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何もかも君が教えてくれた

 まだこの地で戦があった時代に敵から街を防衛するために築かれた壁の中に旧市街地はあり、旧市街地中心部よりやや西方に大聖堂があった。夕日を受けた大聖堂は街に歪な影を落とし、聖女の“特別な祈り”の時間であると人払いされているため、中に市民の姿は無かった。

 建立の目的は古い時代の王の墓廟であったという。今は別の宗教が改築し聖堂としたが、今もなお地下には墓の跡が広がっていると聞いたことがある。


 フェルナンは広場にいる人々の目線を感じながら大聖堂の中へと入った。皆の目には「はてこいつは何者だろうか」という疑問が浮かぶ。特別な祈りの時間に聖堂に入れるほどなのだから、教会関係者か高位貴族であると判断したのだろう。彼等は好奇の視線を向けてきていた。

 

 フェルナンは祭壇の前に聖女オフィーリアの姿を見つけた。西日が窓ガラスから入り、彼女の純白の衣装を神々しく染め上げていた。柔らかく色素の薄い茶色の腰まで伸びる長い巻き毛が、彼女の後ろ姿を覆っている。あの髪に口づけをして何度も愛を囁いたのはもう遠い昔の記憶だ。

 この国の誰もが愛する麗しの聖女。だが彼女に自由はなく、常にグラン家の護衛が付いている。


 フェルナンの姿を見るなり護衛達は殺気を放った。だがそんなものは意にも介さず、フェルナンはオフィーリアだけを見つめていた。


 王都から呼び出しがあった際、このように褒美としてフェルナンとオフィーリアは遠目に会うことが許されていた。特別な祈りなど存在しない。二人が顔を合わせるためだけにルイスが気を利かせた方便だった。

 そういう日の護衛は平素よりも多く、大聖堂の最後列から前へ入ることも許可されておらず、会話を交わすことなど当然認められてはいなかったが、それでもフェルナンにとってはこの時間こそが生きる意味だった。だからこそ飼いならされていた。少なくとも、今日までは。

 

 何もかも、変わってしまったような気分だった。


 フェルナンは酩酊状態のようにふらふらと聖堂の奥へと進む。最後列を過ぎても止まらなかった。


「オフィーリア、君は知っていたのか。君は――」


 異変を感じた護衛達が鋭い眼光でフェルナンに近づく。

 オフィーリアも祈りを止め立ち上がり、フェルナンを振り返った。彼女自身が光り輝いているかのように美しい。数年で落ちぶれたフェルナンと反比例するように、彼女は日に日に美しさを増していくように思えた。


「君は……」


 尋常ならざるフェルナンの様子に対しても、オフィーリアはただ微笑んだ。まるで全ての罪を包み込む慈悲深い天使のように。

 この笑みを見ることができれば過去のフェルナンは何もかも忘れることができた。だが今日だけはそうはならなかった。


 確かめなくてはならない。彼女が虚像ではないということを。フェルナンが愛し引き離された彼女が、愛する理由も引き離された意味もあったのだと、確かめなくてはならないのだ。


 瘴気を人為的に発することができるのなら、一体聖女とはなんなのだ――?

 

「フェルナン・グリフォン! 下がれ!」


 護衛達がフェルナンに怒鳴り、攻撃魔法を放った。だがそれをフェルナンは振り払う。と、胸がにわかに熱くなった。

 一瞬、護衛達が放った魔術による攻撃が当たったのかと思った。だがそうではない。

 

 護符だった。

 アドリアンナに渡していた護符が破られたのだ。


 彼女に危険が迫っているのかもしれない、そう思った時、オフィーリアに向いていたフェルナンの思考は吹き飛び、背筋が凍りついた。


(彼女の元へと向かわなくては……!)

 

 今すぐに。


 突然動きが止まったフェルナンに対して、護衛達も動きを止めた。その中でただ一人、オフィーリアだけが微笑んだままだった。


「わたくしは今もなお、貴方を愛しています」


 鈴を転がしたような華麗な声。瞳は薄い緑色で、春の若草を思い起こさせる。

 フェルナンはその瞳を直視できなかった。

 彼女の言葉には答えないまま、大聖堂から姿を消した。



 ◇◆◇



 フェルナンが移動魔術により姿を消すのを見て、オフィーリアは小さく息を吐いた。呼吸は空気を震わせて、聖堂の天井へと消えていく。


 フェルナンはあの頃と変わらない。迷子のような縋る瞳でオフィーリアを見つめる。ならばそれを教え、導くのは当然のことだ。


 彼がどこに行ったのかは見当が付いた。

 オフィーリアはグラン家当主にとりわけ気に入られていて、ほとんど全ての情報を把握できている。

 グラン家当主はオルエンヌ家の当主ヴァレリオに命じた。だからヴァレリオからアドリアンナ殺害を依頼された暗殺者達が今、辺境の地にいるはずだ。


 欲望のためなら血を分けた娘さえも殺すという人間がいることをオフィーリアはおぞましく思う。だが一方で理解はできた。

 一度抱いた欲望を止められる人間がどれほどいるのだろうか。望みのものを手に入れるためならば、人はなんだってするのだ。


 フェルナンも今は彼女のもとへ向かえばいい。彼女はこんなところで死んではならない人なのだから。

 オフィーリアがアドリアンナをその場所へと送り込んだ。その目的を誰にも悟られてはならない。


 大切なことは、彼が間違えずに愛へとたどり着くことだ。


 愛があれば大丈夫。愛さえあれば。


 オフィーリアは胸の前で小さく手を握った。

 望むことは、彼と共に生きていくことだ。なんの憂いもなく幸せに生きていくことだ。


「皆さん、『特別な祈り』の時間は終わりました。扉を解放していただいて構いません。わたくしはもう少しだけ祈りを捧げてから戻ります」


 そう護衛達に告げると再び祭壇に向き直り跪いた。


 オフィーリアは祈りを続けた。

 祈るのは瘴気が出現しないように、ではない。

 瘴気が人々を殺さないように、でもない。


 ただフェルナンが、オフィーリアの出した問題を正しく解き明かすことだけを祈り続けた。


 

 ◇◆◇



 アドリアンナが異変を感じたのは夕刻のことだった。


 その日は約束通りに森へは行かずに、雛の世話をしつつもそわそわと城を歩き回っていた。考えれば考えるほどに不安が膨らむ。


「あの手紙はきちんと研究所に届いたのかしら? いいえ、公爵様を疑っているわけじゃないの。あの方ならしっかり手紙を届けてくださるわ。だけど――」


 あんな風なことを書いてしまって大丈夫だったのかしら?

 もし読んでもらえなかったら? 馬鹿なことを書いたと破られてしまったら? だけどもし、きちんと読まれていたら――?


 アドリアンナの言葉に返事をするように雛が鳴き、幾分か気分は良くなった。


「そうね、考えても仕方ないわ。もし今がどん底だったとするなら上がっていくだけだもの。それにどん底ではないわ」


 付け足した言葉は自分を勇気づけてくれるようだった。今はどん底ではない。暮らしは安定しているし、アドリアンナの言葉を真摯に受け止めてくれる同居人もいる。生家にいた時よりも遥かに強く自分自身を感じていた。

 遥か昔、母が生きていた頃の自分の姿をもう随分と長い間思い出せなかったが、今の自分の心はその頃に近づいているかのように晴れていた。


「わたし、このところなんだか少しだけ楽しいの。本当よ。ここでずっと、あの方と平和に生きていけたら、それはそれでいいのかもしれないって、そんな風に思うの」


 雛の背を撫でると、心地よさそうに目を閉じた。瞬間、アドリアンナは立ち止まった。戦慄した。

 

(――わたし、今、なにを思っていたの? 幸せだって思ったの?)


 なんて烏滸がましい。脳裏にヴァロンの惨劇が蘇る。血の匂い。泣き叫ぶ人々。目の前で死んでいく、さっきまで笑っていた皆。母は無惨に死んだ。周囲には死体の山があった。親が先に死に、泣いている幼い子さえも瘴気に飲まれて血を吹き出して死んだ。

 アドリアンナだけが生き残った。傷一つない状態で。

 自分だけが生き残った。無能な自分だけが。

 なぜ生きているのか? この世に神がいる以上、生き残った意味はあるはずだ。それを必死に探してきた。

 生家での扱いはある意味当然のことだった。神がアドリアンナにそういう人生を与えたのだ。生き残った罰として。幸せを感じてはいけない。命の意味さえまだ分からないのに、のうのうと幸せを噛みしめるなんて。


 絶え間ない自己否定がアドリアンナの心を覆い、手が震え、雛を持っていた籠を廊下に置いた。立っていられずうずくまった。


「ごめんなさい、お母様、お母さま――」


 人の気配のない城に、アドリアンナの嗚咽ばかりが響き渡る。

 時折こうしてまるで今もなおその場にいるかのようにヴァロンの光景が蘇っていた。それは母が、決して忘れるなと言っているようにアドリアンナには感じられた。自分が生き残った意味を見つけなくては。命を尽くして生きなくては。意味があるはずだ。そうでないのなら、母は一体なんのために無駄死にをしたのだというのだ。


 アドリアンナの思考が彼方より此岸に戻ったのは扉が叩かれる音がしたからだ。けたたましく、乱雑な音。人がいる。

 籠の中の雛が異変を感じて力強く何度も鳴いた。やがて男の大声がした。


「誰かいるのか! この家の者に用がある!」


 扉を通しての声はくぐもって聞き取りにくさはあるものの、性急さが伝わってくる。


(公爵様のお客様かしら? あまり人が尋ねてこないようなことを以前おっしゃっていたけれど……)


「少し待っていてね」


 アドリアンナは雛にそう声をかけると、フェルナンからもらった護符を握りしめ扉の前へと進んで行った。


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