恩人の名
遅い朝餉を食べ、姉に従い成沢家へ向かったが、休みだというのに忠弥は道場へ行っていた。ここで諦めてくれればよいが、と期待したが、姉は済ました顔で、
「そうでしょうね」
とはっきり云った。
「あの、剣術しか脳のない男が屋敷でのんびりとしているようには思っておりませんでした。さ、参りましょ」
道場の方へ足を向ける。
「姉上、家の方は空けて大丈夫なのですか?」
弓江は大番頭の家に嫁いでいる。見初められ、相思相愛で嫁いでいった。
「あなたは気にしなくてよいのです」
取り付くしまもなく、道場へついてしまった。門を潜るなり、玄関ではなく、姉はへっちを向いた。
「姉上、そちらは外……」
庭から道場の中を覗く算段らしい。
半之丞は黙ってついて行った。枝折り戸の前で止まり、そっと道場の方を伺う。
弓江の背後から見ると、忠弥が素振りをしていた。一人かと思いきや、兵馬が一緒に汗を流していた。思わず、あっと声が出そうになった。
弓江は様子を見届けると、静かに戸を開いて庭へ入って行った。
兵馬が手を止めて驚いた顔をする。弓江と半之丞を見て笑顔になった。
「半之丞っ、お前も来たのか」
そう云う兵馬の横で、忠弥は険しい顔をしていた。弓江がずいと前へ出て深くお辞儀をした。
「おはようございます。朝からお二人で稽古ですか」
「なにか御用ですか」
忠弥の尖った声に、半之丞は身がすくんだ。
「ええ、成沢殿にお話がございますの。少し、お時間をいただけますでしょうか」
忠弥は一瞬、顔をしかめ、それから半之丞のほうをじろりと一瞥した。
「よかろう」
手拭で汗をぐいと拭くと庭のほうへ下りてくる。弓江は汗のにおいに顔をしかめ、袂から手拭を出した。
「まさか、そのままでお話なさるおつもり?」
「そのつもりだが」
毅然とした態度に圧倒されたのか、弓江は少し後ずさりした。
「話とはなんです?」
忠弥が聞いてくる。弓江はきゅっと口を引き締めた。
「かねがねからお詫びしたいと思っておりました」
「え?」
急に弓江の態度が軟化して、忠弥が怪訝な顔をした。
「半之丞が六歳のときでございます」
姉が静かに語りだす。半之丞は急に息が苦しくなった。
「あの時、わたくしは中間と半之丞のみを連れて町方まで茶菓子を買いに参りました。その時でございます。わたくしが菓子を選んでいる間、この子がかどわかし(誘拐)にあいました」
それを聞いて忠弥が目を丸くして、あの時の…、と呟いた。そして、半之丞を見つめた。半之丞は唇を震わせると、うつむいた。
「慌てて探しましたときには、どこかに連れ去られた後でございました。ですが、あなたさまがこの子を救ってくださいました。当時、わたくしは十歳で、我を失いあなたさまにも辛く当たり、無礼を働いたこと深くお詫び申上げます」
忠弥の表情は微妙だった。
立ち話する内容ではない。
「あの時、家の者があなた様にお約束をしたと思います。覚えていらっしゃるでしょうか」
「うろ覚えだが……」
忠弥が、どうでもよさそうに答える。
弓江はムッとした。
「わたくしどもの不手際で成沢さまに御迷惑をおかけいたしました。この不始末、我が家で半之丞を一人前の男に育て上げ、恥じることのない男にしてみせると、父はあなたに約束いたしました。ところがっ」
弓江は言葉を切ると、半之丞を睨んだ。
「この子は、あなたが通ってらした堀内道場の試験にことごとく落ち続け、近年までどこの道場にも入ろうとせず、兄の手で少しは剣術もましになりましたが、あろうことか、恩人のあなたのことばかり追いかけて、剣術も学問もなにもかも中途半端! 成沢さまが江戸へ渡っている間も、腑抜けた顔で…。あなたが帰国されてからは浮き足立ち、叔父の家で倒れる情けなさ……。わたくしは育てかたを間違えてしまったと後悔しております」
「それで、あなたはなにが云いたいんだ」
長話がようやく中盤に入り、忠弥はいらついた顔をする。
弓江が力強く忠弥を見つめた。そして、
「この子を突き放してください!」
と、強い口調で云った。
「お前になど興味はない、しつこく付きまとうなと、はっきりと申して下されば、この子も目が覚めるはずでございます」
「姉上っ」
半之丞は悲痛な声を上げた。
忠弥は眉一つ動かさず、無表情で弓江を睨んだ。
「俺が云わなければいけないのか、それは」
「え?」
「俺が悪者になって、こいつを傷つければいいのか」
「それは……」
弓江はさっと気色ばんだ。
「伝えたと思うが、俺は助けたことなど今まで忘れていた。昔、あんたになじられたことや三浦家の当主がしつこく家に来て、こいつを男にすると約束すると云った話も、うんざりしながら聞いていた。俺にとって、こいつがどんな生き方をしようが関係ない。あんたらの考えを俺に押し付けるのは迷惑だから、もうそっとしておいてくれ」
忠弥の云い分はもっともで、弓江は何も云い返せなかった。
彼女は、蒼白い顔でうつむくと、申し訳ありませんでした、と小さく云った。
失礼いたします、と云うと、転がるようにその場を去っていった。
枝折り戸の外で待っていた女中が大慌てで追いかけていく。
取り残された半之丞は、姉の無礼に気を失いそうになっていた。
どうしたらいいのだろう。
忠弥になんて云えばいいのか、混乱して思考がまとまらない。
すると、忠弥が息を吐いて半之丞を見た。
「お前はどうしたいのだ」
「え?」
「なぜ、俺の後を追いまわす」
まっすぐな瞳には真摯な色が見えた。半之丞は今が告げるときだと思った。
「わ、わたしは! あなたにお礼を申し上げたかったのです。けれど、家の者には迷惑をかけるから、お近くに寄ってはならぬ、と云われました。わたしはかどわかし(誘拐)にあったことはあまり覚えておりません。誰かの手が細かく震えていたのは覚えています。冷たい手でどこへ向かうのか分らず不安でいっぱいでした。しかし、あなたが男を倒したとき、腕が力強かったことは覚えています。温かく大きな腕で抱きしめられた時、わたしは安堵いたしました。あの日以来、腕の強さばかり思い出すのです」
誰にも云えなかった。
半之丞にとって、大きな手とぬくもりが今の自分を支えていた。
家族の者にも話したことのない大切な記憶。
「成沢さん、わたしを助けてくださいまして、ありがとうございました。今のわたしがこうして生きていられるのもあなたのおかげです」
お辞儀をした後、ほっと力が抜ける。
目を上げると、忠弥が真剣な瞳で見ていた。
「忘れたのか…」
「え?」
「覚えていないなら、いい」
「あの、何のことですか?」
半之丞が不安に思って首を傾げると、
「兵馬っ」
と忠弥が怒鳴った。
「はいっ」
兵馬が元気よく返事をする。
忠弥はくるりと背中を向けた。
「素振りの練習をする。お前もするのなら、着替えて来い」
「は、はいっ」
言葉をかけられ、半之丞は返事をしていた。
側にいてもいいのだろうか。
忠弥ははっきりと物を云う人だと聞いていた。
迷惑ならそう云うだろう。
兵馬と忠弥は道場に上がって、素振りを始めた。
半之丞はその場に立ち止まったままうつむいた。泣くまいと唇を噛みしめる。
うれしくてたまらない気持ちになる。目尻に少しだけ涙が浮かんだ。
忠弥に嫌われていない。それだけでいい。
ぐいと目を擦り、着替えるため部屋に入った。




