酷い人だと思う
瞼の裏に光を感じた。自分の皮膚が赤く透き通って見える。もう少し眠っていたい。だってひどく疲れているから。
だがアドリアンナは目を開いた。随分と長く眠ってしまったように思い焦る。小鳥のことを考えたのだ。
(あの子に餌をやらなくちゃ。どれくらい寝ていたのかしら。きっとお腹をすかせてしまっているわ)
食事の準備だってしたいし、フェルナンが城に戻る前に庭に咲いた花を摘んで飾っておきたい。彼がどんな反応をするのか、今から楽しみ――。
そう思っていたのに、目の前にあるひどく心配そうな顔はフェルナンのものではなかった。実に久しぶりに見る顔で、それが誰であるのかを思い出すのに時間がかかる。それが友人であり、かつての婚約者の弟のロランのものであると気づいたのは、彼の顔をしばし見つめた後だった。
「ロラン様……? どうしてここに?」
ロランは小さく微笑んだ。
「君が目覚めるのを待っていたんだ」
アドリアンナは自分がいる場所が城でないことにようやく気づく。周囲には本が散らばり、窓から差す日の光が室内の埃を照らし出していた。随分と散らかっている部屋だ、と思った。
周りの状況を客員しながら、ぼんやりと記憶が蘇ってきた。
(そうだわ、お城にギュスター様が尋ねていらして……それで、それで――)
曖昧だった思考が途端に明瞭になる。ギュスターがフェルナンに攻撃しようとしていた。その後のことが思い出せない。
アドリアンナは体を起こしロランの両手にしがみついた。
「フェルナン様は!? あの方はご無事ですか!」
「大丈夫。彼は無事だ、それに兄も。無事じゃなかったのは君だけだよ」
はっとしてアドリアンナは自分の腹を見たが、服の上からでは傷など分からない上に痛みも無かった。
ロランはぎこちなく微笑んだ。
「兄は憔悴していた様子だった。君を攻撃してしまったのだと言っていた。だが傷はもうない。傷跡さえないそうだよ。フェルナンが治療してしまった。
君は兄によって僕の家に連れてこられた。始めは僕の家で休ませようと思ったが、あいにく狭い部屋でね。フェルナンからの手紙もあったから、君をここに連れてきた。それで君が目覚めるまで僕が側にいることになって。……それから彼も」
手早くそう説明すると、ロランは部屋の隅に目を向けた。アドリアンナはこの散らかった部屋の中に、もう一人の人間がいることに気がついた。
積み上げられた本の中に埋もれるようにして座っている三十代くらいの男。
話題が自分に向いたことに気がついたのか、彼は手に持っていた本から視線を上げ、気だるそうに言った。
「私はノア・ルターヴ。この部屋の責任者だ」
聞いたことのあるような名に思えた。だがその顔に見覚えはない。
「あの……ここはどこなんですか?」
アドリアンナの問いにノアは神経質そうに眉を顰めた。
「王立研究所の私の研究室だ」
王立研究所? ここが?
確かにここにある本は全て特定分野の専門書だ。魔力を閉じ込める魔道具や、分離させるための器具も揃っている。アドリアンナが改めて部屋の中を見渡していると、ノアがまた言った。
「フェルナン・グリフォンが君との結婚を解消したいと教会に申し出て、君たちの間に婚姻関係はそもそもなかったということが認められ、私が証人になり受理された。故に君が城に帰る理由もない」
アドリアンナは目を丸くした。何が起こっているのか分からない。ロランも困ったような表情を浮かべている。
ノアだけが平然と立ち上がって背伸びをした。
「君はこの部屋に泊まるといい。行く宛がないのだろう? 私は君を助手として雇うことに決めた」
思考が徐々に鮮明になる。記憶もはっきりとしてきた。アドリアンナは目の前の男をまじまじと見て、気付いた。
「あれ、お待ちになって。ノア・ルターヴ様とおっしゃいました? 瘴気研究者のルターヴ博士ですか?」
まさか、と問うた言葉に、ああ、と彼は頷いた。賢そうな瞳が前髪の隙間からアドリアンナを見つめ返している。まるでこちらがどう反応するかを冷静に判断しようとしているようだった。
(本当? これは夢じゃないの?)
自分の頬をひっぱたいてみるが、痛いだけで目は覚めない。代わりにロランがぎょっとしたようにアドリアンナを見ただけだ。
戸惑いがあった。どのように反応してよいのか分からなかった。
だが正直言うと、とても嬉しかった。ずっとこの場所に来たかったからだ。夢見た場所で、夢のような話をされた。ノア・ルターヴはアドリアンナを雇うと言ったのだ。
「ほ、本当に? わたしをここで働かせてくださるんですか?」
ノアが確かに頷くのを見て、アドリアンナは飛び上がらんばかりに喜んだ。笑顔を隠しきれない。
「ありがとうございます! なんとお礼を言ったらいいのか……。貴方はとてもお優しい方です。こんなわたしに慈悲をくださるなんて」
アドリアンナの喜びを振り払うかのようにノアは顔の前で手を降った。
「この世の全ての哀れなる者に慈悲をくれて回っているわけじゃない。アドリアンナ・オルエンヌの書いた論文は非常に面白いものだったから、それを実証するにはここにいてもらった方がよいと判断したまでさ」
まだ混乱していたし、戸惑っていた。状況の全てを理解しているわけではない。ただこの状況を、フェルナンがくれたことには気づいていた。
喜びの後に、胸が疼いた。偽りの結婚生活がいつかは終わるということは知っていたが、それは二人で決めて終わらせるものだと思っていた。なぜなら二人は暮らしのことをいつも相談しあって決めていたから。だから終わりもそうだと思っていた。それなのに。
(貴方の幸せを祈る言葉の一つも、許してはくださらないなんて。酷いわ――)
そこまで考えて、自分の思考に驚いた。いつの間に、他人を責める感情なんて持つようになってしまったのだろう。かつての自分では考えもしないことだ。
アドリアンナは胸の前で両手を組んだ。それでもなお、彼を酷い人だと思う。
もう二度と会えないかもしれないのに、こんな突然、こんな性急に終わりが訪れるなんて思いもよらなかった。絆が生まれていたと思っていた。だがそうではなかったらしい。
あの城の中で、案外寂しがり屋な彼が孤独に過ごしていやしないか――そればかりが気がかりだった。




