第9話 迎えた朝
第9話 朝の道
どれほど長く顔を覆っていたのか、仁には分からなかったが、閉じた瞼の向こうが少しずつ白み、湿った畳と古い木材の匂いに朝の冷たい土の気配が混じり始めた頃、背後で自分と重なっていた呼吸が、いつの間にか消えていることに気づいた。
それでも、仁はすぐには手を下ろせなかった。
気配を消しただけで、もう一人の自分が耳元に立ったまま、安心して顔を上げる瞬間を待っているのではないかと思うと、指一本動かすことさえためらわれ、やがて手の隙間から恐る恐る窓を確かめたときも、薄明るいガラスに映っているのが疲れ切った自分一人であることを、素直に信じることはできなかった。
背後を振り返らないまま壁伝いに立ち上がり、顔を伏せて戸口へ近づくと、昨夜、外側から太い棒と家具で塞がれたはずの引き戸は、指が入るほどの隙間を残して開いており、押し当てられていた物も、戸を固定した痕跡さえも、最初から何もなかったように消えていた。
仁が戸を押し開けると、霧の薄くなった集落が、朝とも夜ともつかない灰色の光の中に沈んでいた。
家々の戸は半ば開き、軒下には薪や籠が昨夜のまま置かれ、畑には濡れた作物が並んでいたものの、煙の上がる家も、食事を支度する音も、人が起き出す気配もなく、集落全体から住民だけが静かに抜き取られたようだった。
仁は声を出さず、道端に置いた車へ向かった。
走って逃げたい衝動はあったが、背中を見せれば、昨夜のものが再びそこへ立つような気がして、足を速めることもできず、霧に濡れた土を一歩ずつ踏みしめているうちに、後方から複数の足音が聞こえ始めた。
足音は追いつこうとはせず、仁が歩けば歩き、止まりかければ同じように速度を落としながら、一定の距離だけを保ってついてきた。
振り返ることはできなかったが、ようやく車へ辿り着き、運転席の窓に映る背後を確かめると、昨夜公民館にいた村人たちが、道の中央へばらばらに並び、仁から三十メートルほど離れた場所で立ち止まっていた。
誰一人として仁を見てはいなかった。
彼らの顔はすべて、仁が出てきた公民館の方へ向けられており、目を伏せ、口を固く閉じたまま、建物の中から次に何が現れるのかを待っているようだった。
仁は震える手で鍵を差し込み、何度目かでエンジンをかけた。
始動音が霧の中へ響いた瞬間、村人たちは一斉に顔を両手で覆った。
それは仁から顔を隠したというより、これから公民館を出てくるものへ、自分たちの顔を見せまいとする動きに見えた。
仁はアクセルを踏んだ。
車が走り出しても村人たちは追ってこず、バックミラーの中で次第に小さくなりながら、誰もが顔を覆ったまま、朝霧の中へ立ち尽くしていた。
集落の端へ差しかかったところで、公民館の戸がゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、仁と同じ作業着を着た男だった。
男は俯いたまま道の中央へ立ち、走り去る車へ顔を向けることもなく、山の静けさを確かめるような落ち着いた声で名乗った。
「佐久間仁です」
その声には、もはや借り物らしい違和感がなかった。
仁はバックミラーから目を逸らし、霧の先に続く道だけを見てアクセルを踏み込んだが、集落を抜けるまでのあいだ、後部座席のどこかから、自分と同じ呼吸が微かに聞こえていた。




