シュレディンガーの悪夢
箱の中には誰もいない。
ある家には先月新しい奥さんが来た。
娶ったその次の日から一日中あの箱の内側からドンドンと叩く音がしていた。
そうこうする内に音はしなくなった。
一週間後、人間の言葉を忘れた女だったものが引きずり出され、一晩だけ家の中に入れられ、夫が愛でる。
また箱に戻され、光すら当たらない生活が始まる。
体の強い人間は理性と知性だけを失い、犬のように振る舞い出す。
そうした妻を持つ夫は徴兵制で地獄のような訓練をしても妻の姿に癒され、また訓練に戻ることができたと言われる。
東の国の都ではこんな犬のように振る舞える妻こそが最高の妻とされていた。
余計な文句は言わず、夫が呼べば尻を振り、夫がしたい時に性欲の捌け口となる。
家事は女中がするが、女中の方が高級な暮らしと言えた。
「出して!!出して下さい!!お願いします!」
ウブメは幼女のように泣きじゃくり、暗闇の中でひたすら箱を叩いていた。
これはこの国では当たり前のことだったらしい。
都に来てずっと女郎廓の中にいたため、街の異常性に触れることが実は無かった。
ウブメは女郎として生きるより残酷な夫婦生活があったなど初めて知った。
自分を娶ったのは小綺麗で義理に厚い男だったように思う、周りも羨むような最高の条件だった。
蓋を開けてみれば底なしの暗闇が待っていた。
明るい未来で使うであろう知識、芸の腕前が暗闇の中で少しずつ失われていく。恐ろしいほど何もない生活、今まで貯めてきた喜びは全て帳消しにされ、尊厳を破壊され、ただ生きているだけの存在に成り下がる、その激痛たるやウブメのようなタイプの人間には殊更耐え難かった。前妻が自死をしたため自分が娶られたのだと夫は言っていた。
だが転機は早く訪れた、ウブメの心が壊れかけるその前に街の一角を盗賊団が襲った。外国人を一気に受け入れたため、仕事にあぶれる者がかなりいたそうだ。
盗賊団は残忍だったが、箱の中身を知らなかったようで、生気の薄い女を見て腰を抜かした。
物音を聞きつけて夫が家から出てくる、盗賊団に向き合って問う。
「うちの犬に何か用かい?」
それだけ言うとあとは速かった、訓練を受けた人間の動きで目の前にいる男たちをのしていった。
なぜかこの都で箱妻を飼う男はみんな強かった、時間も経たずに盗賊団はあらかた撃退される。
だが一人だけさらわれていった女がいた。いや、むしろ彼女は箱を壊されてすぐに夫の方角ではなく盗賊団の残党がいる方へこそ奔走していた。
夫は偶然その姿を見た。その時には遥か遠くにいたため捕まえることは叶わなかった。
その女とはウブメである。




