とても大切な人だから
ギフォードは目の前の光景が信じられずに動くことができなかった。自分の放った魔術によりアドリアンナが負傷した。攻撃は彼女の腹部に当たり、真っ赤な血がとめどなく溢れていく。流れた血は地面に落ち、土を濃く染めていった。
フェルナンは早かった。彼女の体を受け止めるとギフォードなどには目もくれず、即座にその傷の手当を始める。深い傷を塞ぎ血を止め、首元の脈を測り呼吸の音を聞いていた。
そう言えば、フェルナンが軍に所属しており、階級はなんらかの将校だった、ということをギフォードは思い出した。どうりで手際がいいはずだ。戦場で負傷者の手当もしたことがあるのかもしれない。尤も彼は特命を受けて動くという噂だから、従軍というしみったれたことはしていないのだろうが――。こんな時に思うことではないが、頭が痺れてそんなことしか考えられなかった。
アドリアンナの胸は微かに上下している。生きてはいる。そう思った瞬間、ギフォードはその場にへたり込んだ。良かった、自分は彼女を殺してはいなかったのだ。
深く息を漏らした瞬間、ようやくフェルナンはギフォードを見た。凍てつくような鋭い眼光だった。
「なぜ貴様がここにいるのかその説明をしてもらうのは後だ。賊ではないというのなら、彼女の手当を手伝え」
言うやいなや、アドリアンナを抱きかかえたままフェルナンは姿を消した。城の一室が光ったように感じたため、そこに移動したのだろう。部屋まで来い、ということだろう。
アドリアンナをフェルナンから救い出すと息巻いていた心は冷め、魔術にかけられたようにギフォードはふらふらとその部屋を目指した。
城の周囲には黒紫色の霧が立ち込める。この地にいると頭がおかしくなりそうだ。この地で頭がおかしくならないこの二人の方が、むしろおかしいのだ。
部屋へ到着すると、アドリアンナは寝間着に着替えさせられており、ベッドの上に横たわっていた。腹に目を遣るが布の上からでは傷も分からない。青白い顔をした彼女は目を閉じ意識が無かったが、呼吸は確認できた。
その傍らの椅子にフェルナンが座り、彼女の手首に指を添え脈を見ていた。目線を彼女に向けたまま、フェルナンはギフォードに話しかけてきた。
「傷は治った。傷跡も残らないだろう。血を大量に失ったが命の危機はひとまずない。目覚めてもしばらく安静にしていなくてはならないだろうがな」
ギフォードは少なからず驚いた。
「深い傷だった。あれを……」
あの短時間で治したのか。
ギフォードの困惑にフェルナンも気づいたらしく冷ややかに言った。
「君だってできたんじゃないのか。半日もかからず王都からこの地にやってきたほどの魔術の腕前があるようだから」
「いや俺はただ」
ただフェルナンが作っていた移動魔術の道筋を辿ってきただけだった。フェルナンはすぐに戻るつもりだったのだろう、移動魔術の道筋は隠されておらず探ればすぐに発見できた。それがなければこんなに早くこの地に来れるはずがない。魔術師としての力量は比べるまでもなく彼が高い。
もしフェルナンと交戦していたら、自分の命は無かっただろう。アドリアンナに救われたのはむしろギフォードの方だったようだ。
フェルナンがアドリアンナの額に手をやると、死人のように蒼白だった彼女の顔色に血の気が戻ったように思えた。魔力は多い方から少ない方へと流れ落ちる性質があるから、彼は彼女に魔力を分け与えてやったのだろう。
「無礼を働いてすまなかったな」
唐突にフェルナンがそう言った。彼の目線はやはりアドリアンナに向けられていたが、言葉はこちらに投げられていた。
再びギフォードは驚いた。まさか謝られるとは思ってもみなかったからだ。
フェルナンの横顔からは感情が読み取れないが、少なくとも先程よりも遥かに冷静であるようだ。扉の前に突っ立ったまま、ギフォードは問いかけた。
「賊と言っていたが何があったんだ」
「城を目指す男たちがいた。俺はそいつらと交戦になった」
森で光が瞬いたのを思い出した。フェルナンはだからギフォードもその一味だと考え、アドリアンナを守ろうとしたのだろう。
「何者だ? 目的は」
「分からない。初めてのことで、俺も混乱している」
ギフォードはフェルナンの服に付いた返り血に気がついた。
「そいつらどうなった?」
フェルナンは淡々と答えた。
「一人だけ生かして捕えたが、どうやら失敗した時に死ぬように魔術をかけられていたらしい。話を聞き出す前に死んだ」
ギフォードはため息とともに首を横に振った。
「俺は無関係だ。賊とは関わりがない。そんな話を聞いて驚いたくらいだ」
フェルナンは横目でギフォードを見た。
「では何をしにここへ? 正直言うとまだ半分くらいは疑っている。君が連中の一味でないことをどう信じたらいい」
間違った受け答えをしたら、たちまちこの男はこちらを殺すだろうと確信するほどの圧を感じる。少しの間、考えてからギフォードは答えた。
「俺には一族に対する責任と誇りがあり、決して失うことのできない身分と地位がある。もし誰かを殺すなら、自ら手をくださずに人を雇う。ここへ来たのは――彼女の様子を見に来たんだ」
どうやらこの答えは正しかったらしい。フェルナンは、そうか、と言うと納得したように頷いた。それから彼はベッドの上におかれたアドリアンナの腕の袖をまくった。ギフォードが握りしめた手の跡が赤く残っている。
「この城からアドリアンナを連れ出そうとしていたのか」
気まずさにギフォードは思わず下を向いた。それがこの会話に対する敗北であると分かっていても、後ろめたさを覚えたからだ。フェルナンが留守の間にことを運ぶつもりであった。それを真正面から目撃された上に、連れ出そうとしていた彼女に怪我を負わせ、それを彼が治療した。
「ではむしろ助かったのかもな。君ともみ合いになって彼女の護符が破れたのだから。昔の婚約者じゃ、賊の襲撃とは比べようがないほどましだ」
フェルナンに怒りはないように見えた。むしろ深く思案しているように、目を閉じ、両手を口元に持っていっている。
考えていたよりも余程冷静な人物に思え、それがギフォードにとっては意外だった。再び目を開いたフェルナンは、今度はまっすぐにギフォードを見据えた。居心地が悪くなるほど美しい色の瞳だった。そうして彼は予期せぬことを言った。
「君はアドリアンナを救いに来たのだろう? ならここから連れ出してくれ。俺から救ってやるといい」
ギフォードは動揺を隠せない。彼の言うことが不可解だった。
「なぜそんなことを言う」
フェルナンの顔に自嘲が浮かぶ。
「彼女には未来がある。環境に恵まれなかっただけで、それさえあればきっと多くの人を救うのだろう。こんな場所にいてはだめだ。俺は彼女の枷にはなりたくない。このまま彼女をここに置いていたら――彼女の未来を潰してしまう。
俺はもう既に彼女を手放したくないと考え始めている。人一倍愛に飢えた男だから、彼女を独占したくなってしまう。俺の執着心は誰よりも強い。俺はそんな自分が恐ろしい。俺が望めば、彼女はきっと側にいてくれるだろう。哀れな者の縋る手を振り払うことのできない、そういう人だと思うから。
俺は今まで恐らく全ての選択肢を間違って生きてきた。一つくらい正しいことをしたい。彼女の人生を開いてやるのが、人として正しいことだと思う。奪われたものは取り返せないかもしれないが、これ以上なにも失って欲しくないんだ」
フェルナンはアドリアンナの髪を撫でた。
「彼女がとても大切だ。出会えたことが俺の誇りだ」
その仕草には疑いようがなく慈愛の念が込められる。まるでこの世で最も価値のある宝を愛でるかのような手つきだった。そのことにギフォードの心はざわめいた。自分だって、かつて彼女をそう思っていた。
「約束してくれ、決して彼女を生家には戻さないと。戻りたいと言っても戻してはいけない。王都に戻り真っ先に君が向かうのはロランのところだ。信頼する友人である彼に彼女を託したい」
「なぜ生家に戻してはいけない?」
アドリアンナは嫉妬に駆られジュリエッタを窓から突き落とした女だ。普通に考えたら問いかけるまでもない問いかけだったが問いかけずにはいられなかった。彼が何を考えそう言ったのか知りたかったのだ。
「折り合いが悪そうだから」
フェルナンは簡潔にそれだけ答えた。それだけではなさそうだったが、ギフォードにはそれ以上の追求をするのが躊躇われた。追求はすなわち、己の間違いを認めることになる。その覚悟ができていない。
代わりに別のことを尋ねる。
「なぜ君がそんなことを決める?」
フェルナンは肩をすくめた。
「別に決めてはないさ。最善だと思う希望を口にしているだけで。だが君を信頼しているから、俺の希望通りにしてくれるだろうとは考えている」
「なぜ」問うた声が掠れる。「なぜ俺を信頼できる」
「友人の兄だからだ」とフェルナンは即答する。「それに、俺のところまで彼女を救いにやってきた熱い男だと思うから。君には正義がある。だから信頼できる。君は人の信頼を裏切るような人間ではないだろう?」
計り知れない衝撃だった。この言葉は恐ろしいほど素直にギフォードの心に響いた。
力のある貴族の長男として生まれ、常に誇り高い生き方を選んできた。そんな自分の胸の内を、この辺境に暮らす男は見抜いたのだ。
さっきまで彼を悍ましい男だと思っていたのにも関わらず、そんなことは一切忘れ、思わず一歩近づいた。ギフォード自身、自分の揺れ動く心を制御できてはいなかった。少なくともこの瞬間は、フェルナンに共鳴していた。
「だがフェルナン、君はどうするんだ。この城に残るのか? 誰が賊を差し向けたのかも分からないんだろう? 危険ではないのか」
「俺にはやることがある。それは一人でないとできない。誰かを守りながらだと難しい」
揺るぎなく彼は答えた。「やること」とは何か聞きたかったが、尋ねる前にフェルナンが立ち上がった。
「もう大丈夫なようだ。体温も脈拍も正常。移動しても問題ない」
彼の視線はアドリアンナに向けられている。意識のない彼女には聞こえるはずがないのに彼は優しく微笑みこう言った。
「アドリアンナ、君といられて楽しかった。君は俺の恩人だ。俺の心を救ってくれた。今度は君が救われてほしい」
―― さようなら、どうか幸せに。と言うとフェルナンはアドリアンナの額に触れるような口づけを一つだけ落とした。彼女を見つめる彼の瞳に深い情が浮かんでいることにギフォードは気がついた。
ギフォードは奇妙な思いに駆られた。そわそわと落ち着かない。なんと絵になる二人なのだろう。美しく完璧だ。
息をするのも躊躇われるほど、この場で自分がまるで邪魔者のように思えた。この二人こそ神が結びつけた運命の恋人同士で、自分はその間に割って入る悪魔だ。ひと月にも満たないこの僅かな期間で、二人の間にいかなる日々が重ねられ、いかほどの絆が生じたというのだろう。
これが世間に疎まれた二人の姿か? まるで真逆のようだ。祝福の光さえ見えそうであった。
ふとフェルナンが、こちらを見ていることに気がついた。目が合うと彼は言った。
「さあ、名残惜しくなる前に行ってくれないか。俺は王の勅命を果たさねばならないんだ」
この呪われ公爵という人物は、世間で噂されているような男ではないとギフォードは確信した。噂が噂を呼び、虚実が積み上げられ、果てに亡霊のような呪われ公爵の姿が出来上がった。もしかすると彼自身も自分をそうだと思っていたのかもしれない。それをアドリアンナが解き放った。
実際のフェルナンはどこにでもいるありふれた単なる男だった。当たり前に感情があり、思考があり、血の通った肉体がある。
「世間で言われる呪われ公爵の噂はどこまで真実なんだ?」
「さあな。真実を言ったところで、皆、自分の信じたいものしか信じないだろう」
噂。噂……。アドリアンナも似たようなことを言っていた。
己は何を信じてきたのだろう。真実はどこにある。アドリアンナは何の罪もないジュリエッタを疎み、憎んで、果ては傷つけた。だからギフォードはジュリエッタを救い出したのだ。ジュリエッタも喜んでくれた。か弱い彼女に頼られるのは気分が良かった。彼女といると心が満たされた。だから彼女を愛した。そうして罪深いアドリアンナは罰を受けた。そこに間違いなどあっていいはずがない。いいはずがないが、自分が冷静さを忘れフェルナンに攻撃魔術を放ち、アドリアンナに傷を負わせたのは少なくともやっていいことではなかった。
ベッドの上のアドリアンナを改めて見た。
眠る彼女は一つの憂いもない無垢な少女のように見えた。ふいに昔の彼女の姿を思い出した。明るくて幸せに満たされていて、微笑みはまるで花のようだった。
そういえば、とギフォードは思った。一体いつから彼女の笑顔を見ていないのだろう。
「フェルナン。やることというのが終わったら、君も王都に来い。世間の誤解を解いてやる」
正義感に駆られギフォードはそう言ったが、フェルナンは是とも否とも答えずに小さく笑っただけだった。




