小園の願い
思いを告げたからと云って、何かが変わるわけじゃない。
忠弥は相変わらず厳しく、半之丞はただの門弟だった。
それでも幸せだった。積極的に話しかける事はできずにいたが、そばにいるだけでよかった。
その日、汗を流し道場から出ると、外で小園が女中を連れて待っていた。半之丞は驚いた。彼女が一人で行動するのを見たことがなかったからだ。
「どうされたのですか?」
暗い顔をしている。小園は何も云わず、女中を引き連れて半之丞の後ろを歩きだした。
男女がそろって歩くのは目立つのだが、形ばかりとはいえ自分の許嫁ではある。無下にはできない。
すると、小園が小さな声で半之丞の名を呼んだ。何度か呼ばれて振り向くと、小園が唇を震わせて立ち止っていた。
「……浅ましいことをお願い致します。兄に…用事を頼みたいのですが、朝からこちらの茶屋に出かけると云ったきり戻ってこないのです。半之丞さま、小園の頼みです。兄を見つけて来ては頂けませぬか?」
「えっ?」
見ると、二人は掛け茶屋の前で立ち止まっていた。
半之丞は、孫四郎の能面のような顔を思い浮かべると、身震いがした。
「と、とんでもございません。わたしがそんなことをしたら、谷村殿に何を云われるか」
慌てて断ると、小園は涙ぐんでしまった。
「そうですよね、厚かましい頼みだと分かっていましたのに、どうしても、兄が心配で」
いったいどういう兄妹なのだ、と云いたくなる。
「し、心配などなさることないですよ。谷村殿だって、時にはお茶を飲みたいときはあります」
何を云っているのか。
自分でも間抜けだと思ったが、肩を震わせる小園に何を云ってもダメな気がした。そばにいる女中は何を思っているのか、無関心を装っている。
何だかいじめているようで、ばつが悪い。
半之丞は息を吐いた。
「分かりました。中に入って、様子を見て参ります」
そう云うと、小園の顔がぱあっと明るくなった。何度も頭を下げる。
「感謝いたします。半之丞様」
半之丞は、おそるおそる茶屋の方へ歩いて行き暖簾をくぐった。
中は広々としており、土間に床几がいくつか置かれ、そこに何人か人が座ってわいわいとしゃべって茶を飲んでいる。
当然、孫四郎の姿はなかった。
店の者に聞いてみると、奥座敷で誰かと飲んでいるらしい。
声をかけてもらえるかと聞いたが、あまりいい顔をしなかった。それも当然だろう。
半之丞は納得して、小園にそのことを話しに行った。すると、彼女は、兄が出てくるのを待つと云いだした。
「えっ」
半之丞はまたも驚いた声を上げた。
「いつ出てくるか分からないのですよ」
「いけませんか? わたくしのしていることはおかしいのでございましょうか」
小園は唇を噛んで、半之丞を恨むように見ている。
困ってしまった。
茶屋で女と座っているだけでも朋輩に見つかると、何を云われるか。
しかし、断って面倒な事になるのも嫌だった。
もう破れかぶれだ。
「分かりました。ですが、一杯だけですよ」
少しだけ強めに云うと、小園はうれしそうにほほ笑んだ。
「ありがとうございます。半之丞様」
半之丞は、小園を連れて茶屋の中へ入った。
すぐに茶汲み女が現れる。菓子と茶を頼み、床几に座った。
ちらりと小園を見ると、緊張した面持ちで何もしゃべらない。半之丞も何を話せばいいのかさっぱり分からずお互い黙ったまま、ひたすら刻が過ぎるのを待った。
お茶と菓子が出ても、小園は何も云わず静かに食べ始める。
菓子は、麩焼きという名で、薄く焼いた小麦粉に餡を包んであった。甘い餡がとてもおいしかった。きっと、姉の弓江なら好む味だろうと思う。
ちら、と小園を見たが、彼女は黙々と麩焼きを食べていた。
半之丞は思わずため息をついた。
帰りたい…。そう思った時、外を見知った武士が二人通りかかった。
半之丞は思わず茶を吹きこぼしそうになった。
誰であろう。兵馬と忠弥である。二人は楽しそうに話しながら歩いていたが、兵馬がすぐに半之丞に気づいた。
「お、珍しいな、半之丞が茶屋にいるなんて」
目を丸くして近づいて来る。
半之丞は思わず肩をすぼめていた。兵馬の背後では、忠弥が怖い顔でこちらを見ている。
女と茶屋にいることがきっと、武士らしくないのだろう。
何か云われるかもしれない。
心構えしたが、忠弥は何も云わず行ってしまった。
あ――。
半之丞はがっかりした。
声もかけてもらえず、見捨てられたような気持ちになった。
「まあ、気を落とすなよ」
去って行く忠弥を見て、兵馬が励ますように肩を叩いた。
「それより、小園殿と何を食べているのだ?」
兵馬は興味津々と云った様子で隣に腰かけると、菓子を覗き込んだ。そして、麩焼きを手に取ると、パクリとほおばった。
「うまいなあ」
もぐもぐと食べてしまう。そして、半之丞の茶を飲み干すと、サッと立ち上がった。
「では」
みじめな気持ちの半之丞をよそに、さっさと帰ってしまった。
もう、限界だ。帰ってしまおう。
薄情にもそう思って立ち上がった時、小園が先に動いた。
「兄上っ」
奥座敷の方から、孫四郎が現れた。そして、なぜか、その背後に叔父がいた。
半之丞が目を丸くしていると、孫四郎は、叔父に軽く挨拶をして、傍らに立つ小園を見ると、優しい顔つきに変わった。そして、二人はそのまま並んで店を出て行ってしまった。
取り残された半之丞は、叔父に肩を叩かれるまで呆けていた。
「おい、帰るぞ」
ハッと我に返る。
「お、叔父上、谷村殿と何をお話なさっていたのですか?」
「断られたのさ」
「え?」
叔父がにやにやと笑って云った。
「孫四郎の方から、小園との縁談はなかったことにしてくれと申し入れてきた。もちろん、そのつもりだったから断らなかったが、まあ、少し飲もうと、俺の方から誘ったのよ」
それを聞いた半之丞は、はああ…と大きく息を吐いた。
「どうしたのだ?」
叔父が目をぱちくりさせる。
半之丞はゆるゆると首を振った。
「いいんです。何でもありません…」
せめて、忠弥に見られる前に、それが分かっていたなら、あんな思いをせずに済んだのに。
しかし、事は終わった後だった。
谷村家に断られ、孫四郎と小園は姿を現さなくなった。
安堵したが、茶屋での一件を朋輩に見られていたらしく、それが弓江の耳に入ったようで、姉に呼び出された。
半之丞には、長男と姉が二人いて、自分は末子であった。
姉二人のうち、長女はおっとりしていたが、次女の弓江はいつも弟に厳しかった。どうやら、あの時のかどわかし事件が尾を引いているらしかった。
姉は、あれからわがままを云わなくなったが、半之丞にはもっと強くなれ、と云うようになった。
今目の前に襷がけをした姉の弓江が立っている。手には木刀が握られており、半之丞の構えの型をじっと目を光らせていた。
「姉上、少し休みませんか?」
体調を気遣って云ったつもりだが、彼女は首を振った。
「なりませぬぞ、半之丞」
打ちこみを始めてだいぶ日が傾いたが、いっこうにやめる気配がない。
半之丞は汗だくだった。
その時、縁側から女中が現れ、半之丞に客だと伝えた。
ああ、助かった、と半之丞は息をついた。姉は不機嫌に女中を睨んだが、
「では、ここまでといたしましょう」
と、ようやく解放してくれた。
だいぶ手がしびれていた半之丞は、木刀を下ろし手拭いで顔を拭きながら、女中に聞くと、居間で待って頂いていると云う。
「誰だい?」
と聞くと、林兵馬が来ていると云った。
友達の名前を聞くと、心が和んだ。
姉の相手をしていると非常に疲れる。すぐに着替えてゆくからと伝えて、井戸で汗を流した。
着替えて居間に行くと、兵馬が茶を飲んでくつろいでいた。半之丞を見るとにこっとする。
「待たせてすまない」
半之丞が謝ると、兵馬は苦笑した。
「いや、いいよ。弓江殿が来ていたんだな。相変わらずだね」
「まあね」
半之丞はため息をついた。
「今日はね、忠弥さんの屋敷でお祝いごとがあるんで呼ばれたんだ。一緒に行こう」
忠弥の名前が出たとたん、ドキドキと心ノ蔵が鳴りだした。
お祝いって何だろう。
忠弥と酒を飲み交わす。
想像しただけでのぼせそうだ。そう思った時、あの日に見せた冷たい顔を思い出して、急にずーんと気が落ち込んだ。
もしかしたら、女と茶屋にいるような軽薄な男と思われているかもしれない。
「いや、俺はやめておくよ」
小さい声で断ると、兵馬が、え、と云う顔で見た。
「なぜだ?」
「気持ちは嬉しいけど、俺は誘われたわけじゃないし、ご迷惑かもしれないから」
「迷惑? そんなこと云われたのか?」
「云われていないけど、谷村殿の一件もあるし…」
「断られたのだろう?」
「うん…」
小園との婚約は破棄されたことは、もうみんなに知られていた。
「だったら、何も気にすることはないさ」
そうなのだが、あの日以来、なんとなく忠弥の態度が冷たいような気がしていた。
稽古をつけてくれるが、前ほど熱心に見てくれない。もしかしたら、見切りをつけられたのかもしれない。
そうだ。どうして気づかなかったのだろう。
半之丞は今さら気がついた。
かどわかしの事件があって以来、本当は心よく思っていなかったのではないか。
それを、彼は偉大な方だからと自分にいい聞かしていたのかもしれない。
「ありがとう。やっぱりやめておくよ」
「そうか? 忠弥さんは残念がるよ」
「そんなわけないよ」
笑ってごまかしたが、本当に残念がってくれたらどんなにうれしいか。
でもそれはない気がした。
残念そうに去る兵馬を見送り、半之丞は叔父の家に向かった。
弓江が屋敷に居るため、これ以上、姉の顔を見るのは辛かった。
姉もそうだったのかもしれない。何も云わず、叔父の家に行くのを許してくれた。
三浦家に着くと、夕餉のしたくをしていた。
叔父は、半之丞を見るなり、風呂敷包みを押しつけてきた。
「何ですか、これは?」
玄関先で押しつけられ面食らった半之丞は、叔父を見上げた。
「成沢家で祝い事があるらしく呼ばれたのだが、俺は出かけたくない。お前、届けてくれ」
「えっ」
「長女の赤ん坊の百日祝いだそうだ」
忠弥に妹がいたのか。全然知らなかった。
風呂敷の中身はお赤飯だそうで、叔父の命令ならば従うしかない。
半之丞はしぶしぶ成沢家へ行く羽目となった。
成沢家までは築地塀が続く道を行き、四つ辻を曲がってさらにその先にあった。屋敷の敷地自体が広いため、わりと距離はある。
門をくぐり中へ入ると、中間が客を待っていたのかすぐに人を呼びに行った。
待っている間、緊張していると、玄関に現れたのは落ち着いた紫苑色の小紋を着た女性だった。忠弥よりも年が上に見える。
半之丞は挨拶をすると、女性は微笑んで、自分は忠弥の姉だと云った。
「そなた、名は?」
「み、三浦半之丞と申します」
忠弥の姉はちらりと半之丞の手に持っている風呂敷包みを見た。
「三浦殿もお祝いに来て下さったのですね」
にっこりと笑って式台を下りると、半之丞の手を取った。
え、と顔を上げると、中へお入りくださいと云った。
「あ、でも、私はこの品を届けに参っただけですから」
丁重に断ったが、忠弥の姉は笑いながら首を振った。
「そんなことおっしゃらないで、どうぞ、お上がり下さいませ」
忠弥の姉の力は強かった。
どうぞどうぞ、と云うので、断るのも申し訳ない気がした。
成沢家に入るのは初めてだ。
忠弥の姉に従い、長い廊下を突きあたり、さらに曲がって進むと、母屋へ繋がる廊下へと出た。
奥座敷に通されるのだろうと思い、ついて行くと、忠弥の姉がここで待っておくようにと、部屋に通された。そこは誰もおらずひっそりとしており、床の間には一輪の花が添えられていた。
「あの、ここは…」
振り向くと、忠弥の姉の姿はなかった。
仕方がないので、風呂敷を置いて待っていると、すぐに忠弥の姉が現れた。
酒器を用意し、杯に酒を注いだ。
「お、お待ちください。あの、忠弥さんは?」
びっくりして問いただしたが、彼女は何も云わなかった。
「さ、どうぞ」
云われるまま手に持って口をつけたが、落ち着かずすぐに杯を置いた。帰らねばと思い、無作法を知りながら立ち上がると、腰にしがみつかれた。
「えっ、えっ?」
何が起こったのか、半之丞は恐怖に震えた。
女の力は凄まじく、指が腰に喰い込んでいた。
「あ、あの、離してくださいっ」
「嫌です」
忠弥の姉ははっきりと云って、半之丞を押し倒した。
腹に乗っかられて、半之丞はギョッとした。
「ちょ、何をっ…」
思わず強く押し返すと、姉の体は簡単に投げ飛ばされた。
床の間の一輪挿しが倒れたが、誰も来なかった。
半之丞は部屋を飛び出して廊下を走ったが、行き止まりで雨戸が閉め切られ、戸には施錠がしてあった。
振りかえると、忠弥の姉が髪を振り乱して立っていた。
手には短刀が握られていた。
うつろな目で近づき、おびえる半之丞を抱きしめて、刀を持っていない手でゆっくりと頬を撫でた。
「あなたを探していました」
「え?」
忠弥の姉の目から突然、涙があふれだした。
「あなたは私の子です。私が産んだのですよ」
かたん、と短刀が床に落ちる。
姉は手を伸ばすと、半之丞の顔を両手で包み、じっとのぞきこんだ。
半之丞は、この冷たい指先を知っている気がした。
「あなたは…」
呟いた時、忘れようとしていた記憶を思い出した。