皆を騙し欺いた罪は重い
微笑みを崩さぬまま、オフィーリアは血管が浮き出るほど白い手を片方アドリアンナに向けた。
「こちらへいらっしゃい。そんなに怯えた顔をしなくていいのよ」
薄茶色の長い髪が彼女の体を覆っている。優しい声色だった。
彼女の背後には神を祀った祭壇があり、生け花が散っている。さらにその上の壁には巨大なステンドグラスがあり、色とりどりの光を聖堂の中に落としていた。にも関わらず、この聖堂の中は暗い。光が光として機能していないかのようだった。
その中で、オフィーリアだけが輝いている。誘われるまま、アドリアンナは彼女に引き寄せられた。オフィーリアがいるのは信者の席からまた数段の段差を上がった上だ。聖女の美しさに見惚れていたアドリアンナは、段差の手前ではっとして立ち止まり、スカートを持ち上げて頭を下げた。
「聖女オフィーリア様、お会いできて光栄ですわ。アドリアンナ・オルエンヌが参りました」
美しい彼女の前で、自分の声が滑稽に感じる。聖堂の中に他の者の姿はなく、二人だけが存在していた。
微かにオフィーリアが息を漏らす気配がして、次にアドリアンナの頬に温かな手が触れた。手はそのままアドリアンナの顔を上げさせて、オフィーリアの笑顔が目に入る。
「こうして話すのは初めてね。結婚を取りやめて王都に戻ってきたと聞いて驚いたわ。フェルナンの方から結婚の解消を申し出たそうね。
……それからはずっと王立研究所にいたの? あそこは女の子が暮らすには少し不便でしょう」
オフィーリアの口調は穏やかで、自身が命じた結婚がだめになったことを責めるような態度は無かった。アドリアンナの驚きは顔に出ていたことだろう。素直な態度にオフィーリアはますます目を細めた。
「誰から聞いたのかって驚いたのかしら? 貴女の妹さんはこのところ自身の婚約者からの誘いが減って、彼が心変わりしたのではないかととても不安がってしまって、行き先を教えるように御者にお願いをしたらしいわ。彼女がわたしのところに直接教えに来てくれたのは正しい判断だったわ。貴女をグラン家よりも早く見つけることができたんだもの」
ジュリエッタが。
「そう、だったのですか」
アドリアンナは義妹のことを思い目を伏せた。仲の良い姉妹には結局なれなかった、可憐な少女。
考えてみたら彼女が不安に思うのも当然のことかもしれない。ギフォードはそれほど頻繁に王立研究所を訪れていた。
再びアドリアンナはオフィーリアに目を向けて、一番の疑問を投げかける。
「なぜわたしをお呼びくださったのですか?」
「ずっとお話してみたかったの。貴女の論文、興味深かった。瘴気が作り出せるっていう、あの話よ」
再び言葉に詰まると、オフィーリアは僅かに笑い声を漏らした。アドリアンナがおかしくてたまらないと、そう言いたげに。
「貴女って本当に可愛らしい方ね。すぐに顔に出てしまうのね。
なぜわたしが知っているかって驚いているの? 貴女が書いたあの論文、とても出来が良かったから、研究所から陛下側近へ回送されて、陛下もグラン家当主も読んだのよ。わたしにも読めと回ってきたわ。当主はあり得ないおとぎ話だと陛下の前で笑ってみせたけど、瘴気の核心に迫る、面白い論文だったわ。それで、実証実験は終わったの?」
なんと答えればよいのかまるで分からない。
自分が書いた初めの論文が王立研究所外に出ていたことも知らなかったし、王やその周囲が読んでいたことも知らなかった。一つ目に書いた論文はまだ伝導石のことには触れておらず、ただ瘴気が自然発生的に生じることの不可解さと人工的に拡散されていてもおかしくはないことに言及していただけだった。魔力を喰らう物質がその正体ではないか――アドリアンナはそう書いていた。
オフィーリアは表情一つ変えずに、微笑んだままで再び問いかける。
「していたんでしょう? 研究所で」
背中に冷たい汗が伝う。回答を間違えないようにしなくては、とそう思った。
大聖堂には二人だけだ。だが誰かがどこかに潜んでいてもおかしくはない。グラン家が瘴気を操っていると気づいてしまったと気づかれたら、ノアに危害が及ぶ可能性だってある。
「隠さなくてもいいわ。貴女は優秀な人ですもの、きっと立証したのね。あの論文――瘴気が人為的に出現しているって話。本当よ」
はっと息を飲む音はアドリアンナのものだ。まさかこんな簡単に、こんなにあっさり認められるとは思っても見なかった。
「グラン家は自分たちがのし上がるために瘴気を発明し、そうしてわたしを聖女に仕立て上げた」
オフィーリアは天井を見上げ、窓を指さす。
「ほら、御覧なさい。左右の天井に斜めに窓があるでしょう? あそこから陽の光が入ることによって、この祭壇の前に立つわたしが照らされるのよ。まるでわたしが光っているように見えるでしょう? この聖堂が全体的に暗い作りなのはそのせい。全てが計算されて、作り込まれているの」
アドリアンナの逼迫した表情を見て、オフィーリアは満足げに笑みを浮かべる。だがその笑みにたとえようもない悲しみが潜んでいることを確かに見た。
「わたしに瘴気を消す力なんてない。わたしは作り上げられた偶像だから」
「なぜ――なぜわたしにそんな話をされるのですか?」
オフィーリアの瞳が見る間に陰るのを、アドリアンナは見つめていた。彼女もまた、逃げ出すことの出来ない牢獄の中にいるのだと、アドリアンナは気づいた。こんなに立場が違うのに、同じ葛藤を抱えている。アドリアンナは牢獄の中から逃げ出せた。だが彼女はまだ、檻の中にいる。
「もう、嫌になっちゃった。皆を騙すのも、孤独な聖女でいることも。愛する人に愛しているとさえ言えないこんな人生は嫌。初めはわたしも自分が本物の聖女だって思ってた。まだ子供だったし、わたしが祈れば瘴気が消えるってそう信じ込まされていたの。大きくなるにつれてそれはおかしいって気づいたけれど、もう逃げられない場所まで来てしまっていた。
誰かがグラン家の陰謀を暴いてくれるのを、ずっと待っていたの。貴女はまさに、わたしにとっての聖女様だわ。それで、貴女はどうするつもりなの?」
「わたし、わたしは――」
アドリアンナは両手を握りしめる。オフィーリアは偽り無く自身の言葉を伝えてくれた。ならばアドリアンナもそうするべきだ。
「わたしはオフィーリア様を害したいとは少しも思っていません。貴女様は皆の希望の象徴でした。それが全くの嘘だったとは思えません。もしオフィーリア様に瘴気を消す力が無かったとしても、貴女は聖女様です」
アドリアンナもオフィーリアの姿にどんなに勇気づけられてきたことか。
アドリアンナだけではない。この国のほとんど全ての者が聖女オフィーリアを思えばどんな苦境にだって耐えることができた。その意味で、彼女は間違いなく聖女だった。
「フェルナン様は、今も貴女を深く愛しています。お二人の未来を邪魔したくありません。ですが」
アドリアンナはゆっくりと息を吸った。自分の思いを、はっきりと伝えるために。
「ですが、研究した結果は公表します。間違ったことをしている人がいるのなら、それを正すために。もう二度と、瘴気が人々を殺さないように。もう二度と、誰一人苦しまないために」
ヴァロンの光景が蘇る。あんな理不尽に命を奪われていいはずがない。誰もあんな目に遭っていいはずがないのだ。
アドリアンナの言葉を聞いたオフィーリアは穏やかに言う。
「その結果、一つの家が滅亡することになっても? 従属しているオルエンヌ家だってただ事では済まされないでしょう?」
「構いません。その先でより多くの人が救われるのなら」
いつの間にか、そこまで心の整理が付いていた。グラン家が没落することは、即ちオルエンヌ家も没落するということだ。母が必死になって守ろうとしてきたその家を、自分の手で壊すということだ。だがそこには既に一つの迷いもなかった。
アドリアンナの返答に、オフィーリアの瞳がキラリと光ったように思えた。
「見た目ほどか弱い女の子ではないのね」
しばしの沈黙が流れた。陽の光はまだオフィーリアを照らし続け、光から外れたアドリアンナには陰を落とす。オフィーリアが見定めるようにアドリアンナを見つめていた。
やがてオフィーリアが口を開いたが、それは予期せぬ投げかけだった。
「ねえアドリアンナ。フェルナンが好き?」
戸惑ったのは一瞬だけで、結局はアドリアンナはまっすぐにオフィーリアの瞳を見て答えた。
「はい。好きです。とても」
彼の姿を思い出して、アドリアンナは自然と微笑んでいた。
彼の優しさが好きだ。彼の弱さが好きだ。彼の孤独が好きだ。彼の寂しさが好きだ。アドリアンナを見る時の視線が好きだ。照れくさそうな口元が好きだ。彼の佇まいが好きだ。彼を司る全てが好きだ。一緒にいた時間は短くても、彼と過ごした日々は一生の支えになると断言できる。
「あの方に出会えたことは、わたしの宝です」
それは一方的な想いで、フェルナンから返ってくるものではない。それでも純粋な想いだった。
「そう――」
アドリアンナの視線から逃れるようにオフィーリアは目を伏せた。長い睫毛が彼女の瞳に陰を落とす。再びアドリアンナを見た彼女は、もう微笑んではおらず、そうしてまたしても不思議なことを聞いてきた。
「呪われ公爵がなぜそう呼ばれているのか知っている?」
「先代のグリフォン様がそう呼ばれていたからだと」
醜い外見で生まれた先代のグリフォン公だ。直接は知らないが、アドリアンナは彼が好きだった。残る生活の痕跡が彼が人生を楽しんでいたことを物語っているからだ。
だがオフィーリアはゆっくりと首を傾けた。
「違うわ。本当に呪われているのよ、フェルナンは」
オフィーリアの顔がアドリアンナに近づく。息遣いさえも感じるほどの距離で、オフィーリアは囁いた。
「外側に向かう呪いじゃないわ。内側へと向かい、彼自身を殺すもの。彼は死ぬ。そう遠くないうちに」
何を聞かされたのか分からない。アドリアンナは強張った顔でオフィーリアを見つめた。視線を受けたオフィーリアは近づけた体を離すと遠くを見るように目を細める。
「昔話をしてもいい? といってもそれほど昔ではないわ。フェルナン・ラヴェルという人間が生まれた、二十一年前のお話よ」




