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だからわたしも貴方を幸せにして差し上げたいと思うのです

 アドリアンナはますます瘴気の研究にのめり込んでいった。自分でも止めることができなかった。


 伝導石は魔力を伝える魔導石の一種だ。あらゆる魔道具に利用されている一般的なものである。色は紫色が多い。柔らかく加工しやすいが、故に脆い。

 沼で採取した水はガラス瓶に入れ持ち帰った。少量だけ見るとほとんど透明だ。だがこれが集合体になると紫色に変化した。沼の水には伝導石が溶け出しているのだ。


(伝導石が溶け出した沼の水が霧となりこの地を覆っている。それだけであれば無害なんだわ。だけど、わたしがたどり着くことができたんだもの、誰かが調べていてもおかしくないのに。本当に誰も気づかなかったのかしら)


 このことを王立研究所に伝えなくてはならない。

 そう思い、アドリアンナは長い手紙を書き始めた。順序立てて正確に筆を走らせる必要があった。



 沼の発見から数日経ったある日、図書室で手紙を書くアドリアンナをフェルナンが訪ねてきた。開きっぱなしの扉の脇に立ち、律儀にノックの音を立てる。

 机に向き合っていたアドリアンナが顔を上げるとフェルナンは微かに頷いた。


「数日の間、留守にしなくてはならないかもしれない。王都から呼び出しがあってな」


 小さな寂しさが胸の中を駆け巡り、そうして去った。


「分かりました。行ってらっしゃいませ」とだけアドリアンナは立ち上がりながら答える。


「きっといつものだろう。戦場に行けと言うつもりだ。今は東方の都市を攻略中だから、その先の敵国の補給廠を叩けとでも言うつもりかな」


 言いながらフェルナンはアドリアンナの横まで来た。手紙を一瞥してから、アドリアンナの顔に視線を落とす。アドリアンナも背の低い方ではないが、それでも彼と並ぶと見上げる形になる。

 そうして思いがけないことを言った。


「君も一緒に行くか。――戦場じゃないぞ、王都の方だ」


 困惑は顔に出ていただろう。アドリアンナが目を瞬かせていると、フェルナンが誤魔化すように笑った。


「ここに一人で残しておくのは心配だ。君はそう……突拍子もないことをするから。森で野生動物に襲われたり、沼に落ちて溺れたりしないか心配だ」


「そんなこと――」しない、と言いたかったが、前例があることに思い至り先を言えなくなってしまった。


 フェルナンは大真面目な顔をする。


「一人での外出は禁止だ。その雛と一緒だという言い訳はしないでくれ。約束してくれ、どこにも行かずに、俺の帰りを待っていると」


 本音を言うと実験場には行きたかったが、数日は我慢した方が良さそうだ。アドリアンナは頷いた。


「お約束します」


 断言すると、フェルナンは安心したように表情を崩す。


「それから最初に君に言ったことだが――」


 と言いかけ、しかし首を横に振った。


「いや、なんでもない。帰ったら話すよ。ああ、それからもし手紙を書き上げたのなら、俺が届けに行こう」


「本当ですか!?」


 アドリアンナは目を輝かせて彼に一歩近づいた。ここ数日彼女が熱心に書き続けた手紙がどこ宛てのどのような類のものかは彼も承知しているのだ。

 アドリアンナはフェルナンを信用していたし、手紙を託す相手としてはこれ以上ないほどの人だ。

 喜ぶアドリアンナを見て、なぜだかフェルナンも嬉しそうに笑う。その後で今度はこう言った。


「王都に行く前に君に頼みがあるんだ――俺の髪を切ってくれないか。人に会うかもしれないから。髭は自分でも剃れたが髪はどうにも見えなくて」


 しばしアドリアンナは彼の顔を見つめて立ち尽くしてしまった。

 貴族の誰もが誇りに思うその金色の髪を切ってしまうなんて! ジュリエッタの髪を見て何度羨ましいと思ったことだろう。今だって密かにフェルナンの髪を見てはなんて美しいのだろうと思っているのに。


 固まったアドリアンナに対し、当然そんな思いを知らないフェルナンは不思議そうな顔をする。


「もし君が俺の髪を気に入っているのなら、切らなくても――」


 気を使わせてしまったわ! と焦りを感じた。

 彼は人に会うと言ったが、それが誰なのかアドリアンナは気がついた。


(オフィーリア様にお会いするんだわ)


 実際に会うのかは分からないが、遠くから彼女の姿を見るのかもしれない。その時に髪が無造作に――アドリアンナは無造作とは思わなかったが、少なくとも実験のためまばらに切られていた――伸びた状態で彼女の前に姿を晒したくないのだろう。そのような繊細な恋心はアドリアンナにも理解はできた。


 アドリアンナは聖女に会ったことはないが、フェルナンの口から彼女の話を聞くたびに、以前にも増して好感と憧れを抱くようになっていた。彼が語るオフィーリアは美しく聡明で心優しく、人が模範とする姿そのものであったからだ。


 それに彼に頼られるのは嬉しかった。役に立つことができる。だからアドリアンナは慌てて言った。


「い、いいえ! 切ります! それはもう、とても丁寧にバサリとお切りいたします!」


 そうか――と、言うフェルナンは、なぜだか心なしか残念そうに見えた。




 空いた部屋に鏡台があり、そこの前にフェルナンは座った。その背後に鋏を持ったアドリアンナが立ち、ゆっくりとその髪に刃を入れた。ちょきん、と切ると彼の髪だったものがばさりと床に落ちる。絹のようだ、とアドリアンナは思った。


 人の髪を切るのは初めてではない。手先が器用なアドリアンナは生家の使用人の髪を着ることもあった。床屋と違い金のかからないアドリアンナは時折頼まれ、評判は上々だった。


 昔はよく、許婚だったギフォードの髪も整えた。当然彼は金を持っていたので節約のためにアドリアンナに頼んだわけではなく、単に恋人同士の馴れ合いの一環だった。

 長さを揃える程度のことだったが、彼はとても喜んでくれた。


 ちょきん、とまたフェルナンの髪を切りながら、アドリアンナは思い返していた。


 ギフォードも髪を伸ばしていた。彼の髪は赤く、燃えるかがり火を思い起こさせた。幼いアドリアンナは彼の温かな赤毛が屋敷の窓から見えると嬉しくなって駆け出した。彼の髪に顔を埋めながら、愛の言葉を聞くのが好きだった。

 彼はアドリアンナを好きだと言って、何度もキスをしてくれた。だがあの優しさが向くことは二度とない。

 彼はジュリエッタを愛していると告げ、アドリアンナのもとを去った。彼が最後に向けた疑念の込もった瞳を、忘れることができない。


 ちょきん、とまた髪を切った。彼の金髪に、赤髪を重ねて想像してみる。


「他の男のことを考えているな」


 フェルナンの言葉に我に返った。

 驚いて前を見ると、鏡越しに目が合った。鋭い眼光がアドリアンナを射抜く。息が詰まりそうになる。呼吸がままならないような気がした。気づかれただろうか。彼にまた、自分の弱さを?


「誰が君にそんな目をさせる? 羨ましいな」


 アドリアンナは目を見開いた。驚愕に打ち震える無様な女が鏡の中に映っている。

 言葉が出ない。なんと答えていいのかも分からない。

 フェルナンは静かに言った。

 

「冗談さ」


「あ……冗談」


 高まった緊張は一気にほぐれ、アドリアンナは泣き笑いのような顔になる。

 気まずい沈黙が流れる。戯れに上手く反応できない自分の愚鈍さが嫌になる。フェルナンは目を伏せ小さく笑った。

 

 またその顔だ、とアドリアンナは思った。

 フェルナンはよくアドリアンナを見てこういう顔をした。同情めいた、淋しげな、憐れむような、観察するような、冷徹めいた、呆れたような――そんな表情を。

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