真実
朝の稽古を終えて屋敷に戻ると、忠弥は驚いた。
屋敷全体がものものしい雰囲気に包まれている。
母屋の方から、中間が慌ただしく葛籠を抱えて裏玄関へと向かって行く。
「おい、何があった」
奥に向かって声を張り上げると、女中の八重があたふたと現れた。
「おかえりなさいませ。忠弥様、急なお話でございます。美津様が東北の方へ嫁がれると」
「なにっ?」
姉の美津は、妹の生んだ赤子の百日祝いの翌日から、ずいぶん落ち着いて、食事もきちんととっていると聞いていた。
それゆえに何が起きたのか、全然理解できなかった。
「相手は誰だ」
八重に問いただすと、女中は唇を噛みしめ、百姓のお家だそうです、と云った。
厄介払い、という言葉を呑み込んだ。
「それで姉上は」
「落ち着いていらっしゃいます。辻駕籠を呼んだので到着したら、ご出立されます」
「なぜ……」
わけがわからない。
忠弥は真実を確かめるため、母屋へ急いだ。
「姉上、忠弥でございます。開けますぞ」
部屋の中からは返事もなく、静かで音がしない。
襖を開けると、落ち着いた表情に変わりなく美津が座布団に正座していた。
しかし、よくよく見るといつもと様子が違って見えた。抱き締めている男物の袖だった。
「姉上……。それは」
これが、原因か。
忠弥は悟った。
近頃のことで変わったことといえば、数日前の百日祝いだ。
あの日、大勢の客がこの家に来ていた。
美津は母屋に閉じ込められていたはずだが、もしかしたら、誰かが見舞いに来たかもしれなかった。
何奴。
「姉上、失礼つかまつる」
そばに寄って抱き締める袖を見て、あっと声をあげそうになった。
小柄な羽織の袖には家紋がしっかりと入っている。
三浦家だ。
思い当たるのは、半之丞だった。
招待したはずなのに、現れなかった三浦家。
その後、祝いの品だけは受け取ったと聞いた。
だが、組頭は来なかった。
美津はあきらめていなかったのだ。
半狂乱の姉を見てゾッとする。
愚かなのは自分だ、と忠弥は気づいた。
祝いの後から、半之丞の様子が変わった。
あの者は、真実に気づいたのだ。
「忠弥さん」
姉の声に我に返った。
「姉上……」
「息子がこれを、わたくしにと預けてくださったのです」
「それは……」
違う、とは云えなかった。
「あの子は立派に育っておりました。わたくしの役目は終わりました。これから遠いところへ参らねばなりません。あの子に健やかに育ってくださいと伝えてくれますか?」
「はい……」
二人に何があったのか。
幼い頃、自分をかどわかした女にもう一度、連れ込まれ、人知れずここを去った半之丞。
誰一人気づいたものはなかった。
忠弥は、体が震えた。
半之丞が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
あの男のひと言が成沢家の運命を握っている。
「姉上のお言葉、俺が必ず伝えましょう」
「まあ」
美津がにこりと笑顔になった。
そして深々と頭を下げた。
両手をついて、
「半之丞をよろしく頼みます」
と泣きそうな声で云った。
顔を上げたとき、姉は呆けたようなうつろな目をしていたが、しっかりと袖を抱いて離さなかった。
本当の息子だと思っているのだ。
そして、これから嫁ぐ先でも哀れみの目を向けられるのか。
いや、と忠弥は首を振った。
「姉上、あきらめてはなりませぬぞ」
「え?」
「あなたのお子はしっかり成長し、生きているんです。母のあなたがそんなでは子は悲しみますぞ」
「そうね……。あなたのおっしゃる通りね」
「文を出します」
「優しいのね」
美津はそう云ってほほ笑んだ。
忠弥は、頭を下げて部屋を出た。
自分にできることは何もなかった。
姉ひとり助けることもできない。
見送ることもできず、美津は遠い遠い場所へと連れていかれた。