第42話
アドリアンナが無事やり遂げたということを、フェルナンが約束もなくふらりと現れたことでオフィーリアは知った。列車の爆破の命令に逆らって以来、呼び出しは山のようにあったはずだが全て無視していた彼がこうしてやってきたのはまさにそのために違いない。
オフィーリアを、今度こそこの薄汚れた聖堂から連れ出すために来た。彼もまた、清らかな姿に戻って――。
グラン家の護衛は距離を取りながらも、フェルナンがオフィーリアに近づきすぎないように目を光らせていた。
オフィーリアは彼に微笑む。ごく自然に、何も知らないふりをして。
「顔色が悪いようだわ。王命に逆らったと噂を聞いたわ。ちゃんと休めているの?」
実際に彼の顔色は青ざめていて、今のように仏頂面だと余計に体調が悪そうに見える。フェルナンは小さく頷いた。
「色々あってね。だがもうじき終わる」
そう、良かった。とオフィーリアは応じてから、指を口元に持っていって小首をかしげた。
「アドリアンナはお元気? 今日は連れてきてはいないの? お話してみたかったわ」
「死んだよ」と、彼は言った。聖堂の空気が冷えたように思えた。
「つい昨日のことだ。弔いはした。だから君に会いに来た」
昼間だというのに、陽の光は薄い。先程まで晴れていたはずの外も一層暗くなったように思えた。雨が降りそうな気配だった。
「それは――可哀想に」
とオフィーリアは応じた。フェルナンは即座に反応する。
「死因を聞かないのか?」
「聞いていいことならば」
「自死だったよ。首を切って」
淡々とそう呟く彼からは何の感情の揺れも読み取れない。一呼吸置いてからオフィーリアは言う。
「……彼女は複雑な環境で育った子だった。お母様を早くに失い、継母との折り合いは悪かったようだわ。貴方と結婚をして、良い人生になればと思っていたのだけど――とても悲しい。お悔やみを」
「そんなことはどうだっていいんだ」
オフィーリアの言葉を遮るようにフェルナンは言う。彼はまっすぐにオフィーリアを見据え、力強くこう言った。
「俺は君を攫いに来た」
彼が手を差し出す。グラン家の護衛が鋭敏に反応したが、オフィーリアは感動のあまりそれを制することができなかった。
――――ああ。
オフィーリアの胸の鼓動は早くなる。
歓喜は収まることを知らずに広がり続けた。
ああ。この言葉をずっと待っていたのだ。ずっと、ずっとずっとずっと、とてつもなく長い間――。
フェルナンがグラン家の護衛に攻撃魔術を放った。護衛たちも応戦するが、彼の魔術を前にして防御など、ましてや彼を傷つけるなどできはしない。魔術は護衛達に当たり、彼等を壁へとぶち当てた。
フェルナンは覚悟を決めたのだ。
彼はオフィーリアに歩み寄る。オフィーリアの目には接近するフェルナンしか映ってはいなかった。呻く護衛も、ますます暗くなる外の様子も、意識してはいなかった。
「出会いを覚えているか?」
フェルナンもまたオフィーリアだけをその瞳に映しながら言う。
もちろん覚えている。
「この大聖堂で」
ある貴族の開いたパーティで。
「君は俺に微笑んでくれた」
一方的に彼を見た。
「優しさに飢えた俺は君に恋をした」
彼こそわたしに相応しい伴侶だと確信して、たちまち恋をした。
「俺達は十五歳だった」
わたし達は七歳だった。
彼は知らない。わたしが彼に、遥か昔から恋をしていたなんて。わたしが彼を手に入れるために、どれほどの苦労をしたかなんて。
この人が欲しかった。この美貌の人を手に入れるためならば、わたしは何だってできると、そう思った。
フェルナンの手のひらが、オフィーリアの頬に触れる。微笑んだままで彼は言った。
「自分が仕掛けたことの一切に、責任をとらなければならないな」
もう片方の手でオフィーリアを引き寄せると耳元で囁いた。
「なあ、オフィーリア。どうして俺の家族や婚約者を殺したんだ?」
驚き身を離そうとしたが彼の力は強くとびくりともしない。
オフィーリアは初めて気づく。血に飢えた獣のようなその瞳に。感情を抑えたような彼の態度とは裏腹に、その瞳には燃えるような怒りが宿っていることに。
オフィーリアは目を見開いた。
(気づかれた)
思い出が走馬灯のように蘇る。
彼を初めて見た日以来、彼のことが頭から離れなかった。どうしても彼を側に置きたかった。
だから現当主である祖父にねだった。だが否定された。グラン家とラヴェル家は政敵だった上に、もう既に、オフィーリアの役割は決まっていたから。
それに、彼の周りには常に人がいた。美しい娘達が競うように彼を狙っていた。凡庸な見た目のオフィーリアなど彼の目にも入らないだろう。敵対するグラン家の娘との婚約を許すはずのない家族達――。
オフィーリアの手持ちのカードはほとんど無かった。彼を美しい娘たちから引き離し、自分に目を向けさせる術は、一つしかない。
オフィーリアの手元には、グラン家が開発した瘴気があった。彼に流れる魔力は彼を瘴気から守ることは分かっていた。だから。
だから、彼の側にいる奴らに瘴気を使った。
「君は俺を孤独にさせるためだけに、そんな馬鹿げたことのためだけに、俺の家族を殺害した。俺の婚約者を殺害した。俺の友人を殺害した。だから俺は一人になった。君以外に、誰も俺に微笑んではくれなくなった」
彼の家族を殺したのは彼を孤独にさせるためで、彼の婚約者や友人を殺したのは当然嫉妬によるものだった。彼に近づく女は許せない。本当はアドリアンナさえも側にいさせるのは腸が煮えくり返りそうなほど妬ましかった。だが彼女はいずれ死ぬ。そう思えば取り繕うくらいの余裕は持てた。
フェルナンの手はもはや優しさを無くし、オフィーリアの腕を粉砕しそうなほど強く掴んでいた。
「お前は何だ。皆に愛される聖女様か? 家に利用され続ける哀れな偶像か? それとも欲望まみれの邪悪な悪女か?」
オフィーリアは動けない。皮膚の表面は凍えそうなほど冷たいのに、体の中は灼熱のように熱かった。
フェルナンは怒りを隠そうともしない。だがその目の奥に、一抹の悲哀が浮かんだことにオフィーリアは気がついた。口調だけは揺るぎなく彼は言う。
「君が俺の大切なものに手を出さなければ、もう少し優しくしようと思っていた。裁きは国に任せて、相応の罰を受ければ良いと思っていたんだ。だからロランにオルエンヌ家の当主を捕えさせ、グラン家を牽制しようとした。だが甘かったようだな」
オルエンヌ家で起こった火災騒ぎについては耳に入っていた。アドリアンナ殺害未遂の容疑で父親を逮捕し、同罪と見なされたジュリエッタをも捕らえようとした矢先に、市民が押しかけ屋敷に火を放ったという。
実際は、その話を抜かり無く聞きつけたグラン家の者が、市民の一人に紛れ火を放ったのだ。疑惑がグラン家に及ぶ前に混乱を起こし、証拠隠滅の時間を稼ぐために。
「俺に流れるのは闇の魔力だ。君と同じ――。本当は、もっと早く終わるはずだったんだな。俺達が駆け落ちをした十七歳の時、もし俺が君と夫婦になっていたら、呪いは君に移り、君は死んだ。呪いの性質を知り、死にたくなかった君は、生き延びるためにグラン家に俺達の居場所をバラしたんだ。ずっと考えていた。誰が俺達の駆け落ちした行く先を知っていたんだろうと。まさか君自身だったとは思いもよらずに。
君は死にたくないし、俺のことも諦められなかった。だから俺の呪いが解けるように闇の魔術が流れる娘を求めていたんだろう。そうしてその娘は存在した。アドリアンナだ」
オフィーリアはアドリアンナに嘘を吐いた。彼女もまた、闇の魔術が流れる人間だということを隠し、光の要素を持つのだと言い含めた。そうしなければ、オフィーリアが彼の呪いを引き受けない理由が立たないからだ。
アドリアンナは愚か者だった。常に死に魅了されていた。死に場所を求めていた。だから与えてやったのだ。彼女は涙を流して感謝していた。
フェルナンは全てに気づいているらしい。
今、オフィーリアが考えたのはどうすれば彼の心を取り戻せるのか、ということではなかった。保身だ。どうすれば、我が身を守り、被害を最小限にこの場を乗り切れるかだった。
(あれだけは気づかれないようにしなければ……!)
オフィーリアの視線は自然と聖堂の奥の扉を彷徨う。
その視線を辿ったフェルナンは冷笑した。
「どうしたんだ? 地下が気になるのか」
――――地下。
この大聖堂は古代の王の墓廟だった。地下には彼等を埋葬するためだけに作られた巨大な地下空間がある。現宗教がこの国に入り込んでからはその場所は聖なる場とされ、祭壇が置かれた。グラン家がこの大聖堂を使うようになってからは、聖女が使う祈りの場とし、グラン家以外の者が足を踏み入れることを一切禁じている。
「今俺が君に向けるのは、清らかな思慕の念でも、激しい愛の炎でもない。そうして残念ながら、憎悪でもない。そこまでの感情がもはやない。失望と軽蔑だ。ほら、君のどす黒い内面が今、外に漏れ出たぞ」
ふいに、外の様子に気がついた。オフィーリアは窓を見る。暗かった空は暗黒と言っていいほど闇に染まっている。
いや、闇ではない。
よく見ればそれは霧だ。
黒紫色の霧だった。




