稽古、初日
稽古、初日。
道場へ入り、忠弥は眉をひそめた。
林兵馬がいる。
二人だけだと思っていたのに、拍子抜けした。
兵馬は、忠弥を見ると飛び跳ねるように駆けてきた。
「おはようございます!」
「おはよう。なぜ、そなたがここにおる」
「半之丞に誘われたのです」
「え?」
忠弥が眉をひそめると、袴姿の半之丞が廊下の向こうからゆっくりと歩いて来た。兵馬がにこっと笑いかける。
「おはよう! 半之丞」
「おはよう、兵馬。おはようございます。成沢様」
半之丞は、眉ひとつ動かさず静かにお辞儀をした。
忠弥はなぜだか胸がむかむかした。
兵馬には笑いかけるのに、こちらにはむすっとした顔で面白くない。
「俺より遅く来るのは許さんぞ」
低い声で唸るように云うと、半之丞は顔を引き締めて俯いた。
「も、申し訳ありませぬ」
しまった、きつく云いすぎたと思ったが、半之丞はのそのそと防具を置きに片隅へ移動してしまった。
「忠弥さんはお優しいですね」
出し抜けに兵馬に云われて面食らう。
「は?」
「だって、半之丞のためにわざわざ鍛えてくれるんでしょう」
「うん、まあな…」
「よかったな、半之丞」
気づけば半之丞が背後に立っていた。顔つきは暗く、俺はそんなに嫌な思いをさせているのかと思うと、ますます不愉快になった。
こうなったら辞めた理由を聞きだすまでは、しばらくは稽古を続けるつもりだ。
ふん! と忠弥は鼻で息を吐き、柔軟をするようと二人に指導した。しかし兵馬はきびきびと動きだしたが、半之丞はため息ばかりついている。
「おい!」
忠弥はすぐに半之丞を呼び出した。
「……はい」
「お前、やる気ないだろ」
相手の目を見ようとするが、半之丞は目を逸らすばかりだ。
どんなに問い詰めても、このままでは埒が明かぬ気がした。
しかも、次からは稽古にも来ない気配があった。
「俺が手伝ってやる」
「えっ?」
半之丞の腕をつかんだ時、初めて感情らしき表情が現れた。頬が赤くなり、目が潤む。細い腕だったが、少し筋肉がついていた。
「文句があるのか」
「あ、あの…一人でできますから」
「できていないから、手伝ってやると云うのだ」
忠弥は半ばやけになって、半之丞を座らせると背中を押した。案外柔らかくぺたりと床に胸がついた。
全く、面白くない。
忠弥は深くため息をついた。
「最近、楽しそうですね」
道場で稽古をつけるようになって幾日か過ぎた。
稽古を終えて汗を拭いていると、またもや突然、兵馬が云った。
半之丞は井戸端で汗を流している。相変わらず体の線が細い。
俺がこうやって時間をかけて鍛えているのに、あの男は…! ぶつくさ呟きながら、兵馬を見た。
「俺が楽しそうに見えるか?」
「ええ」
兵馬はにっこりと笑うと、半之丞の方を眺めた。
「半之丞も感謝していると思います。あいつは誰よりも忠弥さんの事を尊敬していますから」
「は?」
尊敬だと?
感じたことは一度もないが…。
しかし、それが真実なら、なぜ自分を避けるのか。
忠弥にはさっぱり理解できない。その時、ふと、先ほど兵馬の云った言葉を思い出した。
「おい、久しぶりに一杯やりに行くか」
「え?」
兵馬が目を輝かせる。
「それってもしかして…!」
以前、兵馬を居酒屋に連れて行き、たいそう喜ばれたことがあった。
自分の楽しみは、酒を呑んで女に会う事だ。
それを「楽しみ」というのに、こんな生意気な男を鍛えているのを楽しんでいると思われて、少しムッとした。
「そなたもお染を覚えておるだろう」
「はい!」
兵馬は嬉しそうに笑って顔を赤くした。
「わたしのために、初めての酒を注いで下さいました」
大げさな物云いに思わず苦笑する。半之丞が女と対面した時、どんな風に慌てふためくか想像すると、これこそ楽しい気持ちになった。
にやりと笑い、半之丞が戻ってくるのを待った。
汗を流しさっぱりとした顔の半之丞は、にやにやしている忠弥を見て眉をひそめた。
整った顎に涼しげな目元に清潔そうな薄い唇。立ち姿は背筋が伸びて、よく見れば半之丞は綺麗な顔をしている。
うむ、女が喜ぶかもしれぬの…。
密かに忠弥は思った。
「よし、では参るか」
出し抜けに行って二人を促すと、半之丞が慌てた声を出した。
「お、お待ちください。どこへ参られるのですか?」
「居酒屋だ。たまには羽目を外してもよかろう」
「えっ! そんな、成沢様、困ります」
「何だと?」
忠弥はわざと目を吊り上げて、半之丞を睨みつけた。
「そなた、俺が奢ってやると云うのに、それを断るのか」
「え…?」
半之丞は青ざめて唇を震わせている。
最近、こんな顔ばかり見ている気がする。
忠弥は一瞬、胸が痛んだが気にしないようにした。
「大丈夫だよ、そんなに怯えなくても」
兵馬がからかうように云うと、半之丞は軽く睨んだ。小声で云い返す。
「俺は行かなくたっていいだろう?」
「せっかくのお誘いなんだから行こうよ」
兵馬も小声で答えたが、半之丞は乗り気ではなさそうだ。
「ぐずぐずするな、参るぞ」
「はい」
兵馬に腕を取られて、しぶしぶと半之丞がついて来た。
それを見ると、思わずにやりとしてしまった。
忠弥は馴染みの居酒屋に向かった。道場から近いのでよく朋輩と呑みに行く店だ。
暖簾をくぐると、元気な女の声がした。
「いらっしゃいまし! あら、忠弥さま」
いそいそと女が寄ってくる。
「今日も来てくれたんですか」
「うん」
刀を差したまま床几に座る。兵馬は自分の隣に座り、半之丞は兵馬の前に座った。
半之丞の顔色はすでに悪く。すぐにでも飛び出していきそうだ。
「酒を頼む」
「あい」
女が奥へ引っ込み、忠弥は半之丞の顔を見た。今は俯いている。
「三浦はこういう場所は初めてなのか?」
「はい。こいつ、酒も呑んだことないんですよ」
代わりに兵馬が答える。すると、半之丞がきっと目を上げた。
「私はお酒など呑みたくありません」
きっぱりと云い、突如立ち上がろうとする。
「えっ? ちょ、ちょっと半之丞っ」
焦って兵馬が止めようとすると、酒を持ってお染が現れた。忠弥を見て切れ長の目を細めるとにこりと笑った。
「お待ちどおさま」
「おう」
「また、来て下さったんですね」
お染が嬉しそうに云って酒とつまみを飯台へ置いた。そばに寄った時、体からいい匂いがした。
「こいつらにうまいものを食わせてやってくれ」
「はい。あら?」
そう云って、お染は目をパチクリさせた。項垂れている半之丞に気がつく。
「どうかなさったの? 気分でもお悪いのですか?」
「お主があまりに美しいので緊張しているんだろう」
忠弥が云ったが、半之丞は動かない。お染は心配そうに近づいて、そっと背中を撫でた。
「大丈夫?」
優しく問いかけられて、半之丞が顔を上げた。
「まあ、綺麗なお顔」
半之丞の顔がカッと赤くなった。まだ酒も飲んでいないのに目が潤んでいる。
「ねええ、この方とてもしんどそうですよ」
忠弥はムッとしながら半之丞を睨んだ。
「こいつはいつもこんな顔だ」
「でも…」
お染はそう云うと半之丞の背中を撫でながらそっと耳元に囁いた。半之丞が顔を上げて頷いている。それから何も云わずすくっと立ち上がると、あっけに取られている忠弥と兵馬を置いてさっさと店を出て行ってしまった。
「あっ、待てっ」
「忠弥さま」
お染がそっと腕を取って絡ませてきた。
「離せ」
「嫌です。あなたの悪い癖ですわ」
「何?」
忠弥がドキリとしたように体をこわばらせた。
「からかってらっしゃるんでしょう? あの方、震えていましたよ」
「男のくせに情けない」
忠弥は憤慨した。
「お染、あいつに何を申した」
「気分がお悪いのなら、無理してここにいなくていいんですよって云ったんです。だって、気分が悪いのにお酒を呑むなんて」
お染がため息をついた。
「あたしだってヤですよ」
思惑がすっかり外れて、忠弥はますます苛立ったが、一緒にいる兵馬はあまり気にしていないようだった。
「忠弥さん、早く食べましょうよ」
あどけない顔でにっこりと笑った。
暖簾をくぐって出て行った半之丞の事など、最初からいなかったかのような態度だ。
「お主…友達ではないのか?」
忠弥がためらいがちに聞くと兵馬はにこりと笑った。
「ええ。あいつ、よほど嫌だったんですね」
と答えた。
居酒屋で逃げられて、むしゃくしゃしたまま兵馬とお染と共に酒を呑んだが、何か物足りない。
せっかく、半之丞から話を聞く機会だったのに、逃げるとは! 卑怯な。
何故自分を避けるのか全く理解できなかったが、兵馬はすぐに酔ってしまうし、お染は話を静かに聞いてくれたが、明言せず黙っているだけで、その上何か思案しているようだった。
忠弥が聞いても、お染は、さっぱり分かりません、とはぐらかした。
それから数日経って、町中でお染の姿を見かけた。立ち止って武士と話をしている。よく見ると相手は半之丞だった。
お染はわりと身長が高く、小柄な半之丞と背丈はあまり変わらなかった。
二人は親密そうに見えた。
忠弥は、思わず立ち止りぽかんと呆けたように口を開けてそれを見ていた。
あの野郎! 俺の女を盗んだのかっ。
憤りに駆られたが、見ているとまるで二人は姉弟のように、笑い合っている。
半之丞がしきりに頭を下げているが、お染の顔も柔らかく温かみがあった。
あいつ、あんな顔ができるのか。
半之丞の穏やかな顔を見て、どうして自分は…? と、いつもの問いに戻ってしまった。
ぺこりと頭を下げて半之丞が去って行く。
反対方向へくるりと背を向けたお染を追いかけた。
「お染」
「はい? まあ」
お染がびっくりして口に手を当てた。
「忠弥さま」
「半之丞と何を話しておったのだ?」
「え?」
「とぼけるな、先ほど話をしておっただろう」
お染が目を瞬かせてから、ああ、と笑った。
「挨拶をしていただけですよ。この前、ご気分が悪そうでしたから、そういう時は無理せず休んで下さいましね、とお話しただけです」
「嘘だ」
「は?」
「お主から声をかけるはずがない」
お染は町人だ。相手は武士なのだから、うかつに声をかけるとは思えなかった。
お染はため息をついた。
「お礼をして下さったのです。この前、お店に入っただけですぐに出て行ったことを悔やまれていたようで、あちらからお声をかけられたのですわ」
「迷惑を被ったのは俺だ! 俺に謝るべきではないか」
「はあ……」
お染は呆れたように息をついた。
「では、そのように申し上げたらよいではありませんか」
「あいつから謝るのが筋だろう」
「あたしの時と同じですわね」
「え?」
お染の意味深な言葉にドキリとする。
「好きな方には素直にならない」
「む?」
こめかみがピクリと引きつる。
「何か誤解をしておるようだが…」
「あら、じゃあ、あたしの事は好きでも何でもないんですね」
「お主の事は気に入っておる。男と女は別だ」
まるで云い訳のようだが、ここはきっちりしておかねば、と思った。気にかかるのは、自分だけ阻害されているような歯がゆさがあるからだ。
しかし、それを云えばただ自分がいじけているだけのように思えて、真実を明かすことも出来なかった。
「そうでございましたか。では、お気をつけなさいまし。このままではもっと嫌われるだけでございますよ」
「もう嫌われておる」
きっぱり云うと、お染がくすっと笑った。
「では、そっとしておいてあげたらよいと思いますわ」
頭を下げるとお染はくるりと振り返ると粋に歩いて行った。
後ろ姿を見て大きく息をつく。
俺は嫌われている――。
はっきりと云ってしまうと、むなしさが残った。
なぜだ? あれほど懐いていた若者が自分の知らない所で背を向けていなくなろうとしている。
自分が何をしたのか、さっぱり覚えがない。
お染の云うように、そっとしておくべきだろうか。
そうなのかもしれぬな。
忠弥は珍しく自分を客観的に見て、少し距離を置こうと考えた。