第二話 人生初のプロポーズ
声をかけられた男の子は、涙で濡れた大きな瞳をしばたたかせ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、男の子の泣き声がピタリと止まる。
擦りむいた膝の痛みも忘れたかのように、男の子は鹿目の顔をじっと見つめていた。まるで、おとぎ話の中から突然飛び出してきたお姫様でも目撃したかのような、完全な放心状態だ。
よし、第一関門は突破……! 変な不審者だとは思われてないな。
内心でホッと胸をなでおろしながら、バッグの中からあらかじめ用意していたお気に入りのハンカチと、キャラクターものの絆創膏を取り出した。
野郎の姿であれば少し危うい雰囲気だが、今の俺が持っていれば、それは「可愛いお姉さんの持ち物」へと完璧に偽装される。
公園の水道で優しく濡らしてきたハンカチを使い、俺は男の子の前にそっと膝をついた。
声を出しすぎるとボロが出る。ここは優しく微笑む作戦だ。
口元に慈愛に満ちた笑みを浮かべ、男の子の小さな膝についた砂とはみ出た血を、そっと吸い取るように拭ってあげる。
男の子は抵抗するどころか、身じろぎひとつしない。ただただ、目の前で自分の手当てをしてくれている「綺麗なお姉さん」の顔を、穴が開くほど見つめ続けている。あまりの視線の熱さに、俺のほうが少し照れくさくなってしまうほどだった。
……はい、これでよし。
仕上げに、可愛いクマのイラストが描かれた絆創膏をぽんと優しく貼ってあげる。
「もう痛くない?」と首を傾げて微笑みかけた。男の子はコクコクと機械的に首を縦に振るだけで、相変わらず魂が抜けたようにぼんやりとしている。
うん、手当ても終わったし、長居は無用だな。これ以上喋ると地声が漏れるリスクが高まるし、今日の『実験』は大成功ってことで、さっさと退散しよう!
役目を終えた俺は、スカートの裾を上品に押さえながらゆっくりと立ち上がった。男の子にひらひらと手を振り、そのまま踵を返して歩き出そうとする。
だが、その背中に向かって、思いがけない大きな声が響いた。
「あ、あのっ……! 待って!」
振り返ると、さっきまで放心していた男の子が、小さな拳を握りしめて立ち上がっていた。その顔は、怪我の痛みではなく、まったく別の理由で真っ赤に染まっている。
「僕、僕っ……!」
男の子は大きく息を吸い込むと、公園中に響き渡るような大声で、信じられない言葉を叫んだ。
「僕が大きくなったら、僕と結婚してくれませんか!」
「──え?」
あまりの衝撃に、鹿目の脳内処理が完全に停止した。
それと同時に、完全に油断していた喉から、取り繕う暇もないほどの「素の男の声」が漏れ出てしまった。低く、野太い、紛れもない男子大学生の「え?」である。
静かな公園に、妙に響き渡った低い声。
男の子は一瞬、不思議そうにパチパチと目を瞬かせた。
やっっっべええええええ! やらかした、完全に地声出た!!!
背中に大量の冷や汗が噴き出す。ここで男だとバレたら、今までの努力も、この男の子の純粋な(?)ときめきも、すべてがシュールな地獄絵図と化す。
咄嗟に片手で自分の喉を抑え、大袈裟にゴホゴホと咳き込んでみせた。そして、もう片方の手で「違うの、違うの!」とぶんぶんと手を振り、必死の形相でポケットからスマートフォンを取り出す。
目にも留まらぬ速さでフリック入力を進め、画面を男の子の目の前に突きつけた。
【ごめんなさい! お姉さん、今、喉の調子がすっごく悪いの! 変な声が出ちゃってごめんね!】
男の子は突きつけられたスマホの画面を一生懸命に読んでいる。読み終えると、ハッと納得したようにポンと手を打った。
「そっか、風邪なんだ! びっくりした……お姉さん、喉が痛いのに声をかけてくれたんだね。ありがとう!」
信じたーーー!! よかった、ピュアな子で!!
九死に一生を得た俺は、胸の内で神に感謝した。しかし、男の子の目はまだ爛々と輝いている。完全にプロポーズの返答を待つ目だ。
俺は再び猛スピードでスマホに文字を打ち込む。
【結婚の約束をしてくれるなんて、とっても嬉しいな。でも、お姉さんびっくりしちゃった。君、お名前はなんていうの?】
画面を見た男の子は、誇らしげに胸を張った。
「僕は榊斗真! 小学二年生だよ! お姉さんは?」
小二かぁ。可愛いなぁ、もう。
斗真くんの無邪気な自己紹介に、俺の緊張も少しだけ和らいだ。
さて、自分の名前をどう名乗るべきか。幸い、本名の「朝霞鹿目」は、男とも女とも取れる名前だ。
だが、フルネームを教えるのは少し怖い。俺は少し考えてから、文字を打ち込んだ。
【お姉さんは、かなめ っていうんだ。よろしくね、斗真くん】
「かなめさん……!」
斗真はその名前を愛おしそうに口の中で繰り返すと、ふにゃりと嬉しそうに頬を緩めた。その純真無垢な笑顔を見ていると、胸の奥に、得も言われぬ罪悪感がじわじわと広がっていく。
本当は二十歳を過ぎたゴリゴリの男子大学生なんだけどな……。こんな可愛い子を騙してていいんだろうか……。
そんな内なる葛藤など露ほども知らないのだろう。斗真くんは一歩前に踏み出すと、今度は少し照れくさそうに、でも真剣な眼差しで俺を見上げてきた。
「僕、絶対に大きくなって、お姉さんにふさわしいカッコいい男になるから。だから……またここで、僕と会ってくれますか?」
真っ直ぐすぎるプロポーズの第二波。
スマホを握りしめた鹿目は、その眩しさに目を細めながら、ただコクコクと頷くことしかできなかった。




