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君は心に触れてくれた


 

「……そんな風には思いません。貴方を卑怯な方とは思いません」


 なおもアドリアンナは健気にそう言う。

 貴族の令嬢として礼儀正しく育てられたのか、あるいは、彼女の元々の気質がそうさせるのか。おそらくは後者であり、だからこそフェルナンは彼女に期待をしてしまい、だからこそその愚かな期待を自分自身の手で破壊しなくてはならなかった。


「そうか、婚約者の話がまだだったな。一応は有望な貴族であったから、俺と娘を婚約させたいという者も時折いて、そのうちの一人の娘と婚約した。まだ祖父が生きていた頃の話だ。その娘は同じ年で、数度顔を合わせただけだったが友人ほどには仲良くなれた。だが……」


「亡くなられたのですか」


「ああ、婚約者として正式に紹介しようとしていた矢先だ。彼女は両親と避暑地に出かけていて、そこで災害に遭った。瘴気が出たんだ」


 アドリアンナが小さな悲鳴を上げたように思えたが、構わず続けた。


「その後にも一人、俺と婚約を結びたいと言った家があった。俺がオフィーリアに夢中になっていた頃の話だ。禄に返事もしないうちに、俺ではない誰か同士が婚約の話を進めていた。だが結局、顔も合わせないまま、やはり彼女が死んだと聞いた。死因は聞いていないが、俺の呪いのせいだと噂が立った」


 それ以降、フェルナンは荒れ果てた生活を過ごしていた。酒に溺れ、喧嘩をしては路上で眠った。女に溺れなかったのは、親しくしていた娼婦が死んだためだ。恋人ではなかったが、一時期彼女の部屋に入り浸っていた。そうしてある朝彼女も死んでいた。やはり呪いのためだった。

 こうなったら認めざるを得なかった。己は呪われていて、その呪いが人を殺しているのだと。先代のグリフォン公のように呪われ公爵と呼ばれることに腹を立てていたが、その気力ももはや沸かなくなっていた。

 だがそんな中で、オフィーリアだけは言ってくれた。「わたしは貴方が人を呪っているとは信じません」と。「わたしだけはあなたの味方でいます」と、そう言って微笑んでくれた。だから余計に彼女にのめり込み、許されないことをした。


「わたしは」


 過去の回想を始めた脳裏に澄んだ声が響いてフェルナンは今に思考を戻した。 

 アドリアンナがいつになくはっきりとした口調で言う。


「わたしはそれを呪いだとは思えません」


 それは奇しくも聖女オフィーリアと同じ言葉だった。

 ふん、とフェルナンはわずかに残っていた傲慢さで嘲笑した。


「俺が怖いくせに」


「怖くありません」


「君は嘘つきだな」


「嘘ではありません。確かに、初めは怖かったですけれど、今は怖くありません。呪われ公爵という噂を怖がっていたことを、今は恥じています。先代のグリフォン様も貴方も、そんな噂を甘受するに相応しい人には思えません」


 彼女の涼やかな声は空気を震わせて、フェルナンの心を揺さぶった。

 欺瞞だ、とフェルナンは思った。彼女の表情や態度に表れる怯えに気づかないわけはなかった。


「君は俺を見ていつも怯えたような顔をするじゃないか。結婚式では俺との口づけをあんなに嫌がっていた。君の背を治療した時、君は嫌悪に震えていただろう。今更取り繕う必要はない」


 その度に、こんな場所にたった一人で嫁ぎに来た彼女を憐れんだ。それなのに、彼女の優しさに甘え、側に寄ろうとしてしまった。矛盾に引き裂かれそうになりながら、フェルナンは己を律そうとしていた。傲慢な呪われ公爵を最も憎んでいるのはフェルナン自身でありながら、今もまだ愛されることを望んでいる。


「ちっちが――違うんです!」


 アドリアンナは叫ぶようにそう言った。


「何が違う」


 アドリアンナの言葉に、懸命に押さえつけていた期待が再び首をもたげかける。


「わたしは……わたしの方こそ、貴方に失望されているのだと思っていて。わたしは――わたしも、黙っていることがありますから……。その、ごめんなさい。わたし、誰かと話すのが久しぶりで、あまり上手く話ができなくて。

 わたし。わたしは、爪弾き者なんです。何もできなくて、人を失望させてばかりで、家族に、あ、愛されていないんです。嫌わられている、不要な娘でした」


 最後の方は絞り出すような声だった。愛されていないという自身の告白が、刃物のように彼女の喉を割いたようだった。

 フェルナンはにわかに現実に引き戻されたように思えた。自分自身だけに向いていた思考が、彼女の告白によって突如として外側の世界へと向かう。


 彼女の背についた傷。令嬢とは思えないほど荒れた指先。怯えた瞳に震える声。何かに耐えるように固く結ばれた手のひら。思えば彼女は初めから妙だった。そうして恐ろしいことに気づきかけ、唖然とした。


「君は――」


「あの、どのように」


 だが問いかけかけたフェルナンの言葉はアドリアンナの言葉に遮られる。

 

「どのように亡くなったのですか? 養家の方々や、以前の婚約者の方々です」


 その声に、彼女に常に付き纏う恐れや怯えはないように思えた。深く考え込んでいるような声色に気後れしたのはむしろフェルナンの方だった。


「さっき言っただろう」


「『死体は激しく損壊し、皮膚の一部は溶け中身が漏れ出して凄まじい悪臭を放っていた』」


 口にするのも躊躇われるようなことだが一言一句、フェルナンが放った言葉をアドリアンナは繰り返した。そうして彼女は静かに言った。


「公爵様。今からわたしがお伝えすることの無礼をお許しください。それは呪いではないと思います。――死因は瘴気によるものではないのでしょうか」


 斜め上の言葉に、フェルナンはしばし硬直した。アドリアンナは構わず続ける。


「瘴気が出現した後の遺体は全身の皮膚がただれ、血液やときには内蔵まで外に出てしまいます。まるで小さな生物に食い荒らされた後のように。公爵様がおっしゃった、皆様の死に方と似ていると思うんです。誰も気づかなかったというのもおかしな話ではありますが、まだ瘴気の研究も不十分で、それと結びつけるほど知識がある方がいなかったのかもしれません。

 呪い――呪いを使う魔術に関する本をいくつか読んだことがありますが、呪いは自らの意思で誰かを呪うものでしょう? 公爵様のように、誰も呪ってはいないのに誰かが死ぬなんてことは、やはりおかしなことです。瘴気の事故であったとする方がぴったりと一致すると思うんです」


「俺の体から瘴気が漏れ出ているとでも言うのか?」


「それは調べてみないと分かりません」 


 フェルナンが嘲笑を含んで言った言葉を大真面目に返される。


「もしかしたら公爵様のお体がそのような体質なのかもしれませんし、あるいは――」彼女は言い淀む。「――あるいは、あるいは偶然貴方の周りの方に瘴気が出現したのかもしれません。貴方は耐性があって、それで助かったのかも……」


「瘴気がそのように局地的に出現するなど聞いたことがないが」


「そもそもまだ誰も気づいていないだけかもしれません。申し上げた通り、瘴気の研究は日が浅いんです」


「母や祖父の死に方は異なる」


「出産でお体が弱っている時や、お祖父様は高齢の方です。亡くなるのも不自然ではありません。偶然の死だったのだと思います。それに最初の婚約者の方が巻き込まれた瘴気事故も大勢の方が亡くなった大規模なものだったはずです。それを貴方の呪いが引き寄せたのだとら思えません。やはりそれも偶然だったのだと思います」


「……だとしても、雛が俺のせいで死んだことには変わりない。俺の前で見る見る弱っていった。俺が触れたせいだ」


 わずかな沈黙があり、


「誤解です」

 

 と、彼女は遠慮がちに言った。


「雛は死んでいません。生きています。深く眠っていただけです」


 聞いたフェルナンはふらふらと立ち上がり、彼女の声に誘われるようにして扉を開けた。彼女は現れたフェルナンに微笑みかけ、手に持っていた籠を差し出す。


「ほら」


 布を敷かれた籠の中で、雛は微かに蠢いていた。彼女に目を向けるとやはり微笑んでいた。その笑みに、フェルナンは己を防御するために張っていた最後の壁が脆く崩れ去るのを感じた。剥き出しのまま、彼女の前に心が露出する。


「俺を嫌っていないのか。側にいてくれるのか」


 彼女が小さく頷いた瞬間、フェルナンの中に抱いたことのない感情が込み上げて、衝動としか言い表せられないものに突き動かされるようにして次には彼女を抱きしめていた。

 教会で唇に触れた時、そうして森で背に触れた時と同様に、今も彼女は震えていて、その体は冷たい。


(この体を俺が温めてやりたい)


 劣情に似ているが、それとは別種の感覚だった。


 彼女の顔を覗き込み、その唇を指で撫で、そうしてその目に浮かんだ驚愕と畏怖を見た瞬間、フェルナンは我に返った。


(俺は一体、何をしているんだ)


 目の前には青ざめた顔をした彼女が立っていて、今にも泣き出しそうなほど瞳が潤んでいた。


(これでは暴漢と同じではないか)


 急いで体を離し、数歩後ろに下がった。


「すまない」


「いいえ、いいんです。その、驚いただけで……」


 彼女はそう言って下を向いた。

 願わくば、フェルナンは彼女の両肩を揺さぶり問い詰めてやりたかった。


 何がいいのだろうか。

 何が。

 何もよくないだろう、一方的に抱きしめられたのだからもっと怒るなり叫ぶなりしたらどうなんだ。


 いつも彼女は諦めたような目をしている。不当な扱いを当然のように受け入れる。

 背には無数の傷があり、手はひどく荒れている。

 なのにその心は清らかで、微笑みはまるで全てを受け入れる聖母のようだ。だが彼女の瞳の奥底には、恐怖が常に浮かんでいる。一体どれが、本当の彼女なのだろうか。

 

(彼女を知りたい)


 フェルナンは思った。

 それは腹の底からの熱望だった。


 ――俺は彼女を知らなくてはならない。

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