さあ、これでおしまい
ジュリエッタは馬車の中で御者が聞いているにも関わらず声を出して泣き叫んでいた。そうしなければ自分を保っていられない。まだ保てるだけ自分が残っていればの話ではあったが。
頭がひび割れたように感じ、その隙間からさきほどアドリアンナに言われた言葉が侵入してくる。――わたしが羨ましかったの。それを必死に否定していた。
「羨ましくなんてない。羨ましくなんてないわ!」
気分が悪い。吐きそうだ。あの女はあんな風に言い返すような人ではなかったはずなのに。ジュリエッタの忠告を聞き入れ感謝をし、そうして小さくなって去っていくはずだった。
父がアドリアンナを殺害しようとしていたことは知っていた。誰からも忘れ去られ辺境の地で死んでいくなんて、これ以上ないほど彼女に相応しい惨めな幕引きに思えた。なのに彼女は王都に舞い戻り涼しい顔で過ごしている。それならばもっとむごたらしい人生を与えなくてはならない。それこそがジュリエッタの正しさの証明だ。
「うう、はあ、はあ……」
そうしている間にも、馬車は屋敷へと近づいていく。ジュリエッタは息を大きく吸い込み、小さな氷の粒を作って目元に当てた。
心を落ち着けなければならなかった。屋敷に戻った時、母のメイドに見つけられ異変を報告されてはならない。ジュリエッタは常に完璧な令嬢でなければいけなかった。計算された弱みと儚さ以外は外に出してはいけない。
貧民街に近い場所で暮らしていたことなど嘘であったかのように振る舞わなければならないのだから。
アドリアンナの居場所を父には報告した。
ジュリエッタがアドリアンナと会う時間を確保するために、時間をずらして手紙を出した。手紙を託しのは魔法が使えない使用人であり、魔法で封をしたメッセージは父の手元に届くまで開封されない。
ジュリエッタは肩を震わせた。
(死んでしまえばいいんだわ。これでせいせいする、そうでしょう? 自業自得よ。わたしの忠告を聞かなかったんだもの。そうしてわたしは、あの女のことなんて少しも思い出さずに幸せな日々を過ごすのよ)
考えるのを止めたいのに、アドリアンナのことが浮かんでくる。こんなときに限って、普段は思い出さない過去のことを思い出した。
――初めましてジュリエッタ。わたしたち、これから姉妹になるのよ。
そう言って優しく微笑む彼女は、見たこともないほど美しかった。鮮烈な出会い。生涯忘れることのできない出会い。心の中にあった分厚い雲が、彼女の微笑み一つで消えたように思えた。
(考えてはだめよ!)
ジュリエッタは必死にその思い出を打ち消した。誰かの優しさに迎合する甘さなんていらない。それは弱さになるのだから。弱さは罪だ。世間に住む怪物達にたちまち食われてしまう。
そうして実際、ジュリエッタにとっては有り難いことにすぐにその思い出は打ち消された。屋敷が見え始めた時から、既に違和感があった。
深夜に近い時間帯にも関わらず、屋敷の灯りは全てついていたからだ。使用人が起きているにしても、ここまで明かりをつける必要はない。
誰にも気づかれないうちに帰宅をしようと思っていたが、家に足を踏み入れた瞬間、母カーラの叫びが飛んできた。
「ジュリエッタ! こんな時間にどこに行っていたの!」
侍女には自分が出ていることを母には知らせないようにと命令していた。だがそれどころではない事情があったのだろう。
母の質問には答えずに、胸中がざわめいたままジュリエッタは問いかけた。
「一体なにがあったというの?」
「お父様が連れて行かれてしまったのよ!」
いつもきちんと結われている髪を振り乱しながら母は言う。寝間着でもないことを見るに、夜の仕度の前に何かが起きたらしい。
「お母様、落ち着いて。一体誰にどこへ連れて行かれてしまったというの?」
幼少期のジュリエッタは、母をお母様だなんて呼んではいなかった。単に、母さん、と呼んでいただけだ。だが今のジュリエッタは母に様まで付けている。
母は叫んだ。
「王立騎士団のロラン・アルギャンよ!」
「ギフォード様の弟の? どうして」
眉間に皺が寄るのを止められない。爵位を継ぐことのない貴族の次男が、いかに騎士だとしても貴族の家長を連れて行くことなど許されるはずがない。――悪行の確実な証拠が無い限りは。
ジュリエッタが思考を巡らせていると、静かな声が響いた。
「殺人未遂ですよ。ヴァレリオ・オルエンヌは、アドリアンナ・オルエンヌの殺害を企てていました。辺境の地で回収した襲撃者の遺体の身元を探っていたら、オルエンヌ家に雇われた者だと分かりましてね。貴女のことも待っていました。一緒に来てくださいますか」
有無を言わせぬ低い声だ。見ると屋敷の廊下の奥に、男が立っているのが見えた。ロラン・アルギャン。こんな夜にも未だ、騎士団の制服に身を包んでいる。彼の背後には部下達もいる。この屋敷を漁っていたらしかった。
顔や佇まいは兄のギフォードとよく似ているが、この手の男がジュリエッタの魔性に引っかからないということを知っている。頭が固く、礼儀と伝統を重んじる厄介な男だった。
彼はジュリエッタを見つめ、手に持っていた何かをひらひらと見せつけた。それが自分が父あてに出した手紙であることはすぐに分かった。アドリアンナの居場所を知らせる手紙だ。
浅はかだった。この男がずっと前から父を疑っていて、周辺を探っていたことに気づきもしなかったなんて。しがらみの多い貴族社会で、そのようなことをするはずがないと思い込んでいた。
「そのお手紙がどうしたというの? お父様はお姉様のことをひどく心配されていたから、偶然居場所を知ったわたしがお知らせしただけだわ。それなのに殺人……そんな恐ろしい妄想をされるなんて。まさかわたしもそれに加担しているとでも思っているというの?」
心臓は恐ろしいほど鳴っていたが、そんなことはおくびにも出さずに、ひどく心外だ、という表情を作る。しかしロランは表情を崩さない。
「貴女とアドリアンナの会話を聞かせていただきました。我々にもそれなりに魔術が使えるということをお忘れなきよう」
ジュリエッタのこめかみがピク付いた。粟立つ心を諌めながら、だがまだ逃げ場はあると思った。ジュリエッタはもはや演技を止めて、ロランを睨みつけた。
「だから何? 盗聴は違法だわ。違法に集めた証拠を根拠にされるなんて、王立騎士団も地に落ちたものね」
そこで初めて、ロランは表情を崩しわずかに笑った。
「流石は彼女の妹だ。いざという時の肝の座り方だけはよく似ている」
それはひどい侮辱に思えた。あの姉と、似ているところがあるなんて認められない。ジュリエッタが彼に向かって激昂しかけたその瞬間、血相を変えた騎士団の一人が息を切らせながらこちらに走ってくるのが見えた。
「隊長大変です! 騒ぎを聞きつけた市民が庭に入り込み、木に火を付けました! 屋敷に燃え移っています!」
「なんですって!」
と叫んだのはカーラだった。ジュリエッタも驚いて庭を見る。周囲の騒がしさに気づいたのはその時になってからだ。見知らぬ他人達が庭で騒いでいる。手に松明を持つ者もいて、先に火を付けた者に続くようにして、庭木に近づけていた。
「ざまあみろヴァレリオ・オルエンヌ! 俺達の恨みを思い知れ!」
そんな叫びが聞こえた。
父の経営する工場は人使いが荒く、労働環境に異議を唱えた労働者を解雇し怒りを買っていることは知っていた。彼等の怒りが、父の罪を知ったことを皮切りに噴出したのかもしれなかった。
ジュリエッタは戦慄した。十年前は、少なくとも自分はあちら側だった。だから分かる。失うものが無い者達は、いかなる支配者よりも強いのだということが。
彼等が火を付けた木の側にはジュリエッタの部屋がある。随分前に、アドリアンナから奪ったお気に入りの部屋が。そこには高価なものがたくさんある。売れば、慎ましい暮らしならば一生は過ごせるであろう財産だった。
だがジュリエッタが思ったのはそんな価値のない物ではなく、たった一つのもののことだった。
「――あ。わたしの、ぬいぐるみ」
思った瞬間にジュリエッタは駆け出していた。




