軍師
レイが再び抜け出そうと身を翻した、その背後から鋭い声が飛んだ。
「――どこへ行かれるのですか、レイ?」
思わず肩が跳ねる。
振り返るより早く、刀の鞘がカチンと鳴る音が回廊に響いた。
龍を束ねる軍師、フェン。
彼女は雌龍でありながら、レイと同等――いや、それ以上の実力を持つ存在だった。
黒みを帯びた青い鱗が雷光を反射し、長い髭が風に揺れる。
優雅に湾曲した角、金色に鋭く輝く瞳。
知性と冷徹さ、そして雌龍特有の気品が同居する佇まいだった。
レイは慌てて向き直り、作り笑いを浮かべる。
「いやいや、フェン殿。これから家へ戻るところでございまして」
そっと進行方向を変えようと体をずらした瞬間、
フェンの長い尻尾が素早く伸び、レイの尻尾の根元をがっちりと掴んだ。
鱗同士が擦れる乾いた音が、静かな回廊に響く。
「今日は私とチェスで一局いかがです?
どうせ“あの場所”へ行こうとしているのでしょう?」
レイの額に汗が滲む。
「あはは……これは参りました。
では、もし私が勝ちましたら……黙っていてくださいます?」
フェンは深く溜息をつき、傍らの卓から古びたチェスボードを取り出した。
黒檀と白檀で象嵌された盤。
駒は翡翠と黒曜石で作られ、龍の鱗を模した精緻な彫りが施されている。
龍の文化に合わせた特別製で、
王は「龍王」、皇后は「龍后」、騎士は「飛龍」と名付けられていた。
「……いいでしょう。庭園へ」
二人は龍界中央の庭園へ向かう。
雲海に浮かぶ浮島のような場所で、低く垂れ込めた雷雲の奥で、青白い稲妻が走っていた。
雨はまだだが、空気は重く湿っている。
石卓に盤を置き、フェンが腰を下ろす。
レイも向かいに座りながら、心の中で考えていた。
(ウルカに……何か土産を持っていこう。
甘い果物とか、あと酒とか)
「フェン殿、どちらが先手です?」
フェンは駒を並べ終え、静かに微笑む。
「私が先手をいただきます」
盤上で、「龍后」が大胆に中央へ進む。
攻撃的な布陣だ。
レイは慎重に「飛龍」を展開し、防御を固めつつ隙を探る。
駒を置く音が、庭園の静寂に規則正しく響く。
フェンの指先は優雅だが、その瞳には明確な闘志が宿っていた。
一方、レイの表情が厳しい顔になり集中していた
数手後、レイは静かに駒を動かした。
「……チェックメイトですね?」
フェンの瞳が一瞬だけ細まる。
盤面を見下ろし、確かに逃げ道はなかった。
彼女は不機嫌そうに唇を噛み、ゆっくりと駒を片付け始める。
鱗が微かに震え、低い唸りが喉から漏れた。
「……やはり強いですね、レイ。
お見事です。次は勝ちますから」
レイは首を傾げる。
(勝ったのに……そんなに悔しいのか?
フェン殿、意外と負けず嫌いだな……)
「じゃあ、約束ですからね!」
レイは立ち上がり、雷雲を避けるように空へ身を躍らせる。
尻尾の先が、嬉しそうに揺れていた。
フェンはその背を見送り、静かに息を吐いた。
「……はぁ」
胸に渦巻く、やりきれない感情。
レイの心が、あの狼の少女へ向いていること。
軍師として彼の立場を守るべきなのに、
自分の想いが、ただの嫉妬でしかないこと。
彼女は刀の柄を強く握りしめ、龍王の元へ向かう。




