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知らない方が貴方のためだったのに

 ――昔、オフィーリアを遠目で見かけたことがある。母が亡くなったすぐ後のことで、ヴァロン震災で見事に瘴気を消し去り被害を最小限に留めたその祝祭として、聖女が人々の間をパレード用の馬車で移動していた。


 あれはそうだ。悲しくて泣いていたら、煩わしいと父に顔を殴られて、恐ろしくて家を飛び出して、行く宛もなく街を彷徨っていたそんな時だったはずだ。路地裏の暗がりから見る聖女オフィーリアは明るい笑顔で皆の歓声に応えていた。


 自由な人生という多大なる犠牲を払い、人々のために聖女として役目を果たしている尊い娘。

 彼女の人生の上に、皆の平和が乗っている。皆それが分かっているから彼女に向けてひたすら祈りと歓声を捧げていた。

 アドリアンナも祈らずにはいられなかった。どうか瘴気が人々を苦しめなくなりますように。平和な世界で悲しむ人がいなくなりますように。そう願いながら一歩路地裏から光の方へと足を踏み出すと、貴女もどうぞと道行く人に花びらを渡された。

 だからアドリアンナもオフィーリアへ向けて花びらを投げた。澄み渡る青空に、色とりどりの花びらが舞った――。


「私はそもそも権力者というものを信用してはいない。グラン家などその筆頭だ。彼等が瘴気と聖女を利用しのし上がったのだとしても、そこに驚きはないよ」


 ノアの声で我に返った。


「問題は、これを公表するかどうかだ。先程も言った通り、私の前任者は死んだ。ヘタを撃てばその二の舞になりかねん。信用できる者にこの事実を託したいが、どいつもこいつもグラン家の息のかかった者に思えてくる。君は信用できる誰かに心当たりはあるかい?」


 彼は眉間に皺をよせ、思い悩んでいるようだった。信頼できる人間と言われても、そもそも知り合い自体が少ないのだ。少し考えてからアドリアンナは答える。


「ロラン・アルギャン様なら信用できると思います」


「ああ彼か――。確かに……」


 口元に片手を持っていったノアは、次には意味ありげな視線をアドリアンナに投げかけた。


「確かに彼なら立場も身分もあり、何より君を裏切るような真似をするはずがないか」


 考え込むように彼は唸った。


「そうだな、ロラン。彼に言おう。だが兄の方はだめだ。学生時代に私を苛めてきた奴によく似ているから好かん。うん、決まりだな。ロラン・アルギャンにはこのことを話し、ついでに護衛を頼もうじゃないか? 

 彼が次にここに来た時に伝えよう。君に会いに明日には来るだろうから」


「わたしというよりは、フェルナン様とのお約束を果たすためですわ」


 ロランの名誉のために訂正すると、ノアは呆れたように大げさにため息を吐いた。


「なんということだアドリアンナ。君は他人の視線に鈍感なようだな。私の方が先に気付くとは、実に嘆かわしい」 


 ノアの嘆きの意味をほとんど意識せずに、アドリアンナは静かに動揺していた。ついにやり遂げることができる。瘴気の謎を解き明かし、人々を救うことができる。ずっとこのために生きてきた。母に約束したことを果たすことができるのだ。

 だが一方で、頭を思い切り引っ叩かれたような気がしていた。天命や運命などこの世には存在せず、アドリアンナが生き残ったのは体質による偶然のものだ。グラン家の陰謀を暴くつもりなど毛頭なかったのに。自分にそんな資格があるというの?

 誰もが愛する聖女様を、この手で墜落させようとしている。自分はそれほど誇れる人間ではないのにも関わらず。


 そうしてやはり、フェルナンのことを思った。彼は聖女を心の底から愛している。アドリアンナがオフィーリアを追い詰めようとしていると知ったら、何を思うだろう。


(聖女様も無理やり従わされているだけなのかもしれないわ。だってあんなに綺麗でお優しい方だもの。慎重にやらないと傷つける必要のない人まで傷つけてしまうかもしれない。それにもしかすると聖女様も解放されて、フェルナン様とようやく一緒に過ごすことができるかもしれないもの)


 強制的に結婚させられてようやく解消できた自分とは違って、心の底から愛し合う二人が結ばれる。フェルナンはどんなに喜ぶだろうか。

 彼の笑顔を思い浮かべて、アドリアンナの心はほぐれた。彼には穏やかに笑っていてほしい。隣りにいるのが自分ではなくても。だが同時にほんの少しだけ心がざわめいた。彼と過ごした十数日が幸福すぎて、ずっとあのまま過ごしていたいと、そんな夢を見てしまっていた。


(馬鹿ねわたしは。フェルナン様は結婚関係を解消したのよ。それが彼の答えだわ)


 アドリアンナは両手を握りしめた。傷つくことさえ自分勝手だ。だがようやくアドリアンナは認めることができた。


(わたしはフェルナン様に恋をしていたのね)


 あんなに不器用な優しさに触れて、苦悩しながらも側にいてくれて、心惹かれるなという方が無理がある。

 だが失恋した。初めから叶う見込みのない恋心だった。

 考えるのはもうやめよう。考えたって仕方がない。自己憐憫に浸るのもやめよう。やるべきことをやらないと。

 彼の人生にアドリアンナは必要ない。ただ優しさをくれただけ。彼が必要としているのは、初めからオフィーリアだけだ。


(……そうよ、だからやっぱり慎重にならないといけないわ。聖女様へ害が及ばないようにするのよ。ロラン様にもきちんと説明をして、聖女様を守っていただくの)


 フェルナンにもらった恩と優しさを返ししたい。オフィーリアとの未来をあげたい。

 人知れず決意を固め、アドリアンナはノアに言った。


「すぐにこのことを文章にまとめます。皆さんにも読んでいただけるように論文を――」


 と言いかけた時、部屋の外で人が喚く声が聞こえた。何やら言い合いをしているような気配に、アドリアンナとノアは顔を見合わせる。ノアが先に反応した。


「様子が妙だ。廊下を見てくるから、君は隅にいなさい」


 ノアは側に置いてあった黒布で水槽を覆うと扉を少しだけ開き外を覗った。とその瞬間、外側から大きく扉が開かれた。ノアが非難の声を上げる。 


「誰だ、一体何のつもりだ!」


 扉を開いたのは二人の男で、どちらも大柄だった。急な訪問にも関わらず愛想笑顔の一つさえ浮かべないどころか冷たい視線をノアに向ける。

 その背後から研究所の職員がひどく恐縮した表情を浮かべてこう言った。


「グラン家の方々ですが、お約束もないのに突然――」


 職員の口調には明確な非難が現れる。アドリアンナは身を固くした。

 さっきの今で、グラン家の人間がもう実験の成功に気づいたというのだろうか。

 グラン家の男達はノアを一瞥すると脇へよせ、づかづかと部屋の中へと入ってきた。


「どけ! オフィーリア・グラン様がアドリアンナ・オルエンヌに用がある。ここにいるのだろう?」


 アドリアンナはますます混乱した。聖女が自分に何の用だ。彼女とは口を利いたことも、会ったこともない。じっと隅で息を潜ませていたアドリアンナだが、隠れる場所もなく見つかってしまう。


 水槽に黒布がかけられていて良かったのかもしれない。彼等はそこに注意を払うこと無く視線をまっすぐにアドリアンナへと向けた。


「ああ、その娘だ。来い」


 存在を無視されたノアがひどく不愉快そうに眉を吊り上げながら男達に食って掛かる。


「おい待ってくれ。突然押しかけてきて私の助手を連れて行くなど非常識だ! その娘はアドリアンナなどという大層な名前ではないし、私の姪だ! 結婚までの時間、暇だというから手伝わせているだけだぞ!」


「つまらん嘘を吐くと自分のためにならんぞノア・ルターヴ。何も取って食おうというわけではない、用が済んだらここに戻してやる」


「いいからその手を離し給え、失敬じゃないか! ――うわっ!」


「きゃあ室長!」


 一瞬のことだった。男の一人がノアに向けて魔術を放つ。まとも食らったノアは本棚に体をぶつけて目を閉じた。衝撃で本がバラバラと落ちてくる。胸が上下しているのを見るに、気を失っただけのようだ。

 男は冷たく言い放った。


「魔法も大して使えない人間が、このグラン家に命令するなど百年早い。連れて行け」


 

 ◇ 



 わけがわからなかった。

 実験していることがバレた――? だけどそれならアドリアンナだけを連れて行くのは腑に落ちない。実験を主導したのはノアであり、研究室の責任者も彼だ。


 アドリアンナが王立研究所にいることを知っていたことも驚きではある。だが考えてもオフィーリアの目的など分からない。


 脇をグラン家の男に固められながら馬車に乗り、無言で大聖堂へと向かいながらアドリアンナは覚悟を決めた。


(とにかく、会ってみないと分からないわ。聖女様のお考えも、そうして彼女がグラン家の行っていることを知っているかどうかも……)


 やがて大聖堂の前で馬車は止まり、アドリアンナは腕を捕まれ降ろされる。その手を振り払った。


「一人で歩けます。逃げませんから」


 グラン家の男は驚いたような表情でアドリアンナを見た。まるで予想していた態度とは異なるような顔をしている。

 それを無視してアドリアンナは一人で扉へと続く階段を上った。その足取りは、自分で思っていたよりも遥かにしっかりしたものだった。


 聖堂の扉は両脇にいた兵士によって鈍い音をたてて開かれた。中に信者の姿はなく、修道士たちもいなかった。いるのはたった一人。

 祭壇の前でこちらを見つめて立っているのは、いつか見た光り輝く美しい姿そのものだ。長い髪はそのままに、白いドレスを着て、万人が見惚れるであろう笑みを浮かべて聖女オフィーリアは穏やかに言った。


「こんにちはアドリアンナ。来てくださってとても嬉しいわ」


 それはまるで、天空から響く小鳥の囀りのように可憐な声色だった。


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