第41話
「彼にかけられた呪いはとても強いもので、消し去ることはできないけれど、より低いところへ流し込むことはできる。つまり滝のように、フェルナンから貴女へと流すの」
オフィーリアはそう言っていた。
「彼と同じ、光の魔力を持つ貴女なら、彼の呪いを引き受けることができる。だけど彼の代わりに貴女は死ななくてはんらない。こんなこと、わたしからは頼めない。だからわたしは貴女に選んでほしい。断ってもいいわ」
「お引き受けします」
とその時アドリアンナはすぐに言った。本心だった。自分の命など、フェルナンの命に比べたらちっぽけなものだ。アドリアンナが呪いを受けフェルナンが生き、その先でオフィーリアと結ばれたのなら、それだけで自分が存在した意味があるというものだ。
「アドリアンナ――貴女がわたし達の前に現れたのは天啓だったに違いないわ」
オフィーリアは目に涙を浮かべながらそう言った。
――彼を受け入れて。
と、彼女は言った。
同じ魔力が流れる肉体が一つになれば、呪いはそれを一人の人間としてみなすのだと。光の魔力が体に流れるフェルナンとアドリアンナが夫婦として共に過ごせば、呪いは二人に降りかかる。だがそれだけでは呪いの移動に成功しない。
器にならなくてはならない。
空っぽの器に。
魂のない肉体に。
起き上がったアドリアンナの横ではフェルナンが寝息を立てている。アドリアンナは彼の髪を優しく撫でた。
恐怖はない。悲しみもない。未来への明るい希望があるだけだ。
それに――夢のような時間だった。彼はアドリアンナに愛をくれた。仮初めの愛だったとしても、誰からももらえなかったような愛を、彼はアドリアンナにくれたのだ。それ以上望むものがあるだろうか。
アドリアンナはフェルナンを起こさないようにベッドをそっと抜け、脇に置いた荷の中から短剣を取り出し、見納めだとばかりに、カーテンを開き外の様子を眺めた。
月明かりに照らされた森に、黒紫色の霧が広がっていた。
美しいとさえ感じる景色にアドリアンナは目を細める。
アドリアンナから全てを奪った黒紫。それなのに、生きる意味を与えた黒紫。今ではあの霧は、安心できる場所の象徴になっていた。
手に持つ短剣に目を戻す。アドリアンナの神は自ら命を奪うことを許してはいない。アドリアンナはフェルナンを最後に見た。彼は穏やかな顔で寝息を立てている。その手がアドリアンナを探るように微かに動いた。
(この方のためなら、地獄に落ちたって構わない)
そこまでの愛を持つことが出来たのだから、やはり自分は誰よりも恵まれた人間なのだと――そう思えた。
◇◆◇
フェルナンの腕の中でアドリアンナが微笑んだ。それだけでフェルナンは幸福に満たされる。彼女を知らずにいた今までの間、どうやって生きていたのか思い出せないほどに、彼女を強く欲していた。
アドリアンナはフェルナンを受け入れた。それがどれほど喜びに満ちたことだったか、フェルナンはいくら言葉を尽くしても語れない。
(彼女を必ず守り抜こう)
心の中でそう誓った。
いかなる邪悪が彼女を害そうとしても、自分のせいで危険に巻き込んでしまったとしても、この手を決して離すまい。何者からも守り抜いて、そうして老人になるまで二人で暮らすのだ。そのためにも自身の身体に起こっている異変も必ず取り除かなくては。
彼女のために真っ当な暮らしをしよう。人と交流を持ち、正しい方へと歩いていこう。毎日彼女を笑わせよう。彼女が笑っていると世界が明るくなったように思うから。
彼女の顔を見る度に、愛しているとまた思う。この先の人生で、彼女が隣りにいる幸福を噛み締めながら何度だってそう思うのだろう――そんなことを考えながら、フェルナンの心は喜びに満ちていた。
◇
幸福な光の中でフェルナンは目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋を明るく照らしていた。今朝は霧が薄いようだ。
体を起こすと、隣で眠っていたはずのアドリアンナの姿がない。一瞬だけ、もしや一切が夢だったのではないか、という不安が頭をかすめた。昨夜彼女が城に現れたのは幻想で、夢が終わればまた一人に戻るのではと。
だが彼女の姿をすぐに見つけることが出来て、フェルナンは安堵とともに微笑んだ。
「おはようアドリアンナ」
返事はない。
アドリアンナは窓の方を向いて椅子に腰掛けていて、カーテンの隙間から外を眺めているようだった。
フェルナンはシャツを羽織りながら、背後から彼女に近づいた。艷やかな黒髪が背もたれから見えていて、そこにそっと触れてみる。反応はない。フェルナンは彼女を抱きしめた。
「今朝はいい天気だ。後で森に出かけようか――」
瞬間、違和感に気づいた。
昨夜は温かかったアドリアンナの体が、氷を抱いているように冷たい。ぎょっとして顔を見る。血の気が引き、雪のように白い。虚ろに開かれた瞳は何の景色も見てはいない。戦場で人間の骸を何度も見た。人の形をした、魂のない抜け殻を。アドリアンナはまるでそれだった。
「アドリアンナ?」
呼びかける声がかすれた。
彼女の手には短剣が握られている。
「アドリアンナ!」
体を揺さぶると、彼女の首が奇妙にガクンと揺れた。
彼女の首筋に赤い線が一本走っていることにその時初めて気がつく。体の半分が真っ赤に染まっている。見ると壁一面も、絨毯も、同じ赤い液体が飛び散っていた。
フェルナンの脳裏に光景が蘇る。朝起きたら屋敷中の人間が血を流しながら息絶えていた悍ましいあの光景。自分だけが生き残って――。
喉の奥から悲鳴が漏れる。だがそれは音にはならず、微かな空気音を発しただけだった。
声が聞こえたのはその時だった。
「ご機嫌麗しゅう、公爵様」
ここに自分達以外の者がいるはずがない。だが振り返ると扉は開かれ、そこに人が立っていた。
声からするとおそらく女だ。だがそれもひどくしわがれ聞き取りにくい。ドレスらしきものを着ているが、よく見るとところどころ肌と一体化していた。何よりも、露出している肌という肌は引き攣り血が滲んでいる。顔もほとんど分からない。髪も生えているところと生えていないところがまだらに存在していた。
まるで暖炉に投げ込まれた後のようだった。だがその目だけが、彼女の生命がまだ諦めていないことを主張するかのようにギラギラと光る。異様な人間だった。
フェルナンは女からアドリアンナを庇うため立ちふさがる。だが微かに笑うその女にフェルナンは知っている娘の面影を見た。随分と様子が違うから初めは分からなかったものの、目の色や声の抑揚に覚えがあった。
「お前……ジュリエッタ・オルエンヌか」
信じられない思いでそう尋ねると、彼女は小さく頷いた。
どう見ても火傷の――それも軽度では決してなさそうな怪我を負っている。自分で治癒の魔術をかけたのだろうか。医療魔術ではまずそうはしないだろう治療痕だった。
異常な事態ではあったものの、フェルナンの優先順位は背に隠したアドリアンナにあった。
「今はお前なぞに構っている暇はない……! 何をしに来たのかは知らないが、妙な真似をしたら殺すぞ」
脅しのつもりは無かったが、ジュリエッタは眉一つ動かさない。動かせないのかもしれないが。
「血」
と彼女は言った。
「なに?」
「血が」
と再び言う。飛び散った血のことを指しているのだろうか。ジュリエッタに何があったのか知らないが、怪我により正気ではないのかもしれない。
だがジュリエッタは存外はっきりとした口調でこう言った。
「血が繋がっていたってことね。そこだけは、母さんは嘘を吐いていなかったんだ」
言ってからアドリアンナを指さす。
「よく見て。死んでないから」
フェルナンははっとして背後を振り返った。アドリアンナの手首を掴み指を当てる。微弱ではあるが確かに脈打っていた。安堵の吐息が口から漏れた。
「呪いを分散させたの。お姉様の思惑は外れた。ざまあみろってこと」
フェルナンには彼女の言葉が分からない。その様子を察知したのか、ジュリエッタは馬鹿にしたように鼻で笑った。以前会った時とは随分と異なる態度だ。猫を被ることを止めたのかもしれない。
「古い魔術の一つよ。血を分けた兄弟姉妹間では、魔術によってかけられた呪いを分散することができる。だから昔の王族は、王を継ぐ者の他にもたくさん子を作ったらしいわ。万が一王が呪いにかけられても、他の子に呪いを移せるように――って、グラン家の人が言っていたわ」
言いながら、彼女は部屋の中を横切り、フェルナンとアドリアンナの前まで来ると立ち止まった。憮然とした表情でアドリアンナを見下ろす。
少なくとも危害を加える雰囲気ではなく、フェルナンはジュリエッタの動きを慎重に見極めていた。アドリアンナに何が起きているのか彼女は知っているようであり、話させた方が良いと思った。
「お姉様は貴方から呪いを全て回収するつもりだったようだけど、そうはさせないわ。わたしの体の中にも入れた。綺麗なまま、美しいまま死ぬなんて絶対に許さない。わたしの方が優れているって認めさせるまでは絶対に勝手に死なせないわ」
言って彼女は、右の首筋を見せる。ドレスの布の一部が皮膚に貼り付いていたが、それを上書きするようにまっすぐに引かれた新しい傷口があった。固まっていない血がまだ光っている。
「ほら。同じ場所に傷があるでしょ? 同じ血、同じ傷。わたしは貴方と同じ魔力の要素ではないけど、お姉様との血の結びつきがあったから、移動しかけた呪いは人を誤認して、わたしにも流れ込んだ」
彼女の口ぶりからすると、自分で傷を付けたようだ。
フェルナンにもようやく状況が飲み込めてきた。
「アドリアンナが呪いを受けて、それを君が分散させたというのか?」
アドリアンナのこの様相は、呪いのせいというわけか。――であれば。フェルナンの胸に希望が灯る。魔術によるものであれば、解決しようはある。なにせ魔術の天才と言われていたのだから。
「貴方って馬鹿なのね」
ジュリエッタはフェルナンを一笑に付す。
「呪われているのは貴方よ。貴方を邪魔に思ったグラン家が、貴方の力が脅威になった時に死ぬように呪いをかけていた。もう少しで成就するところだったのよ。最近、体調がおかしくはなかった?」
何度も血を吐いていた。だがもはや自分の体のことなど執着できないほど自暴自棄に陥っていた。
呪い――呪われていたのか、俺は。
その時になって初めてそう気がついた。気づかせないほど、精巧な魔術だったということだ。その呪いを、アドリアンナがフェルナンから奪い取った。フェルナンを救うために――。
わけの分からぬ感情が込み上げ、必死でそれを抑え込んだ。今はそんなものに浸っている場合ではない。
フェルナンは意識のないアドリアンナを見、それからジュリエッタを見た。
「なぜお前がそんなことを知っている?」
「パーティにいた人。グラン家当主の息子。酔わせて少し色仕掛けしたら簡単に教えてくれたのよ。だから知っている」
強固な血族の絆は、欲望によって簡単に解ける。一族の秘密を話してしまった彼は、よもやジュリエッタを消そうとしたのではあるまいか。彼女の怪我はそのためかもしれない。
ジュリエッタは静かに言った。
「でも時間の問題ね。ほら、今も呪いがお姉様に引き寄せられている」
黒い粒子が霧状になり、ジュリエッタの体からアドリアンナに向かっていく。フェルナンはそれを遮ろうと魔術を放ったが、まるで効果はなかった。呪いの性質が分からないと根源を断てないようだ。
「どうやってここへ?」
「昨晩のうちに、お姉様の後を追って。道は聖女が拓いていたわ。それを辿ったの」
聖女を“様”なしに呼ぶ人間に、国王ルイスの他に初めて会ったなとフェルナンはこんな時にも関わらず感動を覚えた。
「城はなんの警戒もされていなかったから簡単に入れたわ。中に隠れて、貴方達の様子をずっと見ていた。それにしてもちょっと不用心なんじゃないの? それとも魔術の使えない誰かさんが訪ねてくるのでも待っていた?」
いちいち人を逆撫でしなくては気がすまないらしいジュリエッタにフェルナンは辟易しかけていた。まさしくアドリアンナがいつ来てもいいように城を整備していたし、襲撃者がいたにも関わらず、魔術による防御もしていなかった。
「で、どうするの?」
試すような口調でジュリエッタが言う。
フェルナンはアドリアンナの首筋に触れ傷を治してやると、彼女の体を優しく抱え、ジュリエッタの脇を通るとベッドへと横たえた。やることは決まっている。――決着だ。
フェルナンはジュリエッタを振り返った。
「その傷、治してやろうか」
だがジュリエッタは冷めた目線をフェルナンに向け、まだらな髪をかきあげた。
「いいえ結構よ。この姿、とっても気に入っているの。以前よりもずっと本当の自分って感じがするわ」




