第44話
馬車の目の前に飛び出してきた女が弾き飛ばされたのを、ギフォードは確かに見た。
真っ先に感じたのは怒りだ。瘴気が王都に出現したという異常事態に際して、ともかく移動魔術を使いいち早く脱出しなくてはならないのに王都中心部ではその魔術が禁止されていた。故に移動魔術が使える郊外まで馬車を走らせていた。大聖堂の前は近道だったからこの場を通った。それだけだ。
のにも関わらず――こんな場所で人を轢いたなどというごたごたに巻き込まれている場合ではなかった。
「ひ、人が飛び出して来て――!」
狼狽える御者をギフォードは一喝した。
「どうせ平民だろう! 構いやしない!」
このところ、散々な目に遭っていた。
わざわざ労力を割いてアドリアンナを助けに行ったのに、拒否された。そこまでは良いが、弟のロランが妙に彼女を気にかけるのが気に入らない。フェルナンからアドリアンナを託されたは良いものの、目の前でかつての婚約者が自分の弟に奪われそうであるとは思いもよらなかった。
彼女はあれほど良き婚約者であったのに、ギフォードの愛情に応えてくれていたのに、今では自分に見向きもしないなどおかしなことだ。
おかしいのはアドリアンナだけではない。ジュリエッタもそうだ。
ロランがオルエンヌ家に入ったと話を聞いてすぐに駆けつけ、決死の思いで火の中に行ったにもかかわらず、婚約者のジュリエッタは目の前で正気を失ったかのように飛び降りた。
その後彼女を探したが、死体はおろかその痕跡さえ見つけられないままだ。
――あの姉妹はどうかしているんだ。
散々あれこれ考えた末に、ギフォードはそう思うことにした。何もかも思い通りに行かないのは自分のせいではない。
一向に馬車が出発する気配はない。
「何をしているさっさと出せ!」
御者に向かってそう怒鳴るが、彼の姿はどこにもない。驚いて周囲を見渡すと彼は民衆によってその場を引きずり降ろされ、石畳の上に体を投げ出されていた。代わりにその場に収まろうとしているのは見ず知らずの平民たちだった。彼等が我先に逃げ出そうと馬車を乗っ取り始めたのだ。
「くそ、離れろ! これは俺の馬車だぞ! 平民が貴族に手を出したら吊るし首だ!」
馬車の扉をこじ開けて、中に押し入ろうとする者に向かって、ギフォードは渾身の蹴りを放った。
その者が地面に頭を打ち、血が流れるのを冷たく見下ろしたその瞬間、目の前に光が現れた。
それは陽の光だ。
誰も彼もが洗脳が解けたかのように唖然と空を見上げている。
霧が晴れていく。
瘴気が消えていく。
ギフォードは周囲を見渡した。毒の霧だったはずだ。だが死んでいる者は、先程馬車が轢き殺した者を除いては誰もいない。
人々は顔を見合わせる。
天には、一切は幻であったかのように青い空が広がっていた。
「兄さん」
ふいにそう声をかけられた。
顔を上げると、険しい表情を浮かべた弟のロランがギフォードの腕を掴んでいた。
「兄さん。降りてください。貴方が乗っていた馬車は人を殺しました」
互いに視線を交わしたが、どちらも何も言わなかった。やがてギフォードが無言で馬車を降りる。
部下の兵士が兄を連れて行くのを、ロランは立ったままで見送っていた。
ロランは上空を見上げた。
この霧で直接死んだ者は一人としていない。なぜならこれは毒など含まれていない、色が付いただけの霧であるからだ。
「大変な騒ぎだったな。私は罪に問われないんだろうね?」
ロランの隣に来たノアが頭をかきながらそう言った。
「ええ。俺が責任を持って貴方を守ります」
ほう、とノアが安堵とも疲れとも取れぬため息を吐いた。
フェルナンはロランとノアに依頼をした。大聖堂の地下にある伝導石を水に溶かし、王都に大量の霧を出現させてほしい、と。
疑問は山程あった。その全てにフェルナンは淀み無く答えた。
なぜ大聖堂の地下にそれがある?
――グラン家が隠し持っているからだ。
なんのために?
――瘴気を発生させて政敵を殺し、聖女を用いて家の格を上げるためだ。
大聖堂にはグラン家の精鋭たちがいる。
――俺が全て排除する。
成功したとして大騒ぎになるぞ。
その問いにフェルナンは笑った。
――もちろん。楽しみだ。
散々熟考した挙句、ロランとノアは不承不承に引き受けた。そうでもしなければ、グラン家を叩く機会が無くなる、というフェルナンの言葉に同意したのと――それとは別にある者からの命令があったからだ。決して逆らうことのできない者からのその命令が。
王都はまだ大混乱だった。怪我人もいるかもしれない。被害はこれから確認するが、霧が出ていたのはものの数分だ。大きな被害はないだろう。
普通に考えたら馬鹿げた話だ。
この国の王よりも権力があると言われる大権威の貴族の悪行を暴くなんて。それもここまでの大掛かりなことをしでかして王都を恐怖に陥れて。
後始末は骨が折れるだろう。
フェルナンはその動機を語らなかったが、ロランには分かっていた。
それはたった一つの愛のために。
ロランは大聖堂の前で佇んでいた男がいた方向へと――この騒ぎを考えた発案者へと目を向けた。だがそこにはもう、誰の姿もなかった。




