盲目さこそ真実を覆い隠す癌だとも知らずに美徳に思っていた
それは久しぶりにジュリエッタを伴い出席した夜会での別れ際のことだった。馬車で彼女の屋敷の前に到着し、従者に彼女を託した時に、ふいに言われたのだ。
「今日はとても楽しかったですわ。最近あまり夜会にお誘いくださらなかったので、ジュリエッタは少し寂しかったです」
対面するギフォードは咄嗟の返答に窮してしまった。目の前で哀しげに微笑むジュリエッタは邪気のかけらなどどこにもないように思えた。まだ少女の面影を残し、純なる者の象徴のような潤んだ瞳でギフォードを見つめていた。
言われた言葉は図星だった。このところ、ギフォードはジュリエッタを誘っていない。
「すまない、友人の手伝いをしていてね」
「どなたです?」
小首をかしげて彼女が問うが、ギフォードははぐらかした。
「学生時代の友人さ。最近独り立ちをした人でね、人手が足りないというから」
そうだったのですか、とジュリエッタは再び微笑み、それ以上の追求をしては来ない。
「お友達が大変な時にわたしったら、ヤキモチを焼いてしまってごめんなさい。ひどい婚約者でした」
「いいんだ。さあ屋敷に戻りなさい。いつまでも中に入らなかったらお父様とお母様が心配してしまうよ」
言いながら、ギフォードは彼女の帰る屋敷を見上げた。幼い頃から何度も招かれた屋敷だ。もっとも当時はアドリアンナの許嫁としての立場ではあった。
ジュリエッタのことを、ギフォードは心の底から可愛いと思っている。人の目を惹きつけて離さない、そんな魅力のある人だ。
だがそれでも、全てを話してはいなかった。アドリアンナを迎えに辺境の地まで行ったことも、彼女を連れ帰り研究所に預けたことも、そうして頻繁に彼女のもとを訪れていることも、何一つ言ってはいなかった。
そもそも女というものを、自分と対等に物を考えられる生物とは思っていなかった。ただそこにいるだけで可憐であり、癒やしを与えてくれるのが女であり、社会を回していくのは男だ。もっと言うのならば、貴族の男だけだ。
だからアドリアンナのことを話したとしても、ジュリエッタに理解できるはずがなかった。
◇◆◇
アドリアンナの新たな暮らしが始まった。王立研究所の瘴気部門として与えられた一室で暮らしながら、昼夜問わず仮説の立証に勤しむ生活は、アドリアンナの心にかつてないほどの生の喜びを与えた。これこそが己の生きる意味なのだとそういう風に考えた。
ノアは夜に帰り、朝になるとやってくる。以前はここに泊まることもあったそうだが、そうしないのは一応はアドリアンナに気を使っているようだった。
一番始めにアドリアンナがしたことは部屋の片付けだ。一晩かけて床に散った本を本棚に戻し、魔道具も全て机の上に並べておいた。散らかった部屋は落ち着かない性分であった。
てっきり喜ばれると思っていたのに、翌朝やってきたノアは部屋を見るなり悲鳴を上げる。
「この部屋は散らかっているんじゃない! 全て整然と管理されていたのに!」
といいつつも種別順に分類された本や用途別に分けられた魔道具を見て、結局はこちらの方が使い勝手がいいと判断したのか、あるいは散らかす度に片付けるアドリアンナを見て諦めたのか、やがて研究室は整理された場所になっていった。
ロランはほとんど毎日この部屋を訪れては、アドリアンナの様子を見に来ていて、必要なものがあれば用意すると申し出た。王立騎士団に務めるという彼を小間使いのように使うのは気が引けて、必要なものはなにもないと言うと捨てられる寸前のような犬のように哀しげな瞳になってしまった。
だから結局、着替えを頼んだ。後々になって考えてみたら彼に女性ものの衣服を準備させるのはいかがなものかと思ったが、翌日には彼は持ってきた。
「女性の使用人に頼んで用意してもらった。僕は中身を見ていないから安心してくれ」などと律儀に言いながら、服が入ったトランクを差し出す。
アドリアンナはひどく恐縮してしまう。
「わたしをここへ連れてきてくださっただけでも大変な御恩がありますのに、その上こんなことまで――。なんとお礼を申し上げたらいいのか。本当にありがとうございます」
ロランは真面目な顔をして首を横に振った。
「フェルナンと僕はほんの短い間だけど、とても良い友人だったんだ。だから君の当面の生活の面倒を頼んだんだと思う。彼の信頼に少しでも報いたい。
もちろん、君のことも大切な友人だと思っている。君が大変な状態だった時に、何もできなかった自分をとても恥ずかしい人間だと思う。何度も悔いたよ、遅すぎるかも知れない後悔だけど。だから今は、可能な限り手伝わせてほしい」
なんて素晴らしい方なんだろう、とアドリアンナはロランに感謝した。フェルナンが彼を信頼するのもよく分かる。ロランのおかげでアドリアンナの生活はますます整えられていき、どこから調達したのか、衝立と浴槽まで運び込まれたのだから、信頼には十分すぎるほど報いていると思えた。
アドリアンナがここで暮らしていることは、驚くことに未だに誰にも知られておらず、ロランが度々この研究室を訪れるのはノアとの親交が始まったためだと周囲は考えているようであった。
意外なことに、時折ギュスターが訪ねてくるようになった。
いや、時折というのは語弊がある。頻繁に、と言った方がいいかもしれない。三日と開けずに彼はやってきて、ロランを呆れさせていた。彼なりに、一度関わりがあった相手を心配しているのだろうと、アドリアンナは納得していた。責任感の強い彼らしいとそう思った。
以前より遥かに口数は少ないながらもアドリアンナとも話し、二人の間には交流が復活していた。かつてのような親密さはないものの、彼がアドリアンナを見つめるその瞳には親愛が込められていた。だがそのことに、当のアドリアンナだけが気づかなかった。そんなもの今の彼女には必要なかったからだ。
アドリアンナに必要なものは、たった一つ。瘴気の研究だけだった。
ノアとの研究の日々で、立てた仮説は急速に立証されていく。確信が得られたのは、研究所にやってきてわずか二週間後のことだった。
狭い部屋の中央に、長机が埋まってしまいそうなほど巨大な水槽がある。
だが水は無い。代わりに水槽の中には、崖に見立てた土が盛られ、崖上では不可思議な形の道具から黒紫色の霧が発生していた。
霧を発生させているのは、ツボの中の水に音波を当てる魔道具で、その水には伝導石が溶け込んでいる。魔道具は霧を発生させ、伝導石を含んだ霧は重みで下へと渦を巻きながらゆっくりと落ちていった。
水槽の下方には実験用に育てられた生きた虫が入っている。霧は虫を包み込み、水槽いっぱいを黒紫色で包むと中を全て隠してしまった。
水槽は四方を完全に密閉されていたが、一箇所だけ、魔道具に水を差し込むことができるように小さな穴が空いていた。
第一の霧の発生から十分に時間を空けてから、ノアはその小さな穴を塞ぐ扉を開き、魔道具に別の水を放り込んだ。光属性の魔力を含む伝導石を溶かした水であった。
やはり同じように黒紫色に広がった後に、ノアは水槽の蓋を空けた。部屋中に霧が散乱した後、消え去る。
アドリアンナは息を呑んだ。水槽の中にいたはずの虫は、もうどこにもいなかった。
アドリアンナは長い息を吐く。
「室長が生きていらして安心しました」
ふん、とノアは鼻を鳴らした。
「魔法陣でかき集めた魔力じゃ虫を殺すのがせいぜいだと言っただろう」
瘴気に耐性のあるアドリアンナはともかく、耐性があるかどうか分からない――おそらくはないノアが生身で実験に及ぶ姿は狂人そのもののように思える。実験前にアドリアンナは彼を何度も止めたが、理論が合っていれば死ぬはずがないと彼は頑として譲らなかった。
「魔力は高きから低きへ流れる。魔力を含んだこの霧も同じだ。今までに瘴気が発生した土地はいずれも高地が側にあったから、そこから流したのだろう」
独り言のようにノアが言う。
「なんとも単純な話だな。闇の魔術によって作り出した毒を、伝導石の霧に乗せ周囲に拡散した。十分に瘴気が行き届いた後に、真逆の性質を持つ光の魔力を同量散布し、瘴気を消した――」
それが、人々を虐殺した瘴気の正体だ。
「それでは、わたしが瘴気に飲まれても無事だったのは」
「君が光か闇の魔力の要素を持っているからだろう。そう考えれば、一定割合で瘴気に耐性がある人間がいるのも納得できる。闇の魔力で作り出した毒は、光の魔力を持つ者の体では打ち消され、闇の魔力を持つ者には効果がないんだ」
ああ、そうなのか。とアドリアンナは思った。じゃあ、偶然だったんだ。とそう思った。
それは小さな感情であったが、アドリアンナの心に確かにヒビを生じさせた。自分でも気づかないような僅かなヒビを。
天命などではなかったのだ。運命などではなかったのだ。母が死に、自分が生き残ったことに、さしたる意味は無かったのだ。
「問題は、これを広く公表するかどうかだ」
アドリアンナの様子になど気づくはずのないノアがそう言う。
「私の前任者は死んでいる。恐ろしいことに私が彼の研究を引き継いだ時、この部屋は文字通り空っぽだった。記録はおろか、彼が読んだであろう本さえもひとつも残されてはいなかったんだ」
「誰かが処分してしまったというのですか?」
「ああ、彼ごとな」
冷ややかにノアが言う。
「君は盲目的に真実を追求した。それが予期しない場所へ落ちた。瘴気が人為的に引き起こされたのであれば、意図して誰かが大量殺戮をやっているということだ。その誰かが前任者を殺した」
「だ、誰かって――」
ノアは好奇に駆られた少年のような物珍しげな眼差しでアドリアンナを見た。
何もかも見透かされているような瞳だ。アドリアンナが胸の内に秘めた感情まで見つめているかのようだった。
「分からないふりをするのはよせ。瘴気事故により敵を葬り去り、利益を得てますますのし上がった連中がいる。賢い君なら分かっているはずだ。
瘴気の発生から聖女の出現まで、全てグラン家の自作自演であるということが」




