恩人の名
六歳の時、姉に連れられて町方へ菓子を買いに行った日。
どこかの武家の小者が、半之丞に声をかけてきた。
何と云われたのか覚えていない。ただ、小者と手をつないで歩いた。その時、小者の手は震えていた。
連れられた先は、どこかの寺だったか人気のない場所で、中に入ると、綺麗な武家の女性がいた。
女性は、あなたは私の子供でずっと離れ離れになっていた。探していたのですよ、と泣きながら抱きしめてきた。
六歳だった半之丞は、女の人が母親ではないことを理解していたが、泣いている姿を見てかわいそうだと思った。
素直に頷くと、武家の女性は優しく頭を撫でてくれた。
これからは二人で暮らしましょう、と云って微笑んだ。
そこで幾日か過ごした。怖かったのは夜だ。
辺りは明りがいっさいなく、狭い場所で二人きり。たまに小者が食事を持ってくるだけで、夜は心細さに泣きそうになった。
しかし、自分は武士の子である。
泣いてはならぬ、と云い聞かせた。
さらに幾日かが過ぎて、小屋のドアを蹴破るようにして元服前と見られる武士の子が入って来た。
武家の女は泣き崩れ、小者が項垂れて立っていた。
さらうように武士の子が自分の体の具合を確かめて、顔を覗き込んだ時、彼も泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫か?」
武士の子は何度も聞いて、ぎゅっと抱きしめた。
「もう、大丈夫だぞ。そなたの親元へ帰してやる」
「母上に会えるのですか?」
そう尋ねると、武士の子は、うんうん、と強く頷いて涙をこぼした。
「……すまぬ」
絞り出す声がつらそうだった。
「いいのです。ちょっと怖かったけど、大丈夫ですから」
それだけ云うと、半之丞はおそるおそる武士の子の肩に頭を乗せた。それから腕をまわして背中にしがみつくと、次第に眠くなってそれから寝入ってしまった。
お礼を云うこともできず、後から、武士の子の名前を聞いた。
成沢忠弥。
恩人の名は、成沢忠弥だった。
全てではない。
だが、半之丞は思い出した。
目の前にいる忠弥の姉こそが、かどわかしの犯人である。
だからあの時、忠弥は、忘れたのか、と云ったのだ。
そう、忘れていた。
思いだしてはならないと思っていた。思いだしたら、彼は離れてしまう。思い出せば迷惑をかける。
子ども心にそう思ったのだろう。
半之丞はハッとすると、忠弥の姉の手をそっと握った。
「お名前をお聞かせください」
「まあ、母の名をお忘れか?」
忠弥の姉が泣きそうな顔で云った。
「わたくしの名は美津ですよ」
名を聞いても思い出せなかった。
「母上と呼びなさい」
美津はそう云ったが、半之丞は首を振った。
「美津殿」
「母上と呼びなさい」
「いいえ、あなたは私の母上ではありません」
美津は首を傾げて半之丞を見た。
「いいわ」
ため息をつくと、半之丞にしなだれかかった。
「こうしていましょ。少し疲れたの」
美津は本当にしんどそうだった。青白い顔で頬骨にしわがより、髪の毛も薄い。
あの時は、とても綺麗な人だったのに。この人はいつから毀れているのだろう。
こんな牢屋みたいなところに押し込められて、何年になるのだろう。
「私はもうあの時の子どもではないのですよ」
半之丞は優しく話しかけた。すると、彼女は首を振った。
「なぜ、そんな意地悪を云うのです? 母に会えたのがうれしくないのですか」
「私には好きな人がいるのです」
そう云うと、美津が体を起こした。
「え?」
「私はその方に迷惑をかけたくないのです。ですから、ここを出て行きます。今なら、何もなかった事にできますから」
「どういう事なの?」
美津には分からなかったようだ。
半之丞は悲しかったが、心を押し殺した。
「私は黙ってここを出ますから、あなたは諦めて下さい」
「何をおっしゃってるの? どこへ行かれるの?」
「私がここに居ては、あなたに迷惑をかけてしまう」
「母が子を望んでいるのですよ。どうして離れようとするのです?」
美津は泣きだすと袂で顔を覆った。
「あなたをずっと探していたのに。半之丞」
「美津殿」
「いやっ」
美津は駄々をこねる子どものように首を振った。
「行かないで、半之丞っ」
「錠を開ける鍵を貸してください」
「いやよ、いやっ」
美津は畳に顔を伏せた。
「美津殿……」
半之丞が優しく背中を撫でると、彼女はゆっくりと袂から鍵を取りだした。そして、半之丞に手渡した。
「戻って来てくれるんでしょ?」
「これを…」
半之丞は着物の袂をぐいと引いた。糸が切れて身頃から離れる。
その袂を美津に渡した。
「あなたにあげられるものはこれくらいしかありません。もう、私のことはお忘れください」
美津は震える手で袂を受け取り、胸に抱きしめた。
半之丞は黙って立ち上がった。振りかえらずに鍵を開けて外へ出ると、女の泣いている声が微かに聞こえた。
誰にも見られずにそっと屋敷を後にする。
そういえば、風呂敷包みを忘れてきた。
しかし、自分が何かを持っていったことを知っている者はいまい。
半之丞は息を吐いた。
もう、二度と忠弥には会えない。
いや、会うまい。
半之丞は歩きだした。次第に小走りになり、目に涙がにじんでいた。
三浦家へ戻らず実家へ帰った半之丞は、夕餉も食べず自分の部屋へこもった。
文机に向かって顔を伏せていると、外から声がした。
「半之丞、戻っているのですか?」
「姉上」
弓江の声だった。
「入ってよいですか?」
「ええ」
沈んだ声を悟られぬよう声を張り上げたが、姉は中に入るなり顔をしかめた。
「なんです? その泣いたような赤い顔は」
半之丞は、ぐっとこぶしを握りしめた。
「申し訳ありません」
「夕餉は召し上がったの?」
「え?」
顔を上げると、先ほどとは打って変わって姉が心配そうな顔をしていた。
「成沢家へ行っていたのではなくて?」
「行っておりませぬ」
「そう……」
姉は何か知っているのだろうか。
身構えると、姉が沈んだ声で云った。
「わたくし、厳しいことばかり云って、あなたを苦しめているわね」
ハッとすると、弓江は唇を噛んでいた。
「姉上、私はもう成沢様とはお会い致しません」
「えっ、どうして?」
弓枝がびっくりした顔をした。
「私はもうあの時の子どもではございませんよ。目が覚めたのです。単なるあこがれだったようです」
「何かあったの?」
弓江は不安そうな声で、半之丞の顔を覗き込んだ。
「いいえ」
半之丞は苦笑した。
「もしかして、小園様に断られたことで悩んでいるの?」
「違います。あ、でも、そうですね…」
半之丞は頷いた。
「私はどうやら思っていた以上に、小園様のことをお慕いしていたようです」
「まあ!」
弓江は口を押さえると、弟に近寄って手を取った。
「安心なさって。わたくしがあなたにピッタリのお方を探して参りましょう」
半之丞は苦笑した。
「姉上、しばらくはそっとしといてもらえますか?」
「ええ、ええ。もちろんですとも」
弓江は神妙に頷いた。姉はよほどうれしかったのか、笑みを浮かべたまま部屋を出て行った。
静かになった部屋で、半之丞は吐息をついた。
明日、堀内道場を辞める手続きをしよう。
道場はいくつかあるし、それよりも勉強に力を入れよう。
自分は剣客向きじゃない。
兵馬は悲しむかもしれないが、勉強に励みたいと云えば分かってもらえるだろう。
忠弥さん…。
成沢忠弥の名を呟いた時、胸に熱いものが込み上げた。目頭が熱くなったので、歯を食いしばった。
今まで申し訳ありませんでした。俺は知らずうちにあなたを苦しめていた。
彼はどんな気持ちで自分と対面していたのだろう。もし、自分が同じ立場だったら、申し訳ない気持ちで一杯になるような気がした。
俺はもう、あなたを好きでいるのはやめます。今日まで幸せな毎日を過ごすことができた。それだけで十分です。
あなたを諦めます。
自分で云って、泣きたくなった。
頬を涙が伝う。
明日にはきっと、笑顔でいられるように。
別の自分になれるように。
想いを込めて、流れる涙をそのままにした。