第6話:悪魔
「次にご案内するのは、今、来ている占いの館になります」
先程までいた建物を出て、外に出た。
丁度、シンデレラ城のような洋風のお城をくぐり抜けて入り口と反対側に出てきた格好になる。
見上げると、銀色に輝くまんまるの月が天頂に達しようとしており、その冴えた光が薄ぼんやりと遊園地を青く照らし出していた。
あいかわらず、ボクとツクミ以外、ここにはいないようだった。
あちらこちらにあるアトラクションは稼働をしているようで、キラキラとした光を放っているのだけれど、人の気配というものがなかった。
キョロキョロとあたりを見回しながらツクミの後をついて行ったボクだが、よそ見をして歩いていたせいで、ぽんと彼女の背中にぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
ぶつかったのは、彼女が突然立ち止まったからであるのだが、ボクはとりあえず謝った。
「こ、こちらこそ申し訳ありません」
「どうしたの?」
「いえ、ひとつ、注意事項を思い出したのです」
そう言って、彼女はこちらに向き直る。
その銀色の不思議な瞳が、月明かりを返してなおさら神秘的に輝いていた。
「注意って?」
「はい⋯あの、これから入る館には『占い師』がおります。もしも、その子から何かを買うように勧められても、決して買わないと約束してください」
「う⋯うん」
そもそも、ボクはお金を持っていない。
買おうとしても買うことなんてできないと思うのだが⋯。
ボクの回答に満足したのか、ツクミがにこりと微笑んだ。
「では、ご案内します。あちらが、当園が誇る『占いの館』です。どうぞ、お楽しみください」
彼女が指し示したのは、『館』というよりはサーカスのテントに近い感じのものだった。『今、来ている』とツクミが言っていたように、おそらく興行みたいな感じなのだろう。
ボクがテントの入口の暗幕を開いて中に入ろうとすると、ツクミがそこで立ち止まる。『こないの?』と尋ねると、彼女は『ええ、彼女は私が多分嫌いなので』なんて言っていた。
変なの⋯そう思いながら、ボクは暗幕の中に体を滑り込ませた。目が慣れない内は何も見えなかったが、すぐに薄ぼんやりとした照明に目が慣れて、中の様子を窺い知ることができた。
天井からなにかキラキラしたものが吊り下がっている。それはよく見ると銀色の金属プレートのようなもので作られた月や星、星座などを模したオブジェだった。それ以外にも、入口と同じような暗幕が幾重にも天井から下がっており、なんとも神秘的な雰囲気を醸し出していた。
こころなしか、外よりもひんやりしているような気がした。
「あら⋯お客様ですね?」
奥から女の人の声がした。
どうやら更に暗幕がかかっており、その向こうに誰かがいるらしかった。
その暗幕をめくってそっと中を覗く。
あ⋯
そこにいたのは、オリエンタルな黒尽くめの貫頭衣を身につけた髪の長い女性が座っていた。何よりボクを驚かせたのは、その目が黒い布で覆われていたことだった。
「ああ⋯この格好に驚かれたのですね?
申し訳ありません。驚かせるのは本意ではないのです。
ツクミが⋯いえ、ここのオーナー様の指定で、このような格好に⋯」
そう言うと、にこりと笑った。
「どうぞ、おかけください。
私は夢占い師の『ユメノ』です。
この遊園地には、ひと月に一度、こうして出張してきているんです」
お見知り置きを⋯そう言って頭を下げた。
「本日は、占いですか?
それとも、夢のご購入?」
そんな風に聞かれた。ボクは咄嗟にツクミの『注意事項』を思い出した。
「あ⋯えっと⋯お、お金を持っていないので⋯」
「そうですか⋯分かりました。
では、夢占いをいたしましょうか⋯」
「夢占い?」
「なにか、覚えている夢はありますか?」
ボクは頭を捻ってみたけれども、その実、ここに来る前のことは全く覚えていなかった。当然、今朝見た夢なんかも何もわからない。
仕方がないので正直にそれをユメノに打ち明けた。
するとユメノはカードを一組出してきて、そこから一枚引くように言ってきた。
「心配いりません。ちょっとしたカード占いです。
ここで出たカードにちなんだ昔語りを、
私からさせていただくことでいかがでしょうか?」
ほら、丁度この格好、アラビアンナイトのシェヘラザードのようでしょ?
そう言ってまた、彼女は微笑んだ。
彼女が手の中でスプレットしたカード⋯タロットカードに似ているそれから、恐る恐る一枚引く。促されて表にすると、それは、鮮やかなボールの上で玉乗りをする耳の長いカイザルひげの男性が描かれていた。
「おや⋯『デビル』のカードですね」
目隠ししてるのにどうして分かるのか、ユメノがふわりと笑いながらそう言った。
「よくないカードなの?」
思わず尋ねると、彼女はちょっと首を傾げる。
「『デビル』のカードの物語⋯このお話をどう思うか⋯
それは人それぞれかもしれません。
貴方様は一体⋯どう思うのでしょうね⋯」
そして、彼女はゆっくりと物語を紡ぎ出す。
それは最後の悪魔と女の子の⋯不思議でキレイな、物語⋯。
☆☆☆
【最後の悪魔】
それは雨がさらさらと降るある夜のお話。
少女がベッドの上でふと気づくと、カーテンの向こう、ベランダに人影がありました。
おかしいわ⋯ここは地上から45階もの高さ、なのに⋯。
泥棒だということは考えにくいです。下から登ってくることなんてできませんし、ましてや空から降ってくるなんてことは考えられません。お隣から?いや⋯この建物のこのフロアには、少女の住む部屋のみがあるのですから、それもありえません。
その影は、座り込んでいるように見えました。
途方に暮れているようにも。
少女は、ちょっと興味が出ました。重い体を引きずるように、ベッドから降りると、カーテンを開き、窓を開けました。
男がちらりとガラスに目をやると、そこには、くたびれた感じの白髪の男性が座り込んでいるのが写りました。
もう大分、年なのでしょう。顔はシワだらけです。そして、服装はと言えば、黒のスーツにゆるくだらしなく結ばれたネクタイもまた黒色で、それはまるで大分昔の人の葬礼の際の着物のようでもありました。
「もし⋯どうかなさいましたか?」
透き通るような声で少女は尋ねました。男性が顔を上げると、銀の眼鏡が部屋の明かりに照らされてキラリと少し光りました。
その顔を見ても見覚えがないものだから、少女は男性に更に尋ねることにしました。
「もし⋯私は、あなたのお顔を忘れてしまったみたいです⋯。思い出せませんの」
男は薄く目を開けると、小さく答えました。
「なあに⋯そりゃそうさ。あんたとあたしゃ今ここで初めて出会ったんだから」
「まあ、そうでしたのね!」
少女はびっくりしましたが、ふと気づきました。
外は雨。
そして、男がいるベランダにはビュービューと雨が吹き込んでいるのです。
男の方を見て、部屋を見て、また男の方を見て、少女は決心して言いました。
「もし、お嫌でなければこちらにいらっしゃいませんか?そんなところにいたら凍えてしまいます」
「いいんですかい?こんな得体のしれねえの部屋に上げちまって」
男は言いました。
でも少女は首を振りました。
「だって、窓に鍵などかかっていませんでした。
貴方がなにか悪いことをなさろうというのなら、
とうの昔にされていたでしょうから」
だからどうぞ、と。
少女に促され、男はやっとのことで立ち上がると、部屋にのそりと入り込んできました。そして、暫く歩くと、また、ぺたりと座り込んでしまったのです。
ついでに、大きな音でぐぅ〜とお腹がなっていました。
「まあ!お腹が空いてらっしゃるのね。
お待ち下さいな、今お茶をお淹れしますから」
そう言って、次の間に行こうとするのですが、ゲホゲホと咳き込んで、しゃがみ込んでしまいました。男がちらとベッドテーブルに目をやると、そこにはガラスの水差しと薬の袋が置かれているのが分かりました。
また、よく見ると少女の顔は血の気がなく青ざめており、肌は病的なまでに白かったのです。男が鼻を鳴らすと、そこに死の匂いが漂っているのが分かりました。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん⋯」
「ゲホゲホ⋯あ⋯すいません⋯今、お茶を⋯ゲホっ!」
なおも立ち上がろうとする娘でしたが、体が思うように動かないようでした。すぐにまた、しゃがみ込んでしまったのです。
「お嬢ちゃんは、俺に茶を淹れてくれようってわけだな?それは願いか?」
少女は、はて、妙なことを聞くなと思いながら、小さく頷きました。
「ええ、⋯ゲホっ⋯
淹れて差し上げられたらと思うのですが
⋯お茶菓子もありますの」
その言葉を聞くや、キラと青く男の目が光りました。
ほんのささやかですが、少女の願いが男に奇妙な力を与えたようでした。
「お陰で動けるようになったぜ⋯そのままでいいぜ?
お嬢さん⋯どれ、お茶は俺が⋯」
そう言って、先程まで動くのもやっとな感じだった男は、すと立ち上がると胸ポケットから真紅のハンカチを取り出して、部屋にあった丸い木のテーブルの上にサッと広げました。
「まあ!」
その様子に、少女は咳をするのも忘れて見入ってしまいました。なにせ、広げたハンカチはまたたく間に大きくなりテーブルクロスに、そしてその上には白くてきれいな模様のついた陶器のティーセットが現れたのです。
「貴方は奇術師でらっしゃったのですね」
男はまるで数千年前のおとぎ話に出てくる貴族のような慇懃な礼をすると、にこりと笑って首を振りました。
「いえいえ⋯お嬢さん。わたくしは奇術師ではありません⋯悪魔です」
わざとらしい口調で言うと男は少女を助け起こし、部屋にひとつきりの椅子に誘いました。そして、これもまた大仰な手つきで、ティーカップに紅茶を注いでみせたのです。
ふわりと、良質の茶葉の良い香りがあたりに漂いました。
カップをそっと、少女の前に置くと、男は一言、付け加えたのです。
「それも、最後の⋯ね」
そこに少女はどこか淋しげな色を感じました。
「悪魔⋯さん?
それも、最後の、だなんて⋯」
もちろん、世間知らずとは言え、少女も『悪魔』が何を意味するのかは知っていました。もし目の前の男が、彼女の知っているような悪魔だとしたら、それは恐ろしいことかもしれない、そう思ってもいました。
しかし、目の前にいる男性からは、何やらちっとも怖い感じは伝わってきませんでした。
男はことり、とティーポットを机の上に置くと、サッと再びカーテンを開きました。
外は未だに雨が降り続いています。
その光景を眺めながら、ふと言いました。
先程までの慇懃な様子は、悪魔の本来ではなかったみたいです。
だいぶ砕けた言葉遣いになっていました。
「ま、俺以外は皆、死んじまったんでね」
振り向いてひょいと肩をすくめてみせる。
「今どき、悪魔なんざ、流行らねえだよな」
そんなふうに言って、自嘲気味に笑いました。
少女はお茶をまた一口飲んで、そんな悪魔に向かって小首をかしげて尋ねました。
「死んでしまった⋯それはどうしてですか?」
それは本当に、純粋な疑問だったのでしょう。本当は応えるつもりなんてなかった悪魔でしたが、少女の純粋さにほだされたのかもしれません。小さく笑うと、ため息混じりにこう答えたのです。
「人間と共に我ら悪魔族が生まれて、早数万年⋯
俺たちゃ人の夢と引き換えにその魂をいただくっていう『契約』を生業にしてきたんだ⋯ま、要は魂を食い物にしてきたわけだ」
「まあ⋯」
魂を食い物にする、と聞いて、少女の目が若干怯えの色を見せたことに悪魔は気づいていました。
「びびったかい?」
「えっと⋯ちょっと」
それはひどく正直な回答でした。
まあ、いいやと思ったのか、悪魔はまたゆっくりと話し続けました。
「いつ頃からかな⋯人が世界に溢れて、技術が進歩して、人一人の手に世界が余るようになって⋯人口増加が停滞して、AIなんかができちまって⋯科学だなんだと、世界がピカピカと明るくなっちまった辺りからか?
夢⋯見なくなっちまったんだよな」
「夢を⋯ですか?」
「そもそも人が夢見なきゃ『契約』は成り立たねえ。
『契約』がなけりゃ俺たちゃ飯が食えねえ⋯
そうなったら、悪魔がたどる道はひとつだったよ」
悪魔はガリガリと頭をかきむしり、苛立たしげに外を見つめました。
「見ろよ⋯世界は枯渇した。
降り止まねえ酸性の雨、森も、海も川も死んだ。
人間だけが昔のテクノロジーにしがみついてかろうじて生きていやがる。
それも、ただ『生きてる』だけだ。
自分の魂と引き換えにしても国を手に入れようなんつー野心家も、
命を賭してまで愛を貫こうっていう薄幸の美女も、
今となっちゃ、はるか昔のおとぎ話だ」
悪魔はまた小さく息をつきました。
「夢を叶えずに魂を貰おうってほど、
俺らは邪じゃなかったってこったな⋯。
それで気がつきゃ俺が最後のひとり⋯
『最後の悪魔』ってわけだ」
悪魔はくるりとおどけて回ってみせました。
道理で、顔も手もシワだらけ、頭は白髪に覆われているわけです。
⋯なにせ悪魔はもうかれこれ1000年以上は『食事』をしていないのですから。
そんな悪魔を見て、少女はそっと立ち上がりました。真っ白なネグリジェに黒く長い髪の毛がとても美しい様子でかかっていました。少女は夢のような足取りで悪魔のそばまで来ると、同じように外を眺めたのです。
暗い雨は先程よりも激しく、バチバチと音を立ててバルコニーを叩いていました。
しばらく見ていた少女が、ふと、悪魔の方に向き直りました。
「ところで、夢は⋯いくつ叶えてくださるの?」
悪魔は一歩、退いて、少女の背中を見つめています。
その目が値踏みするかのように、すうっと細くなりました。
「3つ⋯だ」
「そ⋯じゃあ、1つ目のお願いいいかしら?」
悪魔からはその表情は見えませんでしたが、口調から少女が微笑んでいることが分かりました。
「ん⋯ああ、いいぜ?」
一体、この娘はどんな願いをぶつけてくるのか⋯
悪魔は期待が半分、そして、もう半分は自分でも説明のつかない蒙昧な気持ちでもって、少女が願いを言うのを待ったのです。
「月を⋯見たいんです。
昔の人は、月を見上げたのでしょう?
その美しいと言った月を私も見てみたい」
少女は悪魔の方を振り返り、『できるかしら?』といった、ちょっと悪戯っぽい表情を浮かべました。
悪魔は虚を突かれました。そんな願いをかけてくるとは、想像だにしていなかったからです。
「月⋯?」
その言葉には、本当にそれでいいのか?というニュアンスが込められていました。しかし、少女はためらうことなく
「ええ」
と頷いたのでした。
「ま、まあ⋯お嬢ちゃんがそれでいいってんならな⋯」
言うと悪魔は右手で宙にくるりと輪を描くと、ぱちんと指を鳴らしました。そして、少女にもう一度、後ろを振り向くよう言ったのです。
「どうだ?」
少女がそこに見たのは、雨が止み、何百年にも渡って空を覆い尽くしていた汚れた黒雲が晴れた空の姿でした。そこには、月が青く蘇っていたのです。
彼女は、思わずベランダに出ると、テラスに体を預けて、空を見上げて溜息をつきました。
「素敵です」
まるで月明かりを余すことなく浴びようとするかのように目を閉じて佇んでいた少女は、不意に素晴らしい思いつきをしたかのように目を輝かせました。
「そうですわ⋯。ねえ、悪魔さん⋯二つ目のお願い、よろしいかしら?
あの街の灯りを全部消してしまってくださいな。
ほら⋯皆さんにも、この月明かりに気づいて欲しいの⋯だから⋯」
そうです。少女が見下ろす街には、あの天上の月の美しい光を鈍らせてしまうほどの昼の欠片が無数に散らばっていたのです。
「随分お優しいこったな⋯」
悪魔は諦めたかのように少し口角を上げると、いささかの皮肉を込めたような口ぶりでこう言いました。
そして、悪魔が左手をすっと横に伸ばすと、街の灯りは潮が引くように消えていったのです。少女の部屋の明かりも例外ではありません。見渡す限り全ての『人の創り出した光』が消えてしまったのです。
それにつれて、空の月明かりは、なおさら強く輝くようでした。その有り様は、青いベールが世界を包んだように見えました。少女の体もまた、美しい月明かりに青く染め上げられていきました。
テラスからしばらくその光景を見つめていた少女でしたが、くるりと悪魔の方を振り向いたのです。冷たく青い光の中、少女の漆黒の髪の毛がふわりと踊りました。
「ねえ、悪魔さん⋯最後のお願い、いいかしら?」
そう言って笑った少女に、悪魔は内心、面食らったのです。
「おい、嬢ちゃん⋯願いは3つだぜ?」
「ええ」
「意味、分かってるのか?」
「もちろんですわ」
いたずらっぽく笑う少女に、悪魔は指先で頬を掻いたのですが、ええいままよと、その願いを聞くことにしたのです。
「んで?なんだ⋯病気を治せとか、そういうやつか?」
半ばやけっぱちです。むしろ、そうであってほしいとさえ思ったのです。
しかし、少女はそっと首を振りました。
「父も、母も⋯
随分前から疲れ果ててしまっているんです。
生まれたときから私は病気で、
ずっと、ずっと縛り付けてしまっていた。
でも、ふたりとも笑ってるんです。
⋯もう私は、十分良くしてもらったんです。」
もう一度、彼女は月を見上げました。
「こんなにきれいなお月様を見られたのですもの。
⋯生まれてから、何もできなかった⋯
誰のためにもならなかった私には⋯
もう、もらい過ぎなくらいですわ」
だ、か、ら⋯
「悪魔さん⋯ここに来て、一緒に月を見上げてくださいな
⋯できれば、そうね、その眼鏡を外してくださいませ」
悪魔はきゅっと唇を噛みました。しばらく視線を泳がせ、ためらう素振りを見せたのですが、ついに、ゆっくりと眼鏡を外すと、テラスの方へと歩を進めたのです。青い月明かりは、少女を染めたのと同じように、悪魔の黒い髪、黒い服⋯そして、その心をも優しく青い光で包みこんでいきました。
そうして彼もまた、少女の横に並んで月を見上げたのです。悪魔は、自分が月を最後に見たのは一体いつだっただろうと考えました。もしかしたら数百年ぶり⋯もしかしたら1000年を超えていたかもしれません。
ああ⋯月ってのは、こんなにもデカかったか⋯。
悪魔の漆黒の瞳に、月がゆらりとその影を落としていました。
「さあ⋯これでいい
⋯ん?」
願いは叶ったのかと少女に尋ねようとして、悪魔が視線を横に目を向けると、自分の顔を見上げている彼女の瞳に目が止まりました。
その少女の瞳は、どういうわけか美しい夜の色をしていたのです。
「な⋯何だよ」
あまりにまっすぐ見つめられたので、その瞳には悪魔の顔が映り込んでいました。
そして驚いたことに、そこに映る姿は、最初に少女が見たような老いてくたびれた姿ではありませんでした。
20代後半ほどの怜悧な程に白い肌を持った紳士として、映っていたのです。
随分⋯まあ、見くびられたもんだ⋯。
こんな姿になったからにゃ、それに相応しい振る舞いをっ⋯ということかい?
紳士の姿となった悪魔がそっと少女の顎に手をやります。
「お前の目には、俺はこんな姿で写ってるのか⋯」
「あら、姿を変えるのも悪魔のサービスのうちかと」
別に悪魔の魔術のせいではなかったのです。もともと、悪魔というのは固定した姿を持っていません。見る人の心がその姿に映し出されるのです。
「こんな優しげな姿になったのなんざ
⋯生まれて初めてだ」
「あら?そうですの?」
ふふふ⋯。少女は笑いました。
「願いは叶いましたわ」
「一緒に月を見るっていうのが?そんなんでいいのか?」
「いいえ、私の願いはね⋯こうして人の瞳に映る月を見てみたい
⋯ずっとそう思っていたんですよ?
だってそれって、とてもロマンチックじゃないですか」
悪魔さんの目の中に、確かにお月様は見えましたよ。
少女はそう言って、いたずらっぽく笑ったのです。
それは本当に、満足げな微笑みでした。
そして、もう一度、空に目を向けました。
「ねえ、私の目にも映っているかしら?あの月が⋯」
悪魔は空を見上げ、少女を見つめ、そしてまた空を見上げました。
ふたり並んで、空を見上げたまま、照れ隠しみたいに言ったのです。
「ああ⋯映ってるぜ」
「それだけ?」
「んんっ!⋯ま、綺麗だな」
「ふふ、ありがと」
少女は微笑むと、悪魔からその身を離し、クルッと回ってみせました。その表情はとても愉快そうです。着ていたネグリジェの裾がふわっと夢のように広がりました。
「さ、これで私の魂とやらは⋯あなたのもの⋯ですね」
少女にとって、ここで悪魔に魂を奪われるのも、このまま運命に任せて死んでいくのも、さして大きな違いはなかったのです。いえ、むしろ、この突然訪ねてきた奇妙で素敵な悪魔に、進んで命を預けてしまおうとすら思ったのかもしれません。
しかし、悪魔の答えは少女の予想とは違うものでした。
「あ?⋯なんねーよ」
きょとんとした表情で悪魔を見つめる少女でしたが、悪魔はまるであさってのほうを見ながら続けました。
「嬢ちゃんの魂はまだ嬢ちゃんのもんだ」
「だって、お願い、3つ叶えてもらいましたよ?」
「まだひとつ残ってる」
「え⋯だって⋯」
「最後のはノーカンだ。俺も月を見たくなった。
だからここまで来た。
嬢ちゃんに言われるまでもなく、見たくなった⋯それだけだ」
少女は一瞬、ぽかんとしましたが、クスクスと笑いました。
「じゃあ、もうひとつ、願いを考えないといけないですね」
そうして、まあ、どうしましょう、と何事かつぶやきながら、指折り数え始めました。悪魔が耳を澄ますと、その願いの候補というのは『空を飛びたい⋯なんて危ないかしら』『いっしょに踊ってもらおうかしら』『それとも⋯お菓子を食べていただこうかしら』などというものばかりだったのです。
悪魔は額に手を当てて、そっと首を振りました。
そういうことじゃねえんだよなあ⋯
「なあ、嬢ちゃん、無理に3つ叶えなくてもいいんだぜ?
な⋯まあ、また気が向いたら来るからよ、そん時までにでも決めといてくれや」
そう言って、悪魔は眼鏡を再びかけました。
月明かりを返してキラリと光るそれが、悪魔の表情を隠してしまいます。
そして地面を蹴ると、ふわりとその身を宙に躍らせ、テラスの縁に立ちました。人間にとっては軽業のように見えることでも、悪魔である彼にとっては容易いことでした。
そもそも、悪魔というのは、願いを叶える代償として魂を奪う存在ではないのです。『どんな願いでも叶える』という甘い誘いに乗って私利私欲で願いを叶えた人の、その邪な魂を奪って生きるものなのです。
そんな悪魔にとって、清浄で美しく、明るい微笑みで守られている少女の魂は、とてもじゃないけど奪うことなどできないのでした。
⋯まったく、とんだ時間の無駄だったぜ。
だからです。悪魔は二度とここに戻ってくるつもりなどなかったのです。少女はその美しい心を抱えながら天寿を全うするでしょう。そして、その美しい魂はそのまま天に昇って、あの美しい星のように輝くことでしょう。
「んじゃあな⋯元気でな⋯嬢ちゃん」
そう言って、テラスの壁を蹴り、その身を宙空に投げ出そうとした刹那、ぎゅっとズボンの裾を少女に掴まれてしまったのです。
「待って、待って待って!思いつきました!とびきりの願いですわ!」
それは、少女自身も驚くほどの鮮明な声でした。こんなにも切ない思いで、そして、こんなにも大きな声で人を呼び止めたことなど、生まれてこの方、少女にはなかったのです。
この時点で、悪魔はもう少女の魂を奪う気なんてこれっぽちもなかったのです。ただ、その真剣な声に答えてやりたいと、そんなふうに心の底から思っただけでした。
⋯やれやれ、今度はどう言ってはぐらかすかな⋯
とん、と少女の傍らに降り立つと、悪魔は少女の頭にぽんと手を置きました。
「ん⋯まあ、一応言ってみな。」
悪魔の端正な顔が間近に迫って、少女はドキンと心臓が跳ね上がるような思いをしました。一瞬、喉を詰まらせてしまいましたが、それでも一音、一音、はっきりと悪魔にその願いを伝えたのでした。
「悪魔に⋯いいえ⋯あなたのお友達やお父様、お母様、ご兄弟の方々に、私を
逢わせてくださいな」
これが、最後の願いです。
少女はすいと悪魔から視線を外しました。
その顔は月の青の中にあって尚、紅色に染まっているのが分かるほどでした。
「あなたのような、優しい人たちに⋯
もっと、逢ってみたいのです」
悪魔はまるで、一瞬にしてあたりの温度が2〜3度下がったかのような、そんな錯覚を覚えました。どうしていいか、わからなくなったのです。
「できま⋯せんか?」
なおも少女は言います。
悪魔は一度目をぎゅっとつむり、唇を噛みました。
きっと、こいつは断っても別の願いをひねり出すに違いねえ⋯
それに、そもそも、んなこと、できるわけねえ。
たとえ往時のような魔力があったとしても、
一度この世から消え去った悪魔を呼び戻すなど、
できるはずなどないのです。
まあ、できなきゃ、できないで⋯な。
悪魔にしたら、
ここで少女の魂を逃せば、多分、
次の獲物を見つけることができずに自分は消滅する、
それが分かっていました。
少女が『失望』すればおそらく、
悪魔に残された時間もまたそこで潰えるのです。
悪魔は、少女の方に目を向けました。
少女はまるで疑う様子もありません。
その目は先程の月をまだ映したかのようにキラキラと輝いていました。
その瞳を見て、悪魔は思ったのです。
でも、まあ⋯いいか⋯最後こんな思いができたんだしな⋯
そして、覚悟を決めたように目を細めて笑いました。
「ああ⋯わかった、そうしよう。
最後の願いだぜ?
しっかり、目に焼き付けろよ!」
悪魔はもう一度、眼鏡を外しました。
そして、大仰に手を振り上げ一礼すると、胸に手を当てます。
まるでその姿は、舞台に立つ気障な奇術師のようでした。
「はい」
少女もまた、にこりと笑いました。
「Ladies and gentlemen!
今宵、最後の大マジック⋯
太古の昔から地上にはびこる悪の使徒!
大悪魔、中悪魔、小悪魔たち⋯
さあさ、この地に、呼び戻してご覧に入れましょう!!
うまくいったら、拍手ご喝采を!」
高らかに口上を述べ、手を振り上げ、パチンとひとつ指を鳴らしました。
「まあっ!」
するとどうでしょう。
その指先から七色の光が幾筋も伸び、部屋を明るく照らし始めました。
「夢を見なくなった人間たちに見放された哀れな種族、
悪魔たちよ!」
悪魔は確かに呼びかけました。
はるか昔に消えた同胞たちに。
しかし、返答などあろうはずもありません。
光は確かに溢れましたが、それだけでした。
ま⋯こんなもんか
これが⋯限界ってもんだろ?
「嬢ちゃん⋯これ以上は」
口を開き始めた時、少女が『まあ!』と先程よりも大きな声を上げたのです。
溢れた光が闇を造り、
闇はゆらぎ、固まり出しました。
そして、そこからひとり、
またひとりと影が立ち上がり始めたのです。
「おいおい⋯嘘だろ!?」
ゆらゆらとした影は、次々と人の形を取り始めます。
あるものはピエロのような格好を、
あるものは美しい衣装を纏う女性のように、
あるものは長い髭を蓄えた老人のような姿を⋯。
老若男女、様々な格好をした人が、部屋の中に溢れ、窓から外にまで踊りだしました。
やっぱり悪魔なのでしょう。不思議なことに、空中でくるくると回転したり、ステップを踏んだり、楽器を演奏したり、歌ったり⋯
瞬く間に、辺り一面賑やかなパーティのようになったのです。
その中央で、気障な奇術師のような悪魔は、
まるで奇跡を見ているかのように、あんぐりと口を開いていたのです。
「まあ、まあ!悪魔さん⋯。
これがあなたのお父様やお母様お友達、なんですの?」
少女が嬉しそうにはしゃぎました。
青く光る青年のような悪魔が、少女の手を取って踊り始めます。
その後ろで、大玉にのったピエロの悪魔が楽しげにバイオリンを弾き鳴らしました。
「なんだよ⋯」
その光景を見て、最後の悪魔は、
ポツリと呟きました。
「夢ぇ忘れてたのは、
俺も同じだったんかよ⋯」
少女はコックの姿をした悪魔が差し出したケーキをひとつ、口に入れていました。
そのまま少女は、妖精の羽の生えた数人の悪魔に手を引かれ、窓から外に飛び出していきます。
月明かりの注ぐ中、大勢の悪魔たちが飛び回り、踊っていました。
悪魔は空を仰ぎました。
その揺らぐ瞳に映るのは、月影と、
もう還らない思っていた同胞たち、
そして、夢を忘れなかった優しい少女が、
くっきりと映っていたのでした。
☆☆☆
「これ⋯悪魔と少女はこの後どうなったの?」
話し終えたユメノに、ボクは思わずそう尋ねていた。
「どうなったら、いいと思います?」
しかし、ユメノに逆にこう尋ねられてしまった。
「もし、この話の続きを作るとしたら、貴方様ならどうしますか?
人を喰らう悪魔を蘇らせた少女は魂を取られて死んでしまう?
それとも、別の終わり方を考えられますか?」
ボクは、うん⋯と考え込んだ。
お話はとてもキレイで、情景が浮かぶようだった。
でも、少女が悪魔に魂をとられて死んでしまう、というのはなんだか納得ができなかった。
「最後の願いは⋯いったい誰の願い⋯だったんだろう?」
ふとそう漏らした。
ユメノがくくくっと含み笑いをした。
「いいですね、それ。
もしよろしければ、このデビルのカードを差し上げましょうか?」
んんっ!
いつの間に部屋に入ってきたのだろうか、
ユメノのセリフに重ねるようにツクミが咳払いをした。
どうやら、カードを貰うな、という意味らしい。
「おやおや⋯厳しいお目付け役がいらっしゃるようで⋯
でも、たとえカードがなくとも、貴方様なら、
今夜の夢の中で、お話の続きを見られるかもしれませんよ?」
それはきっと美しい物語になるでしょうね⋯。
そんな不思議なことをユメノが言った。
そして、にこやかに手を振って、こう続けた。
「では、また夢の購入をしたくなったらおいでください。
その時は、ツクミなしで来てくれると、私は嬉しいですね」
「そんな時は来ないので、ご安心を!」
ピシャリと告げて、ツクミがボクの手を引く。
ボクはまだ少し混乱したまま、占いの館をあとにすることになった。
外は眩しい月明かりが落ちている。
その月の光を見上げて、さっきの話をまた、思い出していた。
「続き⋯ホントに見られるのかな?」
もしそうなら、みんなが幸せになるお話になればいいとボクは思った。
彼女もまた、ボクの横で同じ月を見上げていた。
「そうですね。
きっとユメノの言う通り、美しいお話になるでしょうね」
月を仰ぐその顔は、なんだかひどく懐かしいことを思い出しているような、
そんな不思議な表情に見えた。
「さあ、次のアトラクションに参りましょうか。」
ぼんやりとしていたボクにツクミがいつものセリフを投げかけてきていた。
気づくと、そこにいるのはいつものツクミだった。
ボクとツクミは、月明かりの下、次のアトラクションに向けて歩き始めた。




