第10話 帰還
仁が県道へ戻ったのは、集落を出た日の朝ではなかった。
霧の中を車で下り始めてから先の記憶は途切れ途切れで、同じ形のカーブを何度も曲がったことや、バックミラーの端に白い作業着が映るたび、確かめずにアクセルを踏み込んだことは覚えているものの、いつ林道を抜け、どのように舗装路まで辿り着いたのかは思い出せず、次に意識を取り戻したとき、仁は市内の病院のベッドに寝かされていた。
会社の人間から、現地調査へ出発してから三日が経過していると聞かされたとき、仁は相手の言葉を理解できず、枕元の時計と窓から差し込む昼の光を何度も見比べた。
予定時刻を過ぎても連絡がなく、携帯電話も通じなかったため、会社はその日のうちに警察へ届け出ており、仁の乗った社用車が発見されたのは三日目の早朝、調査予定地から十数キロ離れた県道脇の待避所で、エンジンをかけたまま停車している車内から、意識を失った仁が見つかったという。
身体には目立った怪我がなく、診断も脱水と軽い低体温症、それに極度の疲労というものだったが、三日間山中をさまよったにしては作業着も靴もひどく汚れておらず、車の燃料も出発時からほとんど減っていなかった。
仁の感覚では、山へ入ってから一晩しか経っていなかった。
腕時計は十時四十四分で止まり、車内の時計も同じ時刻を示したまま動かなくなっており、携帯電話には会社や家族からの着信が大量に残されていたものの、集落にいたはずの時間帯については、位置情報も通信記録も完全に途切れていた。
事情を尋ねられるたび、仁は地図にない林道へ入り、霧の中で集落を見つけたことを説明したが、公民館で自分と同じ声を聞いたことや、同じ顔をした男が背後に立っていたことまでは話せず、ただ「佐久間仁が入ったのは、この場所です」と、自分でも不自然に感じるほど姓名を繰り返した。
退院後、仁は上司と同僚二人を連れ、もう一度現地へ向かった。
山へ近づくだけで喉の奥が狭くなり、霧の気配を探して何度も窓の外を見たが、あの場所を確かめなければ、三日間の失踪も、集落で起きたことも、すべて自分の錯乱として片づけられてしまうように思えた。
県道までは間違いなかった。
見覚えのある橋を渡り、杉林に挟まれた緩い坂を進み、仁は林道の入口が近づくと助手席から身を乗り出したが、右手に続いていたはずの分岐は現れず、そこには古いガードレールと、杉の生えた急な斜面が途切れることなく続いていた。
場所を間違えたのだと思い、県道を何度も往復し、橋からの距離を測り、カーブの数や電柱の位置まで確かめたものの、車一台が入れるような道はどこにもなく、仁が入口だと指した場所へ降りてみても、斜面には何十年分もの落ち葉が積もり、太い杉の根が地面を覆っていた。
同僚の一人が、困ったように山を見上げた。
「ここに道があったとは思えないぞ」
仁は答えられなかった。
三日前まで車で通れた道が消えるはずはなく、仮に廃道を見間違えたとしても、轍も切り株も崩れた路肩も残らず、長い年月をかけて育った杉だけが並んでいることを、現場を知る仁自身が最も理解していた。
会社へ戻ってから古い地形図や航空写真、林道台帳を調べても、仁が走った道も、その奥にあった集落も、一度として記録された形跡はなかった。
調べれば調べるほど、佐久間仁が見たものだけが、現実から取り残されていった。
それでも仁は、あの集落を夢だったとは思えなかった。
公民館から出てきたもう一人の男よりも、最後まで顔を覆い、自分たちの前を通り過ぎるものを見まいとしていた村人たちの姿の方が、今も記憶の中にはっきり残っていたからだった。
地図にも記録にも存在しないのなら、その土地で長く暮らしてきた者に聞くしかない。
仁は県道沿いの古い集落と、周辺に残る廃村の記録を調べ始めた。




