二人だけの晩餐会も楽しかったし、ダンスの相性も良かったし――
城に設置された大時計が、予定の時刻を告げる大きな音を出した。落ち着かない心をなだめつつ、アドリアンナは彼が指定した広間へと足を運ぶ。
廊下の窓から見える外は紫色の光を帯びていた。このところ晴れ間が多く、瘴気の霧は薄く夜にかかりヴェールで空を覆ったような神秘さを演出していた。
アドリアンナが広間の前へ到着すると、待ちかねていたかのように鈍い音を立てて扉が内側に開く。
フェルナンは白と黒の夜会服を身に纏っていた。長い金髪は後ろに束ねられ、口元には微笑みが浮かぶ。アドリアンナを見ると一礼して片手を差し伸べた。
「やはり似合うな。今まで美しい女性は多く見てきたが、その誰よりも今宵の君は綺麗だ」
――誰が彼を呪われているだなんて言ったの?
素直にアドリアンナはそう思った。彼を見て素敵だと思わない女性がいるだろうか。あるいは男性でも。
打ち捨てられた辺境の地で、彼だけは輝きを失わずにいる。不運が重なりこんな場所に押し込められていなければ、きっと彼は地位と名誉を与えられ、アドリアンナに出会うことさえなかった立派な人物だ。と少なくともアドリアンナにはそう思えた。
数奇な運命が彼をこの場に閉じ込めて、わたしと出会わせたんだわ。
アドリアンナがおずおずと手を重ねると、彼はそのまま手を引いて席へと誘った。椅子を引きアドリアンナを座らせると満足そうに言う。
「今日は俺がこの晩餐会の主催者であり、そうして給仕者でありメイドだ。そして君は正賓だから、楽しんでくれ」
テーブルの上には白い布がかけられていて、その上には皿とカトラリーが置かれ、野で咲いていた花まで飾られている。彼が採取したのだろう。
アドリアンナの胸は詰まる。目が熱くなり、燭台の上の炎が滲んで見えた。礼を言うために彼の姿を探すが見えない。ほどなくして彼はワゴンと共に現れた。
彼は素早く動くと、アドリアンナの目の前に前菜が乗った皿を置き、すぐに言った。
「ワインは好きか?」
「あまり飲んだことがなくて」
「では少しだけにしておこう」
アドリアンナの傍らのグラスに少量のワインが注がれる。
「公爵様は召し上がらないのですか?」
「俺のことは気にしないでくれ、失敗作をしこたま食べたんだ」
テーブルの上には炎がゆらぎ、光が花の影を揺らめかせた。ちらちらと燃える炎が彼の姿を照らす。
彼は立ったまま、アドリアンナが食事を取るのを愉しげに見つめていた。料理は意外なほどに美味い。失礼だとは承知の上でアドリアンナは目を見張った。
「母の夫は自由な人でね、俺が何をしても自由にさせてくれた。使用人が作る料理を時たま一緒にやったんだ。あの田舎ではそのくらいしか楽しみもなかったからな。お陰でこうして役に立った。君が料理を作るほど手際よくはいかなかったがね」
アドリアンナが前菜を食べるのを見届けた後、フェルナンにより次の食事が置かれる。彼が運んできたワゴンの中にはまだ大量の皿が詰まっているように見えた。
いくつかは見覚えのある食材だ。だがどう考えても食材庫には無かった食材も料理の中には含まれている。
「こんなにたくさん、どうやって……?」
向かいの席に腰掛け自分のグラスにワインを注ぎながらフェルナンは答えた。
「告白すると少し前にこの晩餐会を思いついて、こっそりと注文しておいたんだ。城の奴らはこのくらいのわがままなら聞いてくれる。これは俺と奴らのちょっとした均衡遊戯さ。注文は全て問題なく届いたよ。今のところ、奴らは俺の機嫌が悪くなるのを恐れてくれているらしい」
それからこちらに目を向けると照れくさそうに笑った。
「君が中々そのドレスを着てくれないから、少し前に思いついてな。思った通りよく似合っているよ。俺も昔持っていた服を引っ張り出してみた。悪くはないだろう?」
「本当に似合っています。とても素敵です」
率直な意見を述べるとフェルナンはアドリアンナを優しく見つめた。それだけでアドリアンナの心臓がおかしな鼓動を始める。
「こうしていると、ここが捨てられた辺境の地などとは誰も思わないだろう。思う誰かがいないということもあるけどな」
顔に出さないようにしながら必死に心臓を諌めていると、フェルナンはまた言った。
「この地にいる人間は俺と君の二人きり。だが決して悪いことじゃない。君がこの城に来てから、俺は随分と自分が真人間になったように思う。君は、もしかすると真逆のことを思っているかもしれないが、少なくとも俺は君に救われた。だからせめてもの恩返しがしたいんだ」
「わたしも同じ思いでいます。今日のことも、心から嬉しく思います。本当にありがとうございます」
自分が思っている感謝を全て伝えきれているだろうか? 幼い頃のように、何の憂いもなく心の底から楽しいと思える日が、こうしてまた訪れるなんて思いもしなかった。
彼にしてもらったことをどうやってお返しすればいいだろうか。何も持たない娘であったアドリアンナにはその方法が思い浮かばない。なのに、彼はまだ言う。
「君は何をしたら嬉しい? もっと喜んでほしいんだ。笑った顔がみたい」
アドリアンナは慌てる。
「そんな! もう十分です。もうたくさんのものをいただいておりますから」
「初日から無様な姿を晒し続けてきて、今更取り繕う俺をおかしな男だと思うかもしれないが、君の望みを叶えてやりたい。遠慮しないで言ってくれ」
「望みはたくさん叶えていただきました。十分過ぎるほどです」
こんなに胸がいっぱいだ。
「何かしたいことはあるか? 晩餐会では普通、何をする?」
「観劇したり、踊ったり――でしょうか」
ふむ、とフェルナンは唸った。
「劇は無理だ。じゃあ踊ろうか?」
というと滑らかな動きであっという間に彼はアドリアンナの前へ跪いた。
「可憐なお嬢さん、どうか私と踊ってくださいませんか?」
彼の美しい瞳の中に、戸惑った顔の自分が映っている。
まるで夢を見ているようだ、とアドリアンナは思った。幼い頃に憧れた幸せな童話の中にいるみたい。魔女に呪いをかけられた王様が、呪いを解いてくれた女の子と結ばれる、そんなおとぎ話があったっけ――。
今日だけはそんな思いに身を委ねてもいいのかもしれない。
アドリアンナは微笑んで、彼の手を取った。瞬間体を引き寄せられ、広間に躍り出た。
天井では綺麗に掃除されたシャンデリアが輝いている。こんな場所にあんなものがぶら下がっていたなんて、今の今までアドリアンナは気が付かなかった。きっとあれもフェルナンが掃除をしたのだろう。蝋燭の代わりに魔法による小さな光がいくつも置かれていた。月明かりに光る雪の結晶のようだとアドリアンナは思った。
「初めはポロネーズ。曲は作曲家のオルゴのものだ」
人気の作曲家が作った曲を彼は口にした。誰もが知るその曲だから、長い間聞いていなかったにも関わらず、曲が耳に自然と蘇る。
二人の足が動き出す。視線は互いを見つめたまま。
もっとずっと幼い頃だ。母が生きていた時の小さなアドリアンナは、まだ社交界デビューはしていなかったが、それでも時折催される小規模なパーティに招待されることもあった。大抵は主催者の屋敷に出向き、同年代の子らと踊るのだ。
許嫁のギフォードや、彼の弟とも何度も踊った。ギフォードは途中で疲れてしまったけれど、その弟とは日が暮れるまで一緒になって踊っていた。あの頃は皆優しかった。過ぎた日々の中で、思い返すのは幸福だった少女の頃の思い出だ。
(そういえば、わたし、踊るのが好きだったな)
その頃のように、アドリアンナは踊った。
その頃とは違い、自分より遥かに体の大きな男性と。
アドリアンナが笑っていることに、自分では気が付かなかった。アドリアンナはただフェルナンばかりを見つめていたから。
「次はワルツだ。曲はヴィファラディ」
ひとつが終わり、またひとつが始まる。彼に導かれるまま踊ると華やかな音楽が聞こえてくるようだった。
「宮廷楽団による美しい旋律が聞こえるか?」
フェルナンがそう囁いてまるでそこに楽団がいるかのように広間の一点を見つめた。
「見えるだろうアドリアンナ。ここは王都の宮殿で、俺と君は初めて出会ってダンスをしている。俺が君の美しさに惹かれ、思わずダンスを申し込んだからだ。君は驚きつつもその申し出を受けてくれて、こうして俺達は踊っている。ほら見ろアドリアンナ。皆が君の美しさに見惚れているじゃないか」
そう言って彼は周囲を見渡す。アドリアンナは首を横に振った。
「みんなが見ているのは公爵様の方です。とても立派な男性ですもの。わたしはきっと他のご令嬢たちに羨ましがられているに違いありませんわ」
「それは実に気分がいい。もっと見せつけてやろう」
足を動かすのが楽しかった。いつだって重苦しい自分の体が、フェルナンの腕の中では羽が生えたように軽かった。アドリアンナは自然とフェルナンに笑いかけ、それを見た彼の唇も弧を描く。
「今晩出会ったばかりの俺達は気が合って、俺は君を手放したくなくなって、結婚を申し込むんだ。君もそれを望んでくれて、だから俺達は結婚をする。結婚式は王都の大聖堂で、皆俺達を祝福する。俺達はその後で辺境の地に城を買った。誰にも邪魔されない二人の城を。そこで小さな鳥を飼うんだ」
フェルナンは想像上のものではなく、実際にいる雛に顔を向けてそう付け足した。産毛の生えた雛は今日も二人の側にいて、こちらの様子を興味深そうに見つめては時折小さく鳴いていた。
「……それはどういうお話ですか?」
「もしも王都で出会っていたら俺達はそういう暮らしをするという話だ。俺や君が、今も普通に王都にいたらな」
聞いたアドリアンナは言葉に詰まった。なぜか無性に悲しくなった。
「でも、ありもしない物語です」
もしも普通に二人が王都で暮らしていたなら、出会うことさえなかっただろうし、彼が自分を見初めることもあるはずがない。だがフェルナンは平然と言う。
「そうだな。だからこそ良いんじゃないか。好き勝手に言えるから」
会話の間も、頭の中に流れる曲はまだ続いていた。ダンスでないとあり得ないほど体を近づけながら、二人は踊り続ける。
ふいに屈託無く彼が笑った。
「君は踊りが上手だ。俺達は相性がいいみたいだぞ」
その笑みを見た瞬間――なぜだかアドリアンナの胸の中に破壊的な衝撃が生まれた。奈落の底に突き落とされたかのような、後戻りができないほど深い衝撃だった。
両目から涙が溢れ、いけないと思ったときには既に、脳裏に響いていた賑やかな音楽は水を打ったような静寂に変わっていた。
慌てて彼の手を離し両手で涙を拭う。
これじゃ、精神が不安定な者に相違ない。彼も不審に思っただろう。
案の定、彼は怪訝そうな顔をしていた。
「なぜ泣く? 俺の態度が気に触ったか」
「ご、ごめんなさい――。そうじゃなくて。ごめんなさい。わたし、分からなくて」
寒い。寒くて指先が冷たくなる。凍えそうなほど寒かった。
「わたし、とても幸せで。こんなに幸せで、満たされていて。こんなに優しくしていただいて、こんな生活が許されて。ああ、なんて幸せなんだろうって、そう思ったら、涙が止まらなくて――」
感情の制御もできないなんて本当に馬鹿みたいだ。
瞬間、彼はアドリアンナの手を引いて自らの胸板に押し寄せた。驚いて身を引こうとしたが、強い力でびくりとも動かない。だがその体の温かさが思い掛けず心地が良くて、気がついたら抵抗を止めて身を任せてしまった。
なぜだか母を思い出した。アドリアンナが泣く度に、母はこうして抱きしめてくれた。猛烈に母が恋しくなった。彼は黙ってアドリアンナを抱きしめる。それは親愛の現れのように思えた。
長いことそうしていたように思う。アドリアンナは幾分か落ち着きを取り戻し、涙はもう出なかった。自分の嗚咽が鳴り止んだ代わりに、彼の心臓の音が聞こえていた。冷たかった指先に、生気が戻る。体が温かった。
彼が息を吸い込み、震えるように吐き出した。
「君に口づけをしたい。だめだろうか」
なんということを言い出すのだろう。
驚愕の中で見上げると目線が合った。アドリアンナの胸の中に知らない感情が込み上げあた。恐怖にも似ていたが、それよりもより深いところから湧き上がってくる。
踊っていた時のように彼に身を任せてしまいたいという衝動が生じ――だがアドリアンナは首を横に振った。
「……だめです」
言った途端、込み上げかけた何かが急激に冷めていくのを感じた。
そうだ、彼は聖女オフィーリアを愛している。どれほど優しくしてもらっても、彼の心はアドリアンナのものではない。だから口づけをすることはできない。
心に立ったさざ波が収まっていく。
「だめです……」
アドリアンナはそう言って体を離そうとした。だが彼はそれを許さずに、アドリアンナの両手を捕まえて、こちらの表情を窺うように顔を覗き込んだ。
「なぜだ。なぜだめなんだ?」
叶うことなら逃げ出したかった。彼の瞳からも、この腕からも、全てのものから。
彼の瞳は揺れながら、アドリアンナが奥底に隠した感情を探るようにじっと見つめてくる。その瞳を見ると、だめではない、と言いそうになる。
だが彼にとっては一瞬の気の迷い。きっとそうだ。
彼は人が恋しくて、この城にいる他人がアドリアンナだったというだけの話だ。恋をしている訳では無い。ましてや愛なんて、ここに生まれるはずがない。生まれてはならないものだ。静かに、アドリアンナは口にした。
「だってわたし達は、夫婦ではありませんから」
フェルナンは何かをいいたげに口を開きかけ、だが噤んで、しばらくして小さく呟いた。
「それも、そうだな……」




