過去にけりを付けて君と決別しようじゃないか
アドリアンナはジュリエッタに正面から向き合っていた。気づかれないように窓を確認する。もしも何かが起きたら、そこから逃げられるように。
ジュリエッタはまるで昼間の庭園で知り合いに会っただけのような愛想のよい笑顔を浮かべた。彼女はよそ行きの格好のままで化粧もしている。まるで今から本当にパーティに参加してもおかしくはない姿だった。
それがこの暗がりの研究室では一層不気味に映る。
「驚いた? わたしも驚いているわ。王立研究所の警備がこんなに簡単に突破できるなんて。わたしね、ノア・ルターヴさんの恋人で、彼に頼まれて忘れ物を取りに来たって門兵に言ったのよ。こんな夜中で心細いからすぐに用事を済ませたいって。そうしたら、丁寧に研究室の順路まで教えていただいたわ。平和ボケしているんじゃないの?」
ふふ、と笑った後でジュリエッタはアドリアンナの頭からつま先までを一瞥した。顔は笑っていたものの、その目線に含まれた冷徹さには気づいていた。
「それにしてもお姉様、こんな狭くてむさ苦しい場所にいたなんて。貴族令嬢の姿とは思えないわね?」
アドリアンナはジュリエッタから目線を逸らさない。まさか彼女が襲ってくるとは思わないが、魔法が使え、目的が分からない人間の前で丸腰でいなくてはならない人間の、せめてもの抵抗だった。
「何をしに来たの」
間髪入れずにジュリエッタは答えた。
「ここに来たのは忠告のため」
言ってからジュリエッタは細く白い人差し指をゆったりとアドリアンナに向ける。
「お姉様の居場所をお父様に言いつけたわ。直にここにオルエンヌ家に雇われた兵士が来る。辺境の地ではしくじったけれど、今度こそお姉様を確実に殺すために」
アドリアンナの脳裏に、辺境の地の光景が蘇る。ギフォードともみ合いながら見た森の中の断続的な光。あれはフェルナンが襲撃者と交戦していたのだと、後になってロランに聞いた。
アドリアンナの研究を重く見たグラン家が、オルエンヌ家の当主にその娘の始末を命じたということは想像に難くない。だがそんな冷静な思考とは裏腹に、胸が刺されたような痛みを心に感じた。父の愛など、あり得なかったのだということが今になって明確になった。彼はアドリアンナを殺しても、その次の瞬間には他人に向かって微笑むことができるのだろう。
そんな心の機微を、ジュリエッタは見逃さなかった。
「なあに? その顔。もしかして気づいていなかったの? お父様はお姉様のことを殺したってなんとも思わないような人だってこと。親子の絆なんて、二人の間には少しも無かったのに、今更傷ついているの?」
彼女が告げるのは真実だ。一歩ジュリエッタが歩み寄ったため、アドリアンナも一歩下がる。壁がすぐ背に迫っていた。
そんなアドリアンナの様子を満足げに見つめた後でジュリエッタは意外なことを口にした。
「逃げたいのなら逃がしてあげる。わたしの目に二度と入らない場所に逃げるというのなら手伝うわ。呪われ公爵様に嫁ぐだけの気概があるお姉様なら、物乞いでもしながら生活できるでしょ? ちゃんとお願いしてくれたら、たまにはお金を恵んであげてもいいわ」
「なぜわざわざ教えてくれるの」
アドリアンナは思わず眉を潜めた。義妹の真意が分からなかったからだ。ジュリエッタは微笑みながら答える。
「だってあまりにも可哀想なんだもの」
「だとしたらなぜ、お父様にわたしの居場所を教えたの」
「わたしは彼のお気に入りだもの。寵愛を給い続けるためには、宿主へのたまの餌は必要だわ」
もはや彼女は、自分の内面を着飾ることを止めたようだ。皮肉に思えた。父の愛を求めたアドリアンナは彼に愛されず、彼が愛したジュリエッタは、彼を少しも愛していないなんて。
「なぜ」
アドリアンナは声を喉につまらせながら問いかけた。
「なぜ貴女はわたしに執着するの――?」
今になってジュリエッタはアドリアンナにとって異様なものに映った。彼女がアドリアンナを嫌っていることはもう隠しようがない事実だ。そんな相手に、本性の一部を見せるなんて。
ジュリエッタの顔から初めて笑みが消えた。顔がこわばり、目が吊り上がる。低い声で彼女は言った。
「執着、ですって?」
アドリアンナは壁から一歩、ジュリエッタに向かって進んだ。ジュリエッタの顔を覗き込む。驚くことに、怯えたような瞳でアドリアンナを見つめていた。まるで初めて出会った時のフェルナンのようだ。相手が敵か味方か――何者であるのか探るような瞳だった。
「貴女はわたしから全てを奪ったわ。親も、家も、恋人も――。満足したでしょう? 貴女はわたしに何もかも勝っていて、とても幸せなのだとしたら、わたしになんて構わなくて良い。わたしの心をわざと傷つけようとしても、今更わたしは傷つかないわ」
不思議とジュリエッタに対して、今になってもう何も感じなかった。嫉妬も劣等感も。わずかに感じたのはむしろ憐憫だった。
彼女は未だ、同じところに囚われている。蝶よりも自由なはずのジュリエッタは、己のいる場所が虫籠の中だと気づいていないのだ。外へと出たら、蝶はたちまち上位種に羽をもがれてしまう。
ジュリエッタの顔が引きつった。
「なによその目。なんなのその態度は!」
アドリアンナはまた一歩ジュリエッタに向かって進んだ。たったそれだけであるのに、ジュリエッタは目に見えてわかるほどに狼狽する。まるでアドリアンナこそ蝶を喰らう捕食者であるかのように。
「あ、貴女は無様でないといけないの! 貴女はわたしより下にいないといけないのよ――! なぜわたしに歯向かおうとするの!」
そういえば、とアドリアンナは思った。ジュリエッタに対して対等に会話をしたのは出会った頃以来ではないのか。アドリアンナは長い間、ジュリエッタが恐ろしかった。父の愛も、母との思い出も、友人も婚約者も何もかも奪ってしまう彼女が。
なぜそうなってしまうのか分からないうちに、気づけばアドリアンナは全てを失ってしまっていた。以前の自分の場所にいたのはジュリエッタだ。そして自分よりも遥かに上手に人に愛されていた。
そんな彼女が、なぜこんなに怒り狂っているのだろう。
――ああ、そうか。
アドリアンナはようやく彼女の激昂の真意を悟った。
「貴女は、わたしが羨ましかったのね」
水を打ったような静寂があった。ジュリエッタは目を見開き、唖然とアドリアンナを見つめている。だがやがてその目が充血し、体がひどく震えだし、ほとんど叫ぶように彼女は言った。
「なによそれ! どういう意味! 羨ましいわけないでしょう!? 貴女のどこに羨む要素があるっていうのよ! 見た目も、人に愛される力も、わたしの方が遥かにあるのに!」
声を荒げるジュリエッタを静かにアドリアンナは見つめていた。アドリアンナはもういらない。見た目の美しさも、人に愛される力も、そんなものは必要無かった。なぜならもっと大切なことを知っているからだ。人を愛し、その人の幸せを一心に願う心だった。
「その目をやめて!」
ジュリエッタは叫びながらアドリアンナに向けて手を高く掲げた。勢いで、彼女の目から涙が飛び散るのが見えた。
「気持ち悪い、気持ち悪い! 気持ち悪い!! 貴女って本当に最低な女よ!!」
ジュリエッタは振り上げた手を迷うこと無くそのままアドリアンナの顔に下ろした。渾身の力を伴って。パン、と空気を裂くような破裂音が部屋の中に響く。
ジュリエッタは涙を流しながら、狂気的な笑みを浮かべて吐き捨てた。
「わたしの忠告を聞かなかったこと、絶対に後悔するわよ。貴女は死ぬんだもの! どこに隠れたって、絶対に見つけてやるわ! 残虐な死の際で、貴女はわたしの忠告を聞いておけば良かったって懺悔するのよ!」
もう会話など無意味だった。頬を張られたアドリアンナはそれでもなお冷静だったが、ジュリエッタは取り乱していた。それでもなお、気を落ち着けるためか前髪をかき上げながら息を長く吐く。
「さようならお姉様。次に会うのは冷たい死の後でしょうけれどね」
そうして彼女は来た時と同じように扉を開き出ていった。
嵐の後のようなくたびれた静寂が部屋に残る。
ジュリエッタは何をしに来たのだろうか。まるで自分の忠告をアドリアンナが聞き入れて、彼女に感謝をすることを期待していたようだ。だがそんなことはできなかった。アドリアンナの心は既に、ジュリエッタのもとには無かったからだ。
誰もいなくなった部屋で一人、アドリアンナはジュリエッタに向けて呟いた。
「貴女はわたしから何もかも奪ったけれど、それでも奪われなかったものだってあるのよ。ただそれが小さくなって、目に見えなくなってしまっていただけ。フェルナン様との暮らしで、それをまた思い出したの。……貴女には、もう分からないかもしれないけれど」
幼い頃のことが蘇る。出会ったばかりのほんの数週間の間だけ、アドリアンナとジュリエッタは本当に仲の良い姉妹だった。アドリアンナは彼女がとても可愛かったし、ジュリエッタも心から慕ってくれていたように思う。だがもう、二度と戻らない過ぎ去った日々だった。




