第40話
フェルナンはアドリアンナをただただ見つめていた。その言葉一つ一つを聞き逃すまいとするかのように。
アドリアンナはゆっくりと彼に語りかける。
「居場所なんてどこにもなくて、きっと救いも訪れない」
救いの光など見えない、明けない夜の闇の中でただひたすらに耐え凌いでいた日々だった。
「そうしてこの地へやってきたのです」
アドリアンナは思い出す。見知らぬ男に嫁ぐことの恐ろしさと、自分などもうどうなっても構わないという空虚さが入り混じり、空っぽのままこの地へやってきたこと。祈ることしかできなかった。祈ったってなにも変わらないというのに。
呪われ公爵という存在はアドリアンナをひどく震え上がらせていた。だが実際にいたのは、孤独に怯える弱い男だった。
フェルナンの瞳の中には自分の姿が写っている。自分の目の中にもきっと彼がいるのだろう。愛情を込めてアドリアンナは言った。
「貴方はとても美しい方でした」
姿形ではなく、その生きる姿を美しいとアドリアンナは思っていた。彼には信念があった。それは他人を傷つけまいとする信念だった。
「――埃にまみれた聖堂で結婚式をしたでしょう? 森で助けてくださったこともありました。暮らしは思いがけず穏やかで、その優しさが消えてしまうのが怖かったのです。……それはまさしく魔法みたいに、貴方といると心が晴れていくように感じました」
彼と出会ってからの日々が頭を中を駆け巡る。思い出したのか、フェルナンはほんの僅かに笑った。
暮らし始めた当初、アドリアンナはフェルナンが考えていることがまるで分からなかったし、フェルナンもまたアドリアンナの本心など知りはしなかっただろう。自分を曝け出してはこの平和な暮らしも終わってしまうだろうという恐怖が、アドリアンナにはあったから。だがフェルナンも、同じ恐怖を感じていた。
だが今、その恐怖はどこにもない。
一つ一つ言葉を探す。たどたどしいものではあったが、フェルナンには伝わっているようだった。
「貴方の孤独を知るにつれて、その心に共鳴してしまったから……身の程知らずと分かっていても、側にいたいと思ってしまったのです」
アドリアンナの言葉に被せるようにフェルナンが反応した。
「俺は君に側にいてほしい。君は心に触れてくれた」
それが彼の本音だということは分かっていた。だがアドリアンナは首を横に振る。アドリアンナが彼を本当の意味ではまだ救っていない。
「救われたのはわたしの方です」
――貴方がたくさんの幸せをくださったから。
この城での暮らしは、まるで自分の魂を肯定されたかのように軽やかだった。
作り直してくれたドレスも、晩餐会も――。彼がアドリアンナを喜ばせようとしてくれたことは、その心が既に嬉しかった。思い出してアドリアンナは微笑んだ。
「二人だけの晩餐会も楽しかったし、ダンスの相性も良かったし――」
アドリアンナにつられるようにして、フェルナンも微笑んだ。その笑顔があまりにも美しくて、見た目続けることができずにアドリアンナは思わず下を向く。
もしダンスをした時、彼と口づけをしていたら、違った今になっていただろうか。考えても無駄だが、考えてしまう。
愛される覚悟もなしに彼を愛してしまっていた。それでも彼を幸せにしたかった。
彼の笑顔が好きだ。見ていると心が満たされる。ずっと笑っていてほしい。どうかずっと。
床を見つめたままでアドリアンナは言った。
「一緒にいると、どんどん本当のわたしに戻っていくようでした。だからわたしも貴方を幸せにして差し上げたいと思うのです」
アドリアンナは息を吐く。
「……それがわたしの想いの全て」
伝えきれただろうか。
窺うように彼を見上げると、呆けた瞳と目が合った。彼はしばらくの間、そうやって唖然と立ち尽くしてアドリアンナを凝視していた。だがやがてその体がゆっくりと崩れ、気づけば彼は足が汚れるのも厭わずにアドリアンナの前に跪いていた。
驚くアドリアンナの手を、主君にそうするように彼は両手で取る。温かく、大きな手だった。
彼が言う。
「俺は世間というものをよく知ろうとしていなかった。君のことも知らなかったし、何が愛かすら本当は知らなかったんだ。……何もかも君が教えてくれた」
フェルナンは、そこに輝く光があるかのような瞳でアドリアンナを見つめていた。
「好きだ。愛してる」
手がびくりと震えたのが、自分か彼か分からなかった。心臓の音も、自分か彼か分からない。それほど密接に、二人は一つの塊になっていた。
アドリアンナの両目から涙が溢れる。彼と目線を合わせるように、やはり床に両膝を付いた。
きっと自分は、この瞬間だけは世界で一番の幸せ者だろうと思った。一切の全てから解放されていて、どこまでも自由だった。
「口づけをください。愛してるってまた言って――」
たとえ仮初めの愛でも、彼の口から聞きたい。今日だけはそれを真実だと思っていたいから。
フェルナンは驚いたように目を見張り、アドリアンナが言葉を発する前に、体を強く抱きしめた。
「愛してるよ。当たり前だろ。何度だって言うよ。愛してる」
――愛してる。そんな言葉が嵐のように降ってきた。
フェルナンの唇がアドリアンナの唇に重ねられた。
いつかのように一瞬で離れたりはしなかった。熱はとても長い間、アドリアンナの側にいた。
アドリアンナも彼の背に手を回す。命の終わりにもこの熱を思い出せるように、忘れないでいられるように、彼を強く抱きしめ返した。
(必ず貴方を守ります)
幸福の中で、アドリアンナは目を閉じた。
(――とても大切な人だから)




