一緒にいると、どんどん本当のわたしに戻っていくようでした
アドリアンナは今朝も瘴気の様子を記録した。今日の瘴気は霧とともに濃度が濃い。黒紫のヴェールのような霧が城全体を包み込み、世界を一層暗くしていた。
場所は図書室だ。城の最上階にあるこの部屋からは、森の様子がよく見えた。窓辺に椅子を置いて外を観察した後に、瘴気の状況を毎日書き溜めた手帳をパラパラとめくり一人で呟く。
「どう考えても、霧と連動しているわ」
晴れた日には瘴気は薄れ、曇の日には量が多い。十数日過ごしたが、それは確かだった。
日を重ねるごとに、瘴気の研究も進んでいた。アドリアンナは切った自分の髪に触れてみる。始めに実験場を作った日以来、数度髪を切り、時には爪も切り、瘴気がある空間に入れた。結果、髪であれ、爪であれ、いずれの場合も瘴気は濃くなった。置く量が多ければ多いほど増える。ときには髪の一束を実験場の一つに入れ、数時間そのまま観察した。小さな生物に食われるように髪は徐々に消えていき、代わりに瘴気は濃くなった。
アドリアンナは手帳の走り書きを見た。
――瘴気は生物を食べる? ではなぜわたしたちは無事なのか?
そう記された下に書き足した。
“この地の瘴気は生きている者は喰らわない。死んだ肉体のみ喰らう”
アドリアンナに耐性があるから瘴気が効かないのではない。でなければ髪や爪が無くなることの説明ができない。
この森では鹿ほど大きな生物も一晩で遺体が消え去るとフェルナンは言っていた。それが瘴気によるものではないのだろうかとアドリアンナは考えた。
(人々を襲う瘴気の特徴と、遺体を喰らうこの地の瘴気。似ているようでやはり違うわ)
瘴気について思考している間は、たとえ生家で義母から虐待されている時でさえ、アドリアンナはまともでいられた。この時間だけはかつての自分に戻るような気がしていた。
(フェルナン様の髪を置いた時の方が瘴気は増えた)
今はフェルナンが代わりに自分の髪を切り提供していた。あの美しい髪を切ってくれと言われた時、アドリアンナは大層残念に思いかなり渋ったが、フェルナンは少しも気にしていないようだった。
「君のその髪の方が勿体ないだろう。俺はポリシーがあって伸ばしていたわけじゃないからな」
などと言い、自ら髪の束を切ってみせた。そうしてフェルナンの髪を置いた時の方が、瘴気は増えていた。
(やっぱり魔力の含有量によって増え方が違うんだわ)
必要なことを書き足し、頁をめくりながらアドリアンナは考えをまとめる。
――この土地はなぜ無事なのか?
ある頁はにそう書かれていた。毒性の有無、と素早くその下に書き足して、ぶつぶつと言い始めた。ここにはアドリアンナと籠の中の雛しかいない。だから不気味な独り言を気にする必要もなかった。
「ここの瘴気は毒性が薄い。だから瘴気とは言えないのかもしれない。瘴気とよく似た成分を含んだ物質……瘴気との違いは毒性の濃淡……。瘴気は死体を喰らうことによって増殖する。魔力の量によって増加率が異なる……なぜ? ここの動植物には魔力を帯びたものが多い。土地柄なのか……。耐性のある肉体とない肉体の違いは――」
“瘴気の性質はなぜ異なるのか”
そう書いて、途端に頭がくらくらとした。
「人々を襲う瘴気の霧があれほど毒性を帯びているのは、やっぱり……」
瘴気の事故で十万人死んだと言われている。事故に遭遇した者で生き残ったのは五人。彼らは耐性があるということだ。
アドリアンナは傍らに置いていた本を開いた。この図書室にあったもので、魔法と魔力について詳細に書かれた古い本だ。紙は茶色に変色していたものの、内容は読める。何度も読んだ箇所に再び目を通した。「魔力と主要素」の章である。
“万物には魔力が通い、その者が主に持つ性質はその者によって異なる。魔力には主に次の要素が含まれる。光、闇、炎、水、土、草。これらのうち、どの要素がその者に多く通っているかによって、その者が得意とする魔法が決まる”
誰もが常識として知っていることではあった。これは魔法が使える者が読むことを前提としていて、当然どの要素を持つ魔法使いなのか読者は承知の上で読む。魔法を使えない者にもその要素はあると言われているが、アドリアンナがどの要素を持つ者なのかは知る由もないことだった。
(光と闇の魔力を持つ人はとても希少なのよね。だから重宝されるんだわ)
読みながら、ぼんやりとそんなことを思った。
アドリアンナは窓の外に目を向ける。瘴気の霧は依然として外界を染めていた。
(霧の発生源を確かめなくてはならないわ)
そう思ったら、居ても立っても居られなかった。
「公爵様、あの」
とアドリアンナが声をかけたのは朝食の席でのことだった。しばらく前から二人は朝食を一緒に取るようになっていた。その時のことだった。
フェルナンは即座に反応する。
「なんだ? どうした。何か困ったことがあったのか?」
「いえ、その」
「足りないものがあるか? 欲しいものができたか? 俺の態度が気に食わないか?」
「いいえ、そうじゃなくって」
「腹が減ったのか? 服が汚れた? それとも――」
「ち、違います!」
終わらない質問に、思わず大きな声を出してしまった。
「そうじゃなくて、この近くに湖はありますか?」
突然の質問に、フェルナンは虚を突かれたかのように固まった後に答えた。
「湖? 湖……はないが、沼の群生地のような場所はある。ここから南西の方角だ」
そうか沼か、とアドリアンナは思った。他の場所に比べこの領地は高地にあるため気温が低く、そこに沼から発生した水蒸気が加わり霧を作り出しているのだ。問題はそこにいつどのように瘴気が加わっているかということである。
確かめてみないことには分からない。
「南西ですね――。分かりました、少し行ってきます」
アドリアンナの迷いのない言葉に、え、とフェルナンは目を剥いた。
「待て待て! 君はどうして瘴気のことになると向こう見ずになるんだ! この地は魔生物が多く危険なんだ。俺抜きで行くつもりなのか?」
「一緒に来てくださるのですか?」
驚くアドリアンナに、フェルナンは首を何度も縦に振った。
「あ、当たり前だろう!」
それから頭を抱える。それほど悩ましいことなら付いてくる必要はなかったが、アドリアンナが言葉を発する前にフェルナンが言った。
「行くなら半日は覚悟しておいた方がいい。今日行くのか?」
瘴気が濃い今日の方がよい気がした。頷くと、フェルナンは無言のまま眉を下げ、アドリアンナを見て小さく笑った。彼の内心は、アドリアンナには分からなかった。
◇
視界の悪い霧の中を、フェルナンは迷わず進んでいく。確かにこの道中をアドリアンナ一人で進むのは難しかっただろう。彼の隣を行きながら、アドリアンナは気づかれないように安堵のため息を漏らした。
彼といると狼や他の生物が襲ってくるということもない。野生動物は勘が鋭い。彼には勝てないとそう思っているらしかった。
二時間ほど歩いた頃だろうか、やがて霧はにわかに濃くなり、その手前でフェルナンは足を止めた。
「着いたよ」
と言いながら彼は手に持っていたランプをかざす。朧気な光に照らされた目の前には城の敷地よりも巨大な沼が広がっていた。そうしてやはり、沼の色も紫色に濁っていた。
「この先は湿地帯で、足を踏み外すとたちまち水の中に落ちる。だからここから動かない方がいい」
口調から、彼はここを訪れたことがあるようだ。迷いなくこの場所に来たことを考えるに、城に引きこもる前はこの領地を周ってみたこともあったのかもしれない。それも何度も。
「沼の中に何か沈んでいるのでしょうか?」
水の色と霧の色を見ながらアドリアンナは言った。水に何かが溶け出して、それが瘴気を作っているのではないのだろうか。
「何かってなんだ? 死体とか?」
集中していたアドリアンナにはフェルナンの言葉は頭に入ってこない。
「潜って確かめてみます」
アドリアンナが上着とベストを脱ぎ捨て、スカートにまで手をかけた時にフェルナンは叫んだ。
「ちょっと待て! 本当に待て! 俺が水を掬い上げるから、その間に見たいなら見てみればいい――!」
アドリアンナの動きは止まる。
考えてみたらそれがいい。思いつかなかったのは、フェルナンが――というか他人が、アドリアンナのためにそこまでしてくれるということを考えもしなかったためだ。目を丸くしてフェルナンを見ると彼は苦笑していた。
「君は時々、近くに俺がいることを忘れているようだから、こうして存在を時々知ってもらわないとね」
いいながらフェルナンは片手を水に向けた。途端に水が中心に向かって渦を巻く。
「この沼の水、面白いぐらい魔力が効くな。俺の意のままに操れるぞ」
渦は竜巻のように上空に広がり、ふわりと浮かび上がった。普通なら、そのことに関する感謝を述べるべきだった。アドリアンナが平常心だったらそうしただろう。
だがアドリアンナの目線は沼の底に集中していた。フェルナンにしてもそうだ。自ら引き上げた水の底にあったものに、呆気にとられたようだった。
沼の底は光っていた。薄紫色の透明な水晶柱のようなものがいくつも地面から生え、それが相互に交信するかのように光を点滅させていた。濁った水の下に、こんなものがあったとは――。
「なんと神秘的な――。これはなんだ? 何が……」
「伝導石です。魔導石の一種の」
アドリアンナの中で、推論がまたたく間に成り立っていく。
「俺の魔力に触れて反応しているのか? ……美しいな」
フェルナンは目前の光景に顔を向けたまま、呆然とそう呟いた。
アドリアンナも思考を止め、彼に倣いその光を見た。
――ああ、美しい。と、そう思う。
星空を地面に移したかのような輝きだ。アドリアンナとフェルナンはしばし無言で立ち尽くし、どちらも自然が発するその光に目を奪われていた。だがこの美しい光こそ、人々を虐殺しているのかもしれなかった。




