憧れ
久しぶりの湯屋に満足して二階へ上がると、忠弥がのんびりと外の景色を眺めているところだった。
半之丞はまたもやドキリとした。
ああ、まだいらしたのだ。
嬉しさに半之丞の心ノ臓が激しく打ち始める。
一方、兵馬は顔を明るくさせると、いそいそと忠弥のそばに行った。
「いい湯でしたね」
「ああ」
半之丞は心の準備をしていなかったため、先程と同じように喉がカラカラになってしまっていた。
声を出さなきゃ、と思うのだが、いつもと違う状況に緊張する。
すると、忠弥の方が気を利かせたのか、半之丞に隣に座れと声をかけてきた。
「お主、まさか、まだ俺に慣れぬのか?」
率直な物云いが忠弥らしい。
呆れたような顔をしていたが、怒っている風ではない。
半之丞は、咄嗟に謝りかけて言葉を探した。
いやいやここで謝ってはいけない。
「仕方がないですよ。半之丞は幼い頃からずっとあなたに憧れてますからね。忠弥さんだって覚えがあるでしょう」
「は? なんの話だ?」
兵馬が横から口を挟んできたが、要領を得ない。
半之丞は胸が暗くなった。
知らなかった。
忠弥さんに誰かいい人がいたのだろうか。
「ほら、堀内道場のお嬢様」
「ああ……!」
忠弥が思い出したように膝を叩いた。
「昔の話だ。もう、何年になるかな。カナ子様は五つ年上で、俺が門弟になった頃には皆伝を貰っていた」
忠弥が笑っている。半之丞はその笑顔に見惚れた。
「ん? それと同じか? まあ、確かに、俺もあの頃はカナ子様を目にすると緊張したな」
「そ、その方は美しかったのですか?」
「ん?」
半之丞が思わず声を上げてしまうと、忠弥がこちらを見た。
「そうだな。体の線もほっそりしていて小柄だったが、剣の速さは誰もついていくことができなかったな」
美しさの答えではなかったが、忠弥にとって憧れだったのだろう。
話ぶりからそれが感じられた。
相手は女性、自分は男。
忠弥が憧れた相手が女性であったのは意外であったが、どう転んでも半之丞には勝てる見込みはない。
「そ、そうでしたか……。よほど美しい方だったのですね」
「あら? そうでしたの?」
突然、半之丞の背後から女の声がして、一同はそちらを見た。
すると、かなり恰幅のよい、いい感じに横に広がった武家の女性が、風呂敷つつみを抱えた女中を従えて立っていた。年は忠弥よりもいくつか上に見える。
「おお、カナ子殿かっ」
忠弥の顔が見たこともないほど破顔した。半之丞は息を止めた。
「今、貴方の話をしていたところです。ところで、どうしてここに? まさか、お一人で湯屋へ参ったというんじゃあ、あるまいな」
「ここにちゃんと共の者がおりますよ」
「この時刻に女子は珍しいからな」
「あら、わたくしはもっと早くから来ていたのです」
久しぶりに会ったのに、二人の会話はトントンと弾むようだ。
「聞きましたぞ。カナ子殿のご息女も剣の腕が立つとの噂が」
「唐突ですのね。どこからそのような噂が? それに成沢様らしくありませぬ」
「俺らしくないとは?」
「そのような噂を信じるようには思えません。そもそも、わたくしの娘どころかまだ一人も生んでおりませぬが」
「そうか、それはすまんかった」
全然、すまないと思っていないように豪快に笑った。
そばで話を聞いていた半之丞は、忠弥が珍しく饒舌だなと思い、胸がツキンと痛んだ。
そもそも忠弥は女好きである。
茶屋にはなじみの女、お染だっているのだ。
自分は焼き餅を焼く資格もない。
「では、成沢様、もし、わたくしのお子が産まれたら、男でも女でもあなたの弟子にしてくださいますか?」
「え?」
一瞬、カナ子の頬が染まった気がした。
半之丞は、忠弥がどのように答えるかハラハラしながら見守った。
すると、忠弥は頭を掻きながら困ったように答えた。
「ああ、それは難しいな」
「……え?」
断られると思わなかったのだろう、カナ子がきょとんとした。
「すまぬ。今はこいつのことで手がいっぱいでな」
と、半之丞の腕を取った。
「男にすると約束をしたのだが、これこの通り軟弱すぎていつになるやら分からん」
半之丞は取られた手のたくましさにドキドキした。
風呂上がりで火照った体がさらに熱くなる。
「も、申し訳ありません……」
小声で謝ると、カナ子がこちらを射抜くように見た。
「カナ子様は湯屋にお背中流してもらいに来たのですか?」
「は? 一体何のこと?」
突然、横から兵馬が間抜けな事を云いだす。
「三助じゃなくても、こちらの湯屋であれば、きっと湯女でも運気が上がるんじゃないですかね」
「お主ら、それが目的か」
「そんなの出鱈目でしょ」
カナ子が鼻で笑った。
「いいえ!」
突然、半之丞が声を出すので、忠弥もカナ子もびっくりした。
「真実ですよ。だって、俺……。ここに来ただけでこんなに……」
恥ずかしくて次が云えない。
忠弥が苦笑している。
「そう言えばお主、以前に俺の背中を流したいと申しておったな」
「は、はい」
「ならば、今度頼むぞ。その時もまだ、軟弱なままでは許さんからな」
「は、はいっ」
半之丞は答えながら、もうこのままでいい、と思った(いや、駄目だろ)。
カナ子はふんと鼻で息を吐くとそのまま階下へ降りていった。
兵馬はニコニコしながらいつものように、よかったな、俺のおかげだなと半之丞の背中を叩いた。
初めて、兵馬が友達で本当に良かった、と半之丞は思った。
そして湯屋へ来てよかった、と心から笑った。
第三章 そうだ。湯屋へ行こう! 終わり




