては本当にどうでもいいことだったんだよ」
斗真くんの手が、俺の手をぎゅっと握りしめる。その力強さは、あの駄菓子屋へ行く道すがら、俺の手を引いていた小さな手のそれとは比べ物にならないほど、確かな「一人の男」のものだった。
「男だとか、女だとか、そんなの関係ない。俺の話を一生懸命スマホで聞いてくれて、一緒に泣いて笑って、逆上がりができたときに誰よりも喜んでくれた……そんな鹿目さんっていう人間そのものに、俺は恋をしてたんだ。あの時からずっと、今まで一度も、変わらずに」
斗真くんは俺の目を真っ直ぐに見つめた。そこには、あの小学二年生のときの無垢な輝きと、それ以上に、一人の大人の男としての揺るぎない、強い覚悟が宿っていた。
彼は深く息を吸い込むと、低く、だけど情熱を孕んだトーンで、俺の胸の奥に直接届くように告げた。
「俺は、どんな姿の鹿目さんも好きだよ。……今度は子供の約束じゃなくて、本気。俺がもっと大人になって、鹿目さんを幸せにできるようになったら、今度こそ俺と結婚してください」
その瞬間、風が二人の間を吹き抜けた。
差し出された真っ直ぐすぎるプロポーズの言葉に、今度は俺のほうが、言葉を失って完全にフリーズする番だった。




