最終話
別に瘴気でなくても、王都の早朝には度々霧が出現することがあった。ルイスはその日、誰にも邪魔をされずに城の庭を歩いていた。
グラン家が城から姿を消して以来、ここが自分の安心できる場所であるということを確かめるように、毎朝欠かさず、庭を歩いていた。
ふと池の側に先客がいるのが見えた。背の高い男だ。それが誰だか分かった瞬間、ルイスは破顔した。
「兄上」
フェルナンはルイスが心からの笑みを浮かべてこちらに向かってくるのを見ていた。半分だけ血のつながった王はいつだってフェルナンを慕ってくれている。
今日は彼を待っていたのだ。フェルナンは彼に向かって頭を下げた。
「陛下、少しお話できますか」
「もちろんです!」とルイスは嬉しそうに返事をした。「この城の中に、もう僕を監視する者は一人としていません。護衛も付けていません。だから本当に、二人だけで話ができますね」
いつかのように連れ立って池の周りを歩き始めた。ルイスが言う。
「こんな朝早く来てくださるなんて思わなかったから驚きました。先日、僕が提案したことをお引き受けくださる決心がついたのですか?」
「ああ、そのことですが、考えましたがお断りします」
あっさりとそう言うと、ルイスは目を丸くした。
「え! ……条件が気に入らないのなら言ってください。望みは全て叶えますから」
王にそこまで言われるなど行幸なことだろう。
だがフェルナンの心は既に決まっていた。
グラン家が城から姿を消してから、ルイスは代わりにフェルナンを城に置こうと考えていた。名目は魔術顧問としてである。かつてはグラン家の当主が努めていたもので、実態は王の相談役だ。
光栄なことだとは思う。かつての自分だったら、今の状況で断ることなどなかっただろう。
だが今のフェルナンの望みは、王都に戻り皆に認められることではなかった。少なくとも今は。
「俺の望みは、自分の暮らしが今まで通り続いていくことです。最近、あの地での生活も案外楽しいものだと思えるようになりましたから」
アドリアンナに倣い、居城を片付け、庭を整備した。いつか結婚式を挙げた小さな聖堂の埃も取り払い磨き上げた。時には森へ出かけ、食料を見つけては持ち帰り調理した。それは王都にいたときよりも、余程人間らしい暮らしに思えた。
そうですか、とルイスは目に見て分かるほど消沈していた。
「それではどうして会いに来てくださったんです。何か問題がありましたか?」
眉を下げ落ち込んだ様子のルイスはフェルナンを見上げてそう言う。
「どうしても気になることがあって、あれからずっと考えていたんです。
あの日、俺は貴方に聖女を罠にかける話はしていませんでした。でも貴方は当然知っていたはずです。貴方の忠実な部下であるロラン・アルギャンから聞いて」
「彼がそう言ったのですか?」
いいえ、とフェルナンは首を横に振る。ロランがそんなことを口が避けても言うはずがない。そういう男なのだ。
「彼は俺の頼みを聞いてくれましたが、将来生真面目で融通の効かない男です。瘴気を出せ、だなんて頼みをそう簡単に聞いてくれる人間じゃない。
だから、彼が最も敬愛する人物から、俺の頼みを聞くようにと、あらためて言われたんだろうと思いました。つまり陛下に」
ふふ、と愉快そうにルイスは笑った。
「だとしたら僕は確かに知っていたかもしれないですね。だけどそれがどうしたんです?」
「礼を言いたくて」
というと、初めてルイスの足が止まった。一瞬だけ、彼の仮面が剥ぎ取られ、年相応の少年が顔を出したようにフェルナンには思えた。その少年はひどく不安げだった。だがそれもすぐ、微笑みで覆い尽くされる。
「礼、ですか。なんの?」
「亡霊達のことですよ」
とフェルナンは言った。
オフィーリアの錯乱に拍車をかけ、彼女の正気を失わせたのは間違いなく霧の中に現れたあの亡者達だった。それがどこから現れたのか――フェルナンはほとんど確信を持っていた。
フェルナンは霊魂を信じない。だからあれは、何者かが霧に魔術で投影したもののはずだ。
「俺の目的を知って、いわば共犯になってくれた人がいる。そいつは俺と考え方がよく似ている人物だ。――例えば血のつながった弟とか」
しばらくの間、沈黙があった。
二人は足を止め見つめ合う。池の水面に、少しも似ていない兄弟の姿が逆さまになって映っている。やがて、ルイスがフェルナンから目線を反らした。
「もしも亡霊の幻想を霧に映し出した人がいるのなら、この国を悪の支配から解放したかったのでしょうね。だけど憎たらしいのは、その血が僕の中にも流れているということです。僕は怖いんです。いつかは彼等のように暴走してしまうかもしれない。己の欲望にだけ忠実になって、身近な人の死にも何も感じなくなる日が来るのかもしれない――それがとても恐ろしい」
表情こそ穏やかであったものの、ルイスの手が小さく震えているのをフェルナンは見た。見た瞬間、胸が締め付けられるような衝動に駆られた。
この少年は自分の弟だ。王ではあるが、確かに自分の弟でもあるのだ。
彼はたった一人で、気高さを失う恐怖と戦っている。両親はおらず、後見人だった祖父は王を駒としか思っていなかった。ルイスがフェルナンを側に置きたがる理由が分かったように思う。ルイスも過去フェルナンが抱いていたものと同じものを抱えている。――気が狂いそうなほどの孤独。それにも耐えろとは、とても言えなかった。
フェルナンが言葉を探していると、ルイスがふいに顔を上げ、驚くべき素早さで話題を転換した。
「そういえばアドリアンナのいる病院にロランが通い詰めているようですよ。彼女が起きたら結婚を申し込むつもりじゃないかと周囲は噂をしているみたいです」
アドリアンナの体は安定していて、じきに目が覚めるはずだった。フェルナンはロランに言った。呪いが消えたのは彼女が仮死状態であったからで、元々魔力の薄い彼女の体の中にあったからだと。――嘘である。
ぽつり、とルイスは言った。
「共犯というのなら、こちらの方がより正確でしょうね」
フェルナンの脳裏にとある光景が蘇った。怯える中年の男、生気のなく横わたるアドリアンナ。それから興味なさげに父を見下ろすジュリエッタ。
誰が言い出したことなのか。恐らく、三人ともそれを考えていて、ごく自然の流れでそうなった。三人、というのはフェルナンとルイスと、それからジュリエッタ・オルエンヌだ。
フェルナンにあった呪いは、アドリアンナとジュリエッタに分散されていた。血の繋がりがあるから、呪いは二人を同一とみなしていた。血の繋がが重要だ。だとするのならば、彼女の中から完全に消し去るために、もっともうってつけの器が、王都の牢に捕えられていた。
彼女等の父親のヴァレリオ・オルエンヌである。
王都での瘴気騒ぎが終わった後、フェルナンは居城へと舞い戻った。そこにはアドリアンナの世話を丁寧に焼くジュリエッタの姿があった。
不思議なことに、ジュリエッタは王都で一度会話を交わしたときよりも、よほど穏やかな表情でいるように思え、それがフェルナンにとっては意外だった。
――わたし、考えたのだけど。
とジュリエッタは言った。
――わたし達の呪いをお父様に移せないかしら?
言っていることは恐ろしいことではあったが、ジュリエッタは至極真面目な表情だった。
同じ血が流れるヴァレリオに、呪いを流すことは可能かもしれない、とフェルナンは思った。アドリアンナとジュリエッタ。二人を合わせると魔力はヴァレリオを上回るはずだ。問題は彼をどうやって盗むかだ。
それはルイスの方から言ってきたことだ。
――ヴァレリオ・オルエンヌが必要なら差し上げますよ。
だからそれが行われた。
居城で行うのは憚られた。彼女が気に入っていた城だったからだ。
故に森で行われた。呪いの流動と肉体の誤認を同時にする必要があった。
だから三人の手首にほぼ同時に傷を付けた。呪いが黒い粒子となって三人の間に繋がりを作るのを見た。ジュリエッタはアドリアンナの体を抱きしめる。高いところから低いところへ――二人の娘から父親へ、呪いが急速に移動していく。
ヴァレリオはほどなくして呪いを受けて死んだ。彼の肉体は、一晩かけて森の霧が消し去った。
「あの男は因果が巡っただけでしょう」
フェルナンは、ルイスにそう答えた。そうして最後の問いを投げかける。
「陛下、貴方は知っていたんですね。
俺の呪いのことも、オフィーリアがそれを解呪するためにアドリアンナを寄越したのも、全部知っていたのでしょう。貴方は俺を救うために黙っていた」
その問いかけにルイスは答えない。それが答えのように、フェルナンには思えた。
ルイスはフェルナンの呪いを解かなくてはならなかった。そこについて、オフィーリアとルイスの目的は同じであったのだ。ルイスの手持ちのカードは実に少なかった。フェルナンを失うわけにはいかなかったのだ。あるいはもっと単純な理由であるかもしれない。――兄弟だから。
黙ったままの弟に向かって、フェルナンは微笑みかけた。
「陛下。俺は二度と王命は聞きません。でも、もしも貴方が本当に助けが必要なら、どんな時だって駆けつけます。貴方のたった一人の兄として」
ルイスはやはり黙ったままだったが、泣き笑いのような顔になると何度も頷いた。
◇
アドリアンナが畑に撒いた種は結局野菜ではなく観賞用の花だったようだ。芽吹き、咲かいたその色とりどりの花を眺めながら過ごすのが、フェルナンは好きだった。
もしかすると前グリフォン公も、このようにして過ごしたこともあったのかもしれない。そんな風に想いながら日々の生活を送っていた。
朝起きて、三食作り、時に森へと出かけていく。酒を煽る回数は格段に減った。今では夕食の際に時折嗜む程度である。
そうして幾度となくアドリアンナのことを考えた。思い出を記憶の中から宝石のように取り出しては眺め、また大事にしまっておいた。
王都から、アドリアンナが目覚め健康状態も良好であるとの報せが届いた。
ではロランは彼女の結婚を申し込んだのだろうか。そうであればよいと思う。二人の幸福が自分のことのように嬉しかった。
だがやはり、城の門は鍵をかけておかなかった。
オフィーリアを想い過ごした数年と同じだ。異なるのはその時のような閉塞感はないということだ。心は自由で解放されていて、以前では考えられないほどの喜びを感じていた。もう誰もフェルナンを縛り付けてはいない。
黒紫色の霧は相変わらず出現していたが、忌まわしさはもう感じなかった。それは自然の営みの中のほんの小さな現象であり、この地で暮らす生物達にとっては欠かせない霧だった。
その日は珍しく霧がほとんどなかった。早朝、森の中を歩き回りいくつか食べられそうなものを採取してきたフェルナンは、アドリアンナがかつてそうしていたように図書室の中で本を開き、口にして良いものかどうかを確認していた。
と、その時微かな音が聞こえた。城の外、門の方。扉を開くような鈍い音が、確かにした。この地にはフェルナン以外の人間はいない。にも関わらず、それは確かに人間が立てた音だった。
フェルナンが持っていた本が、その手から床へと滑り落ちる。胸の中に光が宿ったかのようだった。
扉が叩かれ、すぐに声が聞こえた。愛らしい声が。何度も頭の中で思い出していた声が。
「あの! フェルナン・グリフォン様の妻になりに参りました!」
――ああそれは、何度心に蓋をして諦めても、決して消えない望みだった。
フェルナンは廊下を駆け出した。
城の扉を開く。幸福そうな娘がそこに佇み頬を染めて微笑んでいた。
フェルナンは一歩城の外へと出ると、その娘の体を抱きしめる。彼女もまた、フェルナンの体を抱きしめ返した。
彼女の呼吸がフェルナンの体にかかる。それさえも愛おしかった。
やがて、彼女が囁いた。
「わたし……わたし、時々おかしくなるんです。ヴァロン震災のことを思い出して、涙と震えが止まらなくなるんです」
フェルナンは即座に答えた。
「どんな時だって側にいるよ」
「命の意味だってまだ見つけられない」
「意味なんて必要なのか? 人生に意味なんてないよ」
フェルナンがそう言うと、腕の中の彼女がゆっくりと顔を上げた。その瞳の端に一粒の涙が浮かんでいることをフェルナンは見た。
「もしも、人生に意味がなくても」
彼女はそっと囁いた。
「もしも、命に価値がなくても。それでもわたしと一緒に生きてくださいますか?」
まるで結婚式の宣誓文のようだ。
フェルナンは笑おうとした。だが上手く行かず、言葉さえも喉のつかえて上手く出てこない。半泣きのようになりながらも、フェルナンは言った。
「生きる。生きるよ。当たり前だろう。俺の全ての愛を君に全て捧げて、一緒に生きるよ」
愛はきっと無限に溢れ、彼女が困り果てても尽きないだろう。埋もれて溺れてしまうほどの愛情を、一生彼女に捧げるのだ。
ふと青い鳥が頭上を舞いながら、楽しそうに歌い踊るのが見えた。思わず二人で顔を見合わせる。あれはあの雛に違いなかった。
戻ってきたのだ。この喜ばしい日に。
丁度良い、立会人になってもらおう、とフェルナンは思った。
永遠の愛を彼女に誓おう。
そう思った瞬間、小鳥がフェルナンの肩に止まり嘴で頬をつついた。
ああ、そうだな。とフェルナンは小鳥を撫でた。この小さな鳥は何でもよくお見通しだ。
永遠の愛はもう既に、誓っていたことだった。彼女が側にいなくても、手に入らなくても、一生愛し続けようと、もう既に、そう誓っていた。それでも構わないと覚悟を決めて。
だが彼女は来てくれた。今度は誰にも指図をされずに自分の意思で、フェルナンを求めに来てくれた。以前よりも遥かに愛に満ち溢れた姿で。
これが俺の愛する人だと、世界中に叫びたかった。
彼女が朗らかに笑うから、フェルナンはその唇にキスをした。彼女もフェルナンにキスを返す。
小鳥が囀りながら、嬉しそうに二人の周りを飛びはじめる。それでも二人は離れなかった。
悲しみや不幸はどこにもなかった。幸福と輝きに満ち溢れていたから。
フェルナンがようやく唇を離すと、彼女が笑いながらまた唇を重ねてきた。だから二人はまた一つの存在のように抱きしめ合った。
それはいつまでも終わらない、長い長い口づけだった。
〈おしまい〉
長いのはこの話を書いていた時間だよ! と私は思ってしまいました・・・。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。少し前に瘴気の霧と聖女の関係を思いつき書きたかった話です。内容自体は以前書いた小説をいくつか結合させて作ったような感じです。
書くことができてよかったです、とても楽しい時間でした。誤字脱字等、お見苦しい点もあったかと思いますが、少しずつ修正したいと思います。
改めてありがとうございました!




