表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

第11話 佐久間仁

 県道沿いの集落を訪ね歩いても、仁の話をまともに聞こうとする者はほとんどおらず、山仕事をしていた老人たちは、地図を覗き込みながら幾つかの古い作業道を教えてくれたものの、霧の中に十数軒の家があり、公民館で一晩を過ごしたと話した途端、炭焼き小屋でも見間違えたのだろうと曖昧に笑い、それ以上は口を開かなかった。


 役場で古い住宅地図や林道台帳を調べても、仁が迷い込んだ集落の記録は見つからず、周辺の廃村を記した資料にも、明治期の地形図にも、それらしい地名や家屋の印は残されていなかった。


 調べるほどに、自分が見たものだけが現実から切り離されていくような不安に耐えられなくなり、仁は事情を説明するたび、「私、佐久間仁が入った場所です」「見つかったのも佐久間仁本人です」と、不必要に姓名を繰り返すようになっていた。


 以前なら、自分のことなど「私」と言えば足りていた。


 しかし、公民館で名前を尋ねられ、戸の外にいたものが仁の声で「佐久間仁」と名乗ってからは、姓名を口にしないでいると、その名と自分との結びつきが少しずつ薄れていくように感じられ、声に出して確かめるたび、自分が自分の身体へ戻ってくるような安堵を覚えるようになっていた。


 それがいつから始まった癖なのかを考えると、仁は決まって、朝霧の中で公民館から出てきたもう一人の男を思い出した。


 ある夕方、仁は県道から少し外れた古い商店へ立ち寄った。


 日用品と食料品をわずかに並べただけの小さな店で、色褪せた広告の貼られたガラス戸を開けると、石油ストーブの前に座っていた老婆が顔を上げ、仁の作業着を見るなり、何かから身を守るように両腕を胸元へ寄せた。


 「林道について伺いたいんです。私は佐久間仁といいます」


 仁が姓名を口にすると、老婆は椅子を引き、逃げ道を確かめるように店の奥へ目をやった。


 「何か、ご存じなんですか」


 老婆は答えず、仁の目を見ることもなく、口元や手の動き、それから床へ落ちた影を順に確かめていたが、仁が誰かにこの店を教えられたわけではなく、地図を見ながら一軒ずつ訪ねているのだと説明すると、ようやく浅く息を吐いた。


 それでも、警戒は解かなかった。


 仁が山の場所を示し、霧の中で鎌を持った老人に会ったことを話すと、老婆の指が膝の上で止まった。


 「どんな男だった」


 灰色の作業着を着て、腰が曲がり、濁った目をしていたと説明すると、老婆は長いあいだ黙ったあと、店の奥から古びた菓子箱を持ってきて、その中に入っていた一枚の写真を、仁の手が届かない場所へ置いた。


 写真には、山小屋の前へ並んだ十数人の男が写っており、最後列の端に、仁が林道で会った老人によく似た男が立っていた。



 写真の裏には男の名前とともに、昭和五十三年六月、行方不明、とだけ書かれていた。


 「この人は、見つからなかったんですか」


 仁が尋ねると、老婆は写真を裏返した。


 「帰ってきたという人もいた」


 「では、助かったんですね」


 老婆は小さく首を振った。


 「家へ戻った男は、顔も声も同じで、昔のことも知っていたそうだ。身体の傷も、箸を持つ手も、寝るときの癖まで変わらなかった。それでも家族は、どうしても前の人と同じには思えなかったらしい」


 何が違ったのかと尋ねても、老婆は知らないと答えた。


 話すときの間だったという者もいれば、笑うときの目だったという者もおり、何一つ変わっていなかったことこそが恐ろしかったのだと話す者もいたという。


 「その帰ってきた人は…偽物なんですか?」


 「知らない」


 老婆の答えは早かった。


 「写真の男が街にいる時に山で見たという話もあったけれど、そんな話は酒を飲んだ晩に一度だけして、翌朝になれば忘れる噂だ」


 「山に残った人、戻った人、本物と偽物、どちらかがどちらかにいるということでしょうか。」


 老婆は答えなかった。


 仁の問いに耳を塞ぐように菓子箱の蓋を閉め、その上へ両手を重ねてから、ようやく恐る恐る仁の顔を見た。


 「お前さんは戻ってきたんだな」


 「はい。私は佐久間仁です」


 姓名を聞いた途端、老婆の視線が再び逸れた。


 「何度も名前を言うな」


 「なぜですか」


 「知らないよ。ただ、昔帰ってきた男も、自分の名前ばかり口にしていたと聞いた」


 仁は胸の奥が冷えるのを感じた。


 名前を繰り返すのは、自分が自分であることを確かめるためだと思っていたが、そうしなければ佐久間仁でいられないという感覚そのものが、山から持ち帰ったものなのかもしれなかった。


 「その男は、その後どうなったんですか」


 老婆は菓子箱を抱え、仁から遠ざけるように胸元へ引き寄せた。


 「ある朝、いなくなった。山へ戻ったという者もいたし、最初から帰ってきていなかったと言う者もいた。それだけだ」


 老婆は立ち上がると、それ以上話すことを拒むように店の戸を開けた。


 外には、日が沈みかけた県道と、低い場所から流れ始めた薄い霧が見えた。


 仁が礼を言って車へ向かうと、老婆は戸の内側から、その背中をいつまでも見つめていたが、仁が運転席のドアへ手を掛けたところで、堪えきれなくなったように呼び止めた。


 「あんたが本当に佐久間仁なら、もう調べるな」


 仁が振り返ると、老婆は店の中へ半身を隠していた。


 「違うなら、なおさらだ」


 車へ戻った仁は、エンジンをかける前にバックミラーを見た。


「結局、なにも分からないじゃないか…」


誰に聞かせるでもなくつぶやきながら見たバックミラーに映っているのは、見慣れた自分の顔だった。


 額の皺も、左の眉にある薄い傷も、疲れたときにわずかに下がる口元も、記憶と食い違うところは一つもなく、その事実に安心すべきなのだろうと思いながら、仁はかえって、何も違わないことの方を恐れた。


 自分の記憶がある。


 家族の顔も、子供の頃の出来事も、仕事で犯した失敗も覚えている。


 しかし、公民館の背後に立っていた男も、やがてはそれらを知るのではなかったか。


 仁は、いつものように姓名を口にして、自分を確かめようとした。


 私は、佐久間仁です。


 けれど声を出す直前、その言葉を必要としているのが自分なのか、それとも佐久間仁であり続けようとしている何かなのか分からなくなり、開きかけた口を閉じた。


 バックミラーの中の男も、同じように口を閉じた。


 動きに遅れはなかった。


 それなのに仁には、鏡の中の男の方が、ほんの一瞬だけ先に名乗るのをやめたように見えた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「声を奪われる怖さ」や、帰ってきた佐久間仁が本物なのかという余韻を感じていただけたでしょうか。


少しでも怖さが残った、続きを考えてしまったという方は、ブックマークや評価、感想で教えていただけると、今後の怪談創作の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ