第45話
心地よい風を感じて、アドリアンナは目を覚ました。一瞬の間、自分のことが分からなかった。
自分が誰で、なぜここにいるのか覚えていない。
ぎこちなく体を起こす。節々が痛かった。
窓を見る。白く柔らかく眩しい。朝の光だった。
ふと窓際の棚の上に、うさぎのぬいぐるみが置かれているのが目に入った。煤が触れたようにところどころ黒ずんではいるものの、澄ました表情で座っている。
(……かわいい)
あれを知っている。覚えがある。そうだ、この手で作ってあげたんだ。あの、可愛い女の子に、あげたんだわ。あの子はとても喜んでくれて、あの時のわたしはとても幸せだった――。
「ジュリエッタ……?」
間違いなく、それはアドリアンナがジュリエッタにあげたものだった。
そう思った瞬間、思い出した。
覚えている。全て。
オフィーリアにフェルナンの呪いの解き方を聞き、実行した。自分は死ぬはずだった。だがこうして生きている。
「どうして?」
アドリアンナは自分の首に触れる。そこには傷など一つもない。
「失敗……した?」
絶望だった。
自分が生きていていいはずがなかった。生きているということは、フェルナンの呪いは解けなかったということだ。
「ああ、嘘。そんな、そんな……!」
アドリアンナはベッドから立ち上がった。一体どれほど長い間横になっていたのだろう。足に力が入らない。ふらついて、その場に倒れかける。だがそうはならなかったのは体を支えられたからだ。
「危ない!」
温かで力強い腕だった。一瞬、それがフェルナンではないかと疑った。そうであればよいと思ってしまった。だが顔を上げた先、目が合ったのは違う男の瞳だった。
「ロラン様……?」
「おはようアドリアンナ。そろそろ目が覚めそうだと医者が言っていたから、ずっと待っていたんだ。君が目覚めた時に、一番初めに挨拶をしたかったから」
そこにいたのはロラン・アルギャンだ。いつもと同じように穏やかな口調でそう言った。だがアドリアンナは気が気でなかった。
「フェルナン様は? あの方はご無事なのでしょうか!」
ロランは苦笑しながらアドリアンナから身を離した。
「生きてるよ、ピンピンしてる」
答えを聞き、ほっと、アドリアンナは肩を下ろす。では少なくとも呪いはまだ彼を殺すに至っていないのだ。彼を救うのにはまだ間に合う。また会いに行って、それでまた呪いをもらおう。
そんなことを考えていると、いつになくロランが厳しい口調で言った。
「こう考えているのか? また彼から呪いを貰って、そうして今度こそ死のうと。残念ながらそれは無理だ。君の思惑は既に知られている。同じ手は通用しないよ」
驚いて彼を見る。彼はアドリアンナに対して怒っているようだった。
だが同時に、深い悲しみがその目の奥に宿っているように見えて、アドリアンナは初めて後ろめたさを覚えた。自分の天命だと信じて突き進んだことは、周囲をひどく悲しませてしまうことだったのかもしれない。
自分の周りに、まだ自分のことを心配してくれる誰かがいたなんて、あの時は考えてもみなかったことだった。
ロランは感情を飲み込むように、至極冷静に言った。
「君は二週間の間、いわば仮死状態だった。呪いはそれで、君を殺したと判断したらしい。元々、君の中に強い魔力は存在していない。そもそも魔力の強さによって効力を発揮する呪いだ。君の中にあって、相当薄まっていたんだよ。――で、最後には消えた。専門的なところは俺も分からないが……とにかくもう呪いはない。そう伝えてくれと言われた」
一度に言われて、思考の処理が追いつかなかった。呪いについては専門ではない。そういうこともあるのだろうか、と疑問が浮かんだが、今すぐに解決するものではなかった。
とにかく座って、とロランが言うためアドリアンナはベッドに腰掛けた。ロランは丸椅子を持ってきて、その隣に座る。
「君が倒れてから色々あったんだ。まずここは王都にある病院で、君は長い間昏睡状態だった。
君は聖女に――もうそう呼ぶのは相応しくないな。オフィーリア・グランに嵌められたんだ」
そう切り出したロランは、事の顛末を語り始めた。
瘴気を出現させていたのは間違いなくグラン家であり、証拠は大聖堂の地下で発見したこと。
現当主をはじめ、その息子や親族の数人が逮捕され裁判を待っている。一族の大多数は国外に逃亡するか、地方へと下がった。今は王都中心に、グラン家の姿はないという。
「ノア・ルターヴは君との連名で論文を発表し、それは陛下も目を通された。論文はグラン家を名指しするものでは無かったが、それでも多くの者は彼等の悪行を知っただろう」
「聖女様は――? オフィーリア様はどうなったのですか」
その問いにロランは首を横に振る。
「分からない。行方が知れない」
それから険しい表情のまま、アドリアンナに目を遣った。
「彼女をもう誰も聖女とは呼ばない。あの女は君をフェルナンの解呪のためだけに辺境の地へと送り込んだんだ。誰もその目的に気づかないまま、見事に罠に嵌ってしまった。フェルナンと君がさっさと結ばれていたら、君はとうの昔に死んでいただろうね」
言ってからロランは自嘲気味に笑った。
「――彼の盲目的な恋心が君を救ったんだ」
それは、確かにそうなのかもしれない。
だが実際は恋心だけではなかった。彼は自分の側にいるとアドリアンナが危ないと考え――それは結局は正しい考えだったわけだが、それ故に遠ざけた。アドリアンナを守るために。
もしも彼がもっと退廃的で自暴自棄で、欲まみれであったら、二人はさっさと契りを交わし、ロランの言う通り呪いは徐々にアドリアンナに移り、死に至らせたのだろう。
アドリアンナが首を掻っ切ったのは、呪いの移動を早めるためだ。もしかするとそれも、邪魔者を始末したいオフィーリアの考えがあったのかもしれないが――。
混乱は収まりつつあったが、アドリアンナはまだ上手く飲み込むことができない。だがそれでも、たった一つだけ確かに感じたことがあった。
ぽつり、とアドリアンナは言う。
「じゃあ、わたしは死ぬ意味を失ってしまったんだ」
あれだけの覚悟をしたのに、馬鹿みたい。
彼のために死にたかった。そうすれば、自分の人生は完璧になるはずだった。この人生は、意味の無い人生になってはならない。なぜならアドリアンナは大勢の死の中を生き残ってしまったからだ。彼等に報いるだけの意味を持たなくてはならない。
フェルナンを救うことこそが、その意味であるはずだったのに。この先、ずっと生き続けて、同じように命を活かせる場面があるとは思えない。
ふと、アドリアンナを見るロランの顔が歪んたように感じた。目を向けると、彼は今にも泣きそうな顔を浮かべていた。
「生きていてくれ。生きてくれよ。死ぬ意味ってなんだよ。そんなのがどうして必要なんだ。俺には全然分からない」
彼の両手は膝の上で固く握りしめられ、ついにその拳の上に彼の涙が一滴落ちた。混じり気無く透明で、何の悪意も含まれておらず、ただアドリアンナを心から思いやる故の涙だった。
唐突に、アドリアンナの胸は突き動かされた。
「違う。本当は」
気づけば口が動いていた。
彼が涙を流すに値しない人物だと自分を証明したかったのかもしれない。
「本当に、わたしが考えていたことは。もっと、欲まみれで、汚くて、自分勝手な望みだった。それを気づかれるのが恐ろしくて、隠し続けてきた――」
屋敷で暮らしていた頃、時間を見つけてはアドリアンナは大聖堂に祈りに行った。外出を本格的に禁じられるまではそうやって過ごすこともあったのだ。
きっとフェルナンも、聖女に会いに行っただろう。だから同じ場所に、二人はいたのかもしれない。
「わたしは思ってしまったんです。もしも、あの地獄のような日々の中で、同じように孤独にあったあの人と出会っていたらって。わたしは十四歳で、あの人は十七歳で。彼が見つけたのが、聖女様ではなくてわたしだったら――。駆け落ちしていたのは、わたしだったかもしれない」
誰にも話したことがないことだ。荒唐無稽で馬鹿げている。乙女小説の中にだってありもしない夢物語だ。
「逃げて、あの城に逃げ込むの。黒紫色の霧が包むあの場所は誰も近づかないから、誰もわたし達に構わない。森から恵みを得て、二人で暮らせるわ。ずっと二人で、おじいちゃんとおばあちゃんになるまで――……」
それはやはり虚構の物語だ。
もしも出会っていたとしても、そんな風にはならなかった。フェルナンは呪いを受けているから、運よく夫婦になったとしてもどちらかは死んだだろう。
手に入らないものに欲望を抱くのはひどく惨めだ。そうなるくらいならば、いっそのことその者の生きる礎として、永遠に魂の中に生き続けたい。それがアドリアンナの決めたことだった。
それは間違いなく淺ましい欲望だった。
だがその浅はかさをフェルナンに見抜かれたように思えた。彼はそんなアドリアンナの思いに全て気づいていて、命の礎になることを許してはくれなかった。
「は、はは……」
口から乾いた笑いが漏れる。
美しい死さえ自分には訪れなかった。どこまで行っても自分は不完全で壊れている。
だけど、とアドリアンナは思う。
――この滑稽さこそ、自分らしいじゃないの。
母の命の代わりに生きなくてはならないとは今は思わない。天命のために死のうとも思わない。なぜなら天命などそもそも存在していないからだ。
代わりに思ったのは、もっと薄ぼんやりとした思いだった。
ただ漠然と、生きていてもいいのかもしれない、という考えだった。
生かされた命のように感じていた。
一度目は母に。
二度目は、フェルナンによって。
生き残った意味を考え続けていた。天命があるかと思っていた。だがもう、それは見つけられない。にも関わらず、アドリアンナの中に焦燥はなかった。
もしかしたら、命にさしたる意味なんてないのかもしれない。
命なんて偶発的に生まれてきて存在するだけで等しく死へと向かうだけのものだ。天に昇って星になるなど今はもう信じていないが、いつかは先人たちと同じ場所にいく。
いずれはきっちり終わるのだとするならば、死に急ぐ必要だってさほどない。終わりは来る。必ず来る。それまでの人生は、命をただ終わりまで運ぶだけでも十分なんじゃないの。
初めてそう思えた。
「君と結婚したい」
突如聞こえた言葉が信じられずにアドリアンナは目を丸くしてロランを見つめた。思考が急速に現実へと引き戻される。
彼は真剣そのものだ。思わずアドリアンナは言った。
「わたしはフェルナン様の妻になりました」
「知っているよ。それでもいい」
「いつからそんなことを――」
「ずっとだよ。ずっと前からだ。君は俺の初恋だから」
自分の頬が紅潮するのを感じた。そんな風に思われていたとは、少しも気が付かなかったからだ。
だが心は決まっているように思う。
「わたしは、貴方に相応しいとは思えません」
言ってから思い直した。それはずるい言い回しだ。彼は真摯に思いを伝えてくれた。だから自分も向き合うべきだった。
「いいえ、そうじゃないわ。そうじゃない――」
目の前にいるロランのことはとても大切だ。きっと妻になれたら、幸せになれるだろうとも思う。だがそれは、本当の望みではなかった。
「わたし、自分の意思で生きていきたい。好きな人がいます。結婚したい方がいるんです。――わたしは随分と自分勝手に振る舞ってしまったから、振られてしまうかもしれませんけれど」
彼を思い浮かべたアドリアンナは、自分でも分かるくらい情けない笑みを浮かべた。
「わたし達、なんとか、上手くやっていけると思うんです」




