さようなら、皆に愛された可愛い人
母や誰かが叫んでいたような気がするが気にならなかった。階段を駆け上がり、廊下を一目散に走る。
扉をバタリと開けた時、ジュリエッタの部屋は既に炎に包まれていた。
轟々と燃える赤い火が瞳に反射する中で、ジュリエッタは寝台の横の棚の上に目的のものを発見し、火が燃え広がる部屋を進み手に取った。
「良かった……燃えてない」
それはうさぎの人形だった。薄ぼけた桃色のそれは、炎の赤い色を受けて生き生きと輝いているように見えた。
ふいに耳に、幼い少女の声が蘇る。
――ねえジュリエッタ。これ、あげる。
絵本に出てくるお姫様のような彼女はそう言って微笑んだ。彼女の手には、贈り物用のリボンを付けられたうさぎの人形が握りしめられていた。
――わたしが作ったの。仲良くなれるように。わたしも前にお母様に作ってもらったの。だからおそろいよ。
差し出された人形を、ジュリエッタは受け取った。
おそろい。その言葉を噛み締めた。
おろそい。その言葉がどんなに嬉しかっただろう。
ジュリエッタは何も持たない娘だった。居場所なんてどこにもなく、救いなどあるはずもなかった。薄汚くて常に腹をすかせていた。
だけどオルエンヌ家にやってきて、居場所と救いを得た。ジュリエッタが生まれて初めて持った自分の財産は、アドリアンナがくれたそのぬいぐるみだった。
――辛い時や寂しい時は、この子を抱きしめるのよ。そうしたら元気になれるから。
きっとそれは、アドリアンナ自身がしていることなのだろうと思った。思えば聡い彼女は既に父が愛人を新しい妻にしたと知っていたのだろう。陰りのある彼女の瞳を見た時、ジュリエッタは不思議な安堵を覚えた。何もかも持っているような彼女も、空疎を抱えることがあるのだと――。憧れのお姫様も自分と同じ人間だった。以来、彼女のその目を見るとジュリエッタは自分の存在が許されたように感じていた。
姉の部屋にあった姉の母が作ったといううさぎの人形を、ジュリエッタの母が捨てるのを見た。母は前妻が残した全てのものが気に食わなかったからそうしたのだろうということは想像できた。ぬいぐるみ捨てる時、母が浮かべた邪悪な笑みを今も覚えている。
――汚れていたからよ。
ジュリエッタの視線に気づいた時、母は気まずそうに言った。だがすぐに思い直したのか凍りつきそうなほどの無表情になる。
――いい? ぬいぐるみを捨てたことを誰にも言ってはだめよ。わたくし達が生き残るためには、嘘と策略が必要なのだから。
ジュリエッタは悟る。
もしも母が不要だと判断したら、自分もこの人形のように簡単に捨てられるのだと。
愛されるためには愛される努力をしなくてはならなかった。
愛されるためには奪わなくてはならない。
ジュリエッタは要領が良かった。ひとたび微笑めば皆が側に寄ってきた。哀れさを装えば皆が味方になった。ジュリエッタは愛された。だが愛し方は知らなかった。なぜなら皆が愛したのは偽りのジュリエッタだったからだ。
そう、愛し方なんて分からない。大切にする方法なんて知らない。だってジュリエッタが人からそれを受けたのは、いつだって歪んだ形をしていたから。
アドリアンナがくれたもの以外は――。
ジュリエッタはうさぎの人形を抱きしめた。
歪んで汚い世界の中で、アドリアンナだけが美しかった。彼女だけが特別だった。ありのあままで戦えるわけがないのに、彼女は自分を着飾らない。なぜなら着飾らなくとも美しいからだ。着飾らなくとも愛されるから。
こんな歪んだ世界の中で、アドリアンナだけが美しくいて良いはずがないのに、そう思えば思うほど彼女は一層美しく見えた。
憎たらしくて憧れた。愛したいのに愛せなかった。愛されたかったのに愛されなかった。
「大嫌い」
初めて彼女を見た時、こんなに綺麗な女の子がいるのかと驚いた。優しく微笑みかけられたとき、嬉しさと恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまった。仲の良い姉妹になれると思った。だけどオルエンヌ家の愛情は正しい姿をしていなくて、ジュリエッタはそれに呑まれてしまった。
「お姉様なんて大嫌い」
彼女に受け入れてもらいたかった。自分の側にずっといてほしかった。
だけど彼女は才能溢れる人で、どこでだって成功してしまう。大人になって、もし自立したら国に尽くす優秀な人になり、家庭に入れば良き妻になるのだろう。
そうしたらきっと平凡な義妹のことなど思い出しもしない。気にかけもせず、思考の底にさえ存在しなくなるのだろう。彼女は二度とジュリエッタを見ない。そんなこと耐えられない。
「大嫌いよ! 大嫌い!」
忘れられたくない。彼女にずっと見ていてほしい。ジュリエッタの成功を、ジュリエッタが人に愛される姿を、ジュリエッタが幸せに笑う姿を、ずっとずっと見ていてほしい。貴女の妹は貴女に負けず劣らず素晴らしい人だと知ってほしい。ジュリエッタがアドリアンナの人生に必要な人間なのだと分かってほしい。そうしてジュリエッタの全てを笑って受け入れてほしい。ギフォードやフェルナンなんかよりもずっとずっと深く心の中に入れてほしい。
「お姉様、お姉様、アドリアンナお姉様……」
あんな目で見てほしくない。ジュリエッタを憐れんで、同情を寄せてほしくない。わがままを受け入れて、ずっと一緒にいてほしい。
ジュリエッタは籠の中の鳥を自由にはできないし、かといって喜ばせ方も分からない。だとしたらずっと籠の中でジュリエッタだけの歌を謳わせたかった。
ジュリエッタはうさぎの人形をさらに強く抱きしめた。
「わたしを見て。お願い、わたしを見て。必要だと言って。大切だと言って。お姉様、お姉様――」
自分勝手だと気づかないまま嗚咽が漏れる。
自分勝手だと気づかないまま愛を求めていた。愛を求めていることにも気づかないままで。
父はアドリアンナに部下を遣っただろうか。彼女はもう死んだのだろうか。死んだ彼女がジュリエッタを助けることはない。ジュリエッタがアドリアンナを殺したようなものだ。それなのに、ジュリエッタは呟いた。
「お姉様、助けて……」
その時、扉の外に人影が現れた。
「ジュリエッタ、無事か!」
そう叫びながら現れたのは、婚約者のギフォード・アルギャンだった。炎の中の幻なのか、あるいは騒ぎを知り駆けつけたのか――真相は分からないが彼はそこにいた。
ジュリエッタはうさぎの人形を抱えたまま炎に背を向け彼に向き直った。
――はて。と思った。
この男は、こんな顔をしていただろうか。アドリアンナの隣にいた彼は大層魅力的に見えたのに、今見ると平凡で秀でた部分など少しもないように思える。
驚きとともにジュリエッタは目を瞬いた。
(この人、全然、素敵じゃないわ)
彼を呆然と見つめているうちにも、彼はジュリエッタに近づいてくる。そうして彼がジュリエッタに触れようとした瞬間、今まで感じたことのない嫌悪が体に走った。
「わたしに触らないで!」
渾身の力で彼の手を振り払う。困惑したように彼は眉を顰めた。
「どうしたんだ。俺がアドリアンナのところに通っていたことを怒っているのか? 後で話そう、今はこちらへおいで」
そんなことを今更怒ってはいなかった。所詮、その程度の男だと思っただけで。ジュリエッタが彼に抱える怒りはそんなものではなかった。
自分の顔が歪むのが分かる。人形を握る手に力が込もった。
「このぬいぐるみ、置いて行けって言ったわね。そんなことはしないわ。だってこれは、貴方なんかよりもよほど大事なものなんだもの」
自分が死ぬ時だって一緒だ。ギフォードにはジュリエッタの心など分かりはしないだろう。彼のような人間には、未来永劫、決して分かるはずがない。
ギフォードの顔が険しくなるが、それはジュリエッタに言い返されたからというよりはますます激しくなる火の手に対してのようだった。彼は魔術を駆使して火を消そうとしているが、ジュリエッタを気遣いながらでは苦戦しているようだった。
「ジュリエッタ、何を言っているんだこんな時に! どうだっていいだろうそんなもの! さっさとこっちへ来るんだ! 火が消しきれない!」
彼の本心には気づいていた。ジュリエッタが欲しいのは英雄としての自分に陶酔できるから。ジュリエッタが価値のある娘だから。心の底では、女であるジュリエッタを見下していることも知っていた。
だが今、ジュリエッタは自らの価値を証明しようとしていた。
「命令しないで! もう二度と、誰もわたしに指図しないで!」
もう誰にも従いたくない。世間の価値に振り回されるのは今日で終わりだ。母の言うことももう聞かない。
ジュリエッタはギフォードの顔を見つめて微笑んだ。
「わたし、この世界なんて大嫌い。皆のことなんて、少しも好きじゃなかったわ」
言った瞬間、ジュリエッタは窓から飛び降りた。
前にも自分で飛び降りた。アドリアンナと二人きりの時で、彼女からギフォードを奪うために。その時は飛び降り方や生け垣を慎重に計算し当然顔には傷が残らないようにしたし、体自体も軽症で済むようにした。
だが今は違う。もうそんなことをしたくなかった。最初からこうしておけば良かった。誰にも振り回されず自分の心に従うことは、なんて爽快なんだろう。アドリアンナもきっと、こんな気分だったのだろうか。
地面に体が落ちるまでが、妙に長く感じられた。
不思議な感覚があり――あ、と気がついた。
ドレスの袖に火が付いていた。気づいたが手遅れだった。大量の虫が体を這うように、またたく間に火が広がっていく。
炎が体を焼いていく。灼熱の痛みの中でジュリエッタは微笑んだ。そうせずにはいられない。
だって馬鹿みたいでしょう? 微笑みはやがて大笑い代わり、ジュリエッタはけたたましく笑い続けた。
結局、自分の人生なんてくだらないものだった。貧乏で何もかも欲しくて常に飢えていた子供の頃となにも変わらない。心はいつも乾いていて、欲しくて欲しくて堪らない。
残虐な死を迎えるのはアドリアンナではなく自分の方だった――そんな風に思ったら、やはり笑いは止まらなかった。




