第七話 待ってるね
それから、さらに月日は流れた。
怒涛の就職活動をなんとか乗り越え、俺の大学卒業と、とある地方企業への就職が内定した。それは同時に、俺が生まれ育ったこの街を離れ、遠く離れた土地へと引っ越さなければならないことを意味していた。
地元を離れる前の、最後の週末。
俺はこれまでにないほどの時間をかけて、丁寧に、丁寧にメイクを施した。お気に入りのサックスブルーのワンピースに袖を通し、ウィッグを整える。鏡の中にいる「お姉さん」の姿を見るのも、これが最後になるかもしれない。
待ち合わせ場所は、やはりすべての始まりだったあの公園だ。
時計の下へ行くと、斗真くんはすでに待っていた。出会った頃よりも少しだけ背が伸び、ランドセルではなく少し大人びたリュックを背負っている。だけど、俺の姿を見つけた瞬間にパッと顔を輝かせ、全力で駆け寄ってくるその無邪気さは、あの頃のままで。
「お姉さん!」
弾んだ声で俺の前に立ち、嬉しそうに笑う斗真くん。その笑顔を見るだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛む。
俺はポケットからスマートフォンを取り出すと、震える指先で、昨日から何度も打っては消した文字列を画面に表示させ、ゆっくりと斗真の目の前に突きつけた。
【斗真くん、大切な、お話があります】
【お姉さんね、遠い場所に行かなきゃいけなくなっちゃったの。だから、もうここで会うことはできなくなっちゃうんだ】
画面をじっと見つめていた斗真くんの動きが、ピタリと止まった。
少しの間をおいて、斗真くんは引きつったような笑みを浮かべ、俺の顔を見上げてくる。
「え、あはは……何それ、お姉さん冗談でしょ? 遠い場所ってどこ? 来週もまたここで会えるよね?」
嘘だと言ってほしくて、無理に笑おうとする斗真くん。
だけど、俺はそれに対して言葉を返すことも、スマホを打つこともできなかった。ただ、女装メイク越しの、隠しきれないほどに寂しげで悲痛な表情で、静かに斗真を見つめ返すことしかできなかった。
その俺の顔を見て、斗真の顔から完全に笑みが消えた。これが冗談なんかではなく、本当に本当の「お別れ」なのだと、幼いながらに理解したのだろう。
斗真の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
今にも決壊して溢れ出しそうな涙を、斗真は小さな拳をぎゅっと握りしめて、必死に、必死に堪えていた。泣いて困らせちゃいけないと、子供ながらに健気に踏ん張っているのが痛いほど伝わってくる。
やがて、斗真くんは震える手でズボンのポケットを探ると、何か小さなものを取り出した。
それは、ガチャガチャのカプセルから出てくるような、プラスチック製のきらきらした、おもちゃの指輪だった。子供の全財産では本物の貴金属なんて買えないけれど、太陽の光を浴びて、それはどんな宝石よりも眩しく輝いて見えた。
斗真くんは小さな両手でその指輪を捧げるようにして、俺へと差し出してきた。
「これ……本当の、高い指輪じゃないけど……。僕が大きくなって、もっとカッコよくなって、お姉さんを絶対に迎えに行くから。……だから、それまで、これ、持ってて」
しゃくりあげる声を必死に押し殺しながら紡がれた、小学二年生の、彼なりの精一杯のプロポーズの証。
その瞬間、俺の胸の中に、言葉にできないほどの罪悪感と、それ以上に愛おしさが濁流のように押し寄せてきた。
こんなにも真っ直ぐに自分を想ってくれる子供に対して、俺は最後まで嘘をつき、正体を隠したまま逃げようとしている。
最低の大人だ。本当に情けない。だけど──この子のくれた、この宇宙のどこにある何よりも純粋な想いを、無下にして引き裂くことなんて、俺にはどうしてもできなかった。
声を出すリスクなんて、その時の俺の頭からは完全に消え去っていた。
差し出されたプラスチックの指輪を、俺はそっと両手で包み込むようにして受け取る。そして、喉の奥をきゅっと締め、夜な夜な猛練習したあの完璧な、だけど少しだけ涙で震えた女声で、彼の目を見つめて告げた。
「──うん。待ってるね」
「あ……」
お姉さんの声が聞こえた。その奇跡に、斗真がハッと驚いたように顔を上げる。
だけど、彼がその大きな瞳をパチパチと瞬かせた時には、俺はもう背を向けて走り出していた。
女装メイクが涙でぐしゃぐしゃに崩れていくのを、必死に隠すように。
俺は一度も振り返ることなく、プラスチックの指輪を胸の前にぎゅっと抱きしめたまま、夕暮れの公園をただひたすらに走り去っていった。




